ラオスという国を初めて訪れた。22年前に東ドイツに初めて入った時の緊張感に似ていた。ビエンチャン空港国際線は大変きれいだった。ターミナルは日本が全面的に援助したもので、それに比べ、国内線はトイレのドアも壊れており、その落差はすごい。国内線の旧ソ連製プロペラ機で30分。ジャール高原にあるシェンクアン県に入る。この県の北部では、昨年1月から政府軍と少数民族の反政府組織との武力衝突が起きている。外務省「海外危険情報」では危険度1「注意喚起」である。そこで、まわるのは紛争地域手前のポーンサワン市周辺にとどめた。空港(といっても田舎の駅舎みたいな建物)で雇った案内人は、古代の巨大石壺(ハイヒン)見学ツアーを始めた。だが、私の問題意識を途中で察知するや、直ちに「戦争ツアー」に切り換えてくれた。
この周辺にはベトナム戦争時の戦車の残骸がある(→画像)。対戦車砲の射入口がはっきりと分かる(→画像)。この一発で砲塔が10メートル以上も吹き飛んでいる(→画像)。不発弾がゴロゴロしている地域に入る。案内人の若い男はビエンチャン生まれ。彼の慎重な案内で、草が少し剥がれた一本道を進む(→画像)。ここだと指さされたところに丸いものが見える(→画像)。ボール爆弾の不発弾だという。背筋に冷たいものが走った。ベトナム戦争中、ラオス領内にはホーチミン・ルートがあった。とくにジャール平原一帯はベトナムの支援を受けた「ラオス愛国戦線」が支配していたので、米軍はここに200万トン以上の爆弾を投下したのだ。いま、貧しい住民たちにとっては、ボール爆弾の本体や大砲の薬きょうなどが唯一の鉄製品。これをベトナムに輸出して収入を得ている住民もいると聞く。戦争が終わって4分の1世紀たった今もなお、不発弾により、毎年100人前後の死傷者が出ているという。カンボジアの地雷被害は世界の注目を浴びているが、ラオスという地味な国における「もう一つの戦争後遺症」の実態については、今回取材するまで私も知らなかった。現在、日本を含む各国の資金・技術援助で、不発弾の回収や被害者援助を行っているが、この事実もあまり知られていない。少数民族モン族の集落に入る。ラオスには69の少数民族がいるが、モン族はジャール高原を中心とする高原地帯に住む。一軒の庭先にボール爆弾の親爆弾がゴロンと転がっていた(→画像)。案内人が何か叫んだので指さす方向を見ると、何と高床式の家の4本の柱がすべて親爆弾で出来ているではないか(→画像)。これには驚いた。ボール爆弾はミカン型の鋳物にアズキ粒大の小鋼球が300個ほど入っていて、これが細長い流線型の鋼鉄ケース(親爆弾)に300個詰めになっている。火薬は100グラムでも、爆発すると秒速0.5キロで四方八方に飛び散る。5メートルの距離で爆発すれば、人体を貫通するそうだ。これを300個詰めた親爆弾を投下すれば、9万個の小鋼球が飛び散って人を殺傷することができる(→画像)。同じタイプの兵器であるパイナップル爆弾(→画像)は不発弾が多いため、66年春から使われなくなったという(『ジェノサイド』青木書店参照)。
空港に向かう途中、案内人が所属するホテルに寄った。粗末なロビーには、薬きょうで作った花瓶やら、ボール爆弾などが飾ってある。これらを買い取る交渉をする。支配人がいないからだめだの一点張り。以前、ドイツ人旅行者も売ってくれといって支配人に断られたそうだ。ああ、好奇心旺盛で旅好きのドイツ人よ(笑い)。私があまりに執拗なので、案内人は別の場所に連れていった。そこには、爆弾や砲弾の類が棚に整然と並べてあった。パイナップル爆弾や棒地雷(旧ソ連製のPOMZ2M型)(→画像)、北ベトナム軍の対空砲の薬きょうまである。持てるだけ買ったが、どうやって日本に送るか不安になった。幸いホテルにはアメリカの宅配業者が入っていたので、そこに依頼することにした。窓口のラオス人は「品物」を見て、手が震えていたが、後から応対した責任者は日本人男性で、「まったく問題ありません」と笑顔で受け入れてくれた。その日本語にホッとした。この物騒な「お土産」は輸送費を加えると、プノンペンの大学教授の年収の3倍にもなった(といっても、月収が20ドル!)。
帰国後、研究室受付に行くと、全部無事に届いていた。これらの地雷やボール爆弾は、4月の講義の冒頭、OHC(教材提示装置) を使って学生たちに披露した。対人地雷の恐ろしさについて語ると、教室は静まり返った(なお、4年前に私は日本の対人地雷放棄をNHK視点・論点で指摘した)。今年の新入生が生まれたのは、ベトナム戦争が終わって7、8年後のこと。この戦争の後遺症が依然として続いている現実を知ってもらうのが、この「モノ語り」の狙いだ。講義後に学生たちと話してみて、苦労して入手したかいがあったと思った。