「小さき人々の記録」をみる   2001年2月5日

NHKスペシャル(昔はNHK特集)やドキュメンタリーなどを教材用に録画するようになって18年になる。今や「水島裏ビデオ」(社会の裏を見るビデオ)として、三桁の私的ライブラリーになっている。去年11月4日に放映されたNHKスペシャル「ロシア――小さき人々の記録」(再放送1月9日)は、何年かに一本の傑作だと思う。日頃テレビを「垂れ流し情報媒体」として付き合っている人々にとっては、多くの番組の一つにすぎないかもしれない。

だが、「残るもの」「残したいもの」は確実に存在する。私のライブラリーにもそういう作品が少なくない。「人間のこえ――日米独ソ兵士たちの遺稿」(1985年)、「黒人死刑囚――残された14日間」(1987年)、「ヨーロッパ・ピクニック――こうしてベルリンの壁は崩壊した」(1993年)、などは特に印象深い。

   「人間のこえ」は、このホームページのカバーの絵と出会わせてくれた、私の人生にとって運命的な作品である。戦死した4カ国の兵士を「敵と味方」や「国家の一員」ではなく、生きた人間あるいは個人として見つめ直したものだ。

  

実はこの作品、85年8月12日午後8時のオンエアだったが、始まって約10分後、木村太郎キャスター(当時)の緊張した顔があらわれ、「日本航空123便ジャンボ機が消息をたちました」の一言で番組は中止。再放送を録画した私のビデオにも、「日航機事故関連のニュースは10時15分から」というテロップが繰り返し入る。人間の「生と死」を深く考えさせる作品として、授業で何度か上映したこともある(『塹壕のマドンナ』日本放送協会として単行本化)。

  今回の「小さき人々の記録」は、これと同様のトーンで、巨大な国家のなかで懸命に生きる「個人」に光をあてたものだ。第二次大戦で住民の4人に1人が犠牲となったベラルーシ(白ロシア)。そこに住む記録作家アレクシエービッチの取材活動を、カメラは淡々と追う。

   

まず番組は、スターリンの「粛清」で父親を銃殺された娘のインタビューから始まる。そのなかで、シベリアで殺された住民の死体から石鹸を作っていたという衝撃的事実も明らかにされる。人間の脂肪の「有効利用」という点では、ナチスもソ連も同じだった。まさに国家的犯罪である。

  

さらに、独ソ戦で生き残ったのに、スターリンの戦術指導の誤りを隠すため「人民の敵」にされ、その後「英雄」になって名誉回復するも、ソ連崩壊ですべてを失って自殺した男の話。妻には「休暇に出る」とメモを残し、鉄道の線路に身を投げた。「英雄にされるまで、夫は私のものだった」と妻。国家の都合で翻弄され続けた個人の悲惨である。

 

次いで、アフガニスタン戦争から無事帰還した兵士とその母親の話。息子は戦場で精神を病み、帰国後凶悪な殺人を犯す。懲役15年。やっと息子は出獄したが、母のもとには戻らなかった。息子だけが生き甲斐で、ひたすら待ちつづけた母。新興宗教に入信して、教祖とともに母を糾弾する息子。ついに母は精神病院に入院する。病院内のベンチでのインタビュー。すべてをカメラは淡々と映していく。

  

そして、チェルノブイリ原発事故で現場に真先に飛び込んだ消防士の妻の話。重度の被爆をした夫を看病し、お腹の赤ちゃんを死産する。夫の死体は亜鉛の柩に。国家は「英雄」としてこれを扱い、妻のもとには返さなかった。同居する年老いた祖父は、なぜ夫の看病をしたのかと彼女をカメラの前で追及する。1600レントゲンも被曝した夫に近づけば自らも被爆するのに、と。妻は再婚。そこで生まれた12歳の息子にもインタビューする。彼も白血病で死を待つ。

番組は、ベラルーシの汚染された村々を歩く良心的科学者の活動も描く。汚染された牧草で育った牛の乳を飲み、病気になっていく貧しい家の子どもたち。くったくのない笑顔が痛々しい。そして、息子をチェチェン戦争に送るのを阻止する「母親たちの会」。「人々の語り方には明らかに変化が生まれている。かつては『我々』だったが、いま最初に来る言葉は『わたし』。『わたしの家、私の生き方…』。独り立ちする個人があらわれはじめている」。このナレーション(渡辺美佐子)にハッとした。

  

最後は、軍隊で虐待されている恋人を脱走させた恋人の話。化粧品店で働く普通の女の子だ。なぜ恋人を脱走させたのかと問われていわく。「チェチェンの戦争は政府には必要かもしれないが、ロシアという国には必要ないわ」。

  

番組は最後に、それまで登場した人々一人ひとりがカメラを見つめるシーンを流しながら、ナレーションがかぶさる。「これだけの被害者の声を聞いたのに、加害者はずっと姿を隠している。国家がつくり出す神話。それが最も恐れるもの、それは生きている人間の声です」。

  番組が終わってから、ドッと涙が溢れてきた。自分でも信じられなかった。哀れとか悲しいという気持ちではない。耐えがたく重い一つひとつのエピソードへの感動でもない。心の深奥から滴る涙。作品全体によって与えられた、まさに「心動」と言えるだろう。絶望と悲しみのどん底から、希望がかすかに見えてくる。体制に同化しない、生きた人間の顔が見える。旧ソ連・ロシアへの画一的なイメージを塗り替える迫力をもつ。そんな作品に出会えたことに感謝したい。

  

なお、アレクシエービッチの新著のテーマは、「個人としての生を取り戻そうとする記録」。市川ひろみさんの言葉を借りれば、「小さくされ、見えなくされていたものの大きな可能性」を問う仕事である。

トップページへ