市民運動の人々に会うと、「マスコミの連中は…」とか、「ここのマスコミは私たちの運動のことを全然書かない」といった言葉を聞く。そういう時、私はこう言うことにしている。「皆さんは、○○新聞○○支局の○○という記者、あるいは○○放送報道部の○○記者と向き合っているのです。だから、その記者さんに色々と教えてあげてください」と。全国紙の一年生記者は地方支局から記者人生を始めるのが常である。だから私は、取材に来る記者に、「最初はどこの支局でしたか」と聞くことにしている。彼らの顔が一瞬なごむ。駆け出し時代のほろ苦い思い出がよみがえるのだろう。本題をはずれて、地方支局時代の話で盛り上がったこともある。事件現場を走り回る若い記者たち。彼らは支局長やデスクに怒鳴られ、悩みながら取材し、書いている。だから、「マスコミが書かない」のではなく、たまたまその記者のアンテナに引っ掛からず、記事にならなかったということもあり得る。だから、時間をかけて、誠実に記者と付き合えば、その記者の理性と感性に必ず届く。だから、「マスコミは…」なんて言わないで、お互いによい関係をつくることが大切なのだ。地方の場合、政治も経済も文化も「見渡せる」圏内にある。報道側も絶対数が少ないから、両者の関係に馴れ合いが生ずる余地もある。だから、緊張感を持続しながら付き合うことが大切になる。私も地方に13年暮らしたので、地方紙とそうした関係を作ってきたし、いまも続いている。全国紙の場合も同様である。専門家としてコメントしたりレクチャーする機会も多いが、時間を取られるわりに、結果は地味である。某全国紙の場合、長時間の取材を受け、コメントのゲラのやりとりを二度までやったが、突発事件による紙面調整でボツになったこともある。これで怒っていては、記者とは付き合えない。休みもなく、恒常的緊張状態にある彼らの悩みも深刻である。リストラの嵐はメディアの現場でも吹き荒れている。記事を書く記者が、割り付け・編集作業をするシステムも導入されつつある。記者自身が過労死寸前で過労死問題を取材するなんてことも、冗談ではなく現実の問題である。他社との「特ダネ合戦」(特オチへの恐怖)。いきおい、事件取材の現場も荒れてくる。その結果、犯罪の当事者や家族に対する「過剰取材」の問題が起きてくる。そうしたなか、5月25日、人権擁護推進審議会の答申が出される。これに先立ち、12日付『朝日新聞』や15日付『毎日新聞』が内容を事前入手して報じた。それによると、犯罪被害者などへの「過剰取材」や、報道によるプライバシー侵害などを「積極的救済」の対象にするという。新設される人権救済機関には、質問調査権(不協力には過料・罰金も)や文書提出命令権、立入調査権などの実効的な調査権限が与えられ、調査過程の公表等を通じて事実関係の解明や被害者の「積極的救済」がはかられるそうだ。人権救済機関は、独立性の高い行政委員会として、法務省からは切り離されるともいう。だが、何をもって「過剰取材」というのか。「過剰」の判断を行政機関に委ねるのは危ない。報道の自由は実にデリケートである。昨年、日弁連も人権機関の設立を提言したが、報道被害の救済については、あくまでもメディア側の自主的な取り組みを基本に、慎重な検討が必要だろう。いま、DV(Domestic Violence)、ストーカー、児童虐待など、私人間の関係について公権力の介入を呼び込む立法が目白押しである。今回の答申も「人権擁護推進」が旗印だ。誰も反対できない、美しい言葉。「個人情報保護法」や「青少年社会環境基本法」にも、立派な大義名分がある。だが、これらは公権力による新手のメディア規制としての側面をもつ。心してかからないと危ない。マスメディアの現場で働く人々は、自らの仕事の意味と方法を真摯に問い直しながら、権力に隙を与えないよう、十分な配慮をしていく必要があるだろう。昨年8月、日本ジャーナリスト会議のJCJ賞の授賞式で記念講演をやったが、そのむすびで、市民が「情報失調」(どうでもよい「情報」に振り回され、国政に関する重要情報を得られない状態)に陥らないようにするため、いまジャーナリストには何が必要か、と問いかけた。市民にも、マスメディアに働く人々を「敵」にすることなく、問題解決のために手を携えていく姿勢が求められている。
※首相公選論批判は、次週以降の掲載です。