今週は、『沖縄タイムス』10月6日付文化欄「沖縄の選択:米同時テロを超えて(2)テロは戦争ではない――世界に声あげるとき」を転載する。早大教員組合の大会を準備する仕事や京都での学会などのため、新稿を書く余裕がなかった。前回直言と重なるところも多いが、沖縄の人々に語りかける文章として書いたので、ここに転載する意味はあると思う。
「ことばもて、ひとは獣にまさる。されど、正しく話さざれば、獣、汝にまさるべし」これは、一一世紀ペルシャの抒情詩人サーディーの言葉である。30年間世界各地を放浪した末、ペルシャの地に戻って著した『ゴレスターン(薔薇園)』は、広い視野と含蓄に富む。
同時多発テロ事件の直後から、ブッシュ米大統領の口から出てくる「言葉」の数々は、まさに「獣、汝にまさるべし」の世界を彷彿とさせる。
9月11日のテロ当日、ブッシュは言った。「これは戦争だ」と。燃料満載の飛行機を、乗客もろともビルに突入させ、6000人もの命を奪う行為を、その規模と悲惨さから「まるで戦争だ」と形容するのはまちがっていない。だが、テロは戦争ではない。「航空機不法奪取防止条約」や「民間航空不法行為防止条約」(モントリオール条約)などに基づき、国際社会が毅然と共同対処すべき犯罪行為である。だが、ブッシュは「戦争」と言い切り、直ちに「報復」を叫んだ。国際法は「軍事報復」(正確には武力復仇)を禁止している。
自衛権の行使でさえ完全に自由ではない。国連憲章は自衛権の行使に二つの制約を課している。一つは、現に武力攻撃が行われたこと(先制的自衛は認められない)、もう一つは、攻撃されたからといって、逆上してすぐに反撃するのではなく、まず安保理に訴え、その措置を待つことである(憲章51条)。
加えて、今回は国家による攻撃ではない。テロ集団が潜むとされる国を一方的に攻撃することは、正当な自衛権の行使とは認められない。いかなる理由をもってしても、無辜の第三者を犠牲にすることは正当化できない。それは、20世紀までの歴史のなかで人類が築きあげてきた「戦争違法化」の国際法秩序をほり崩すものだろう。
「言葉」という点でいえば、反テロリズムの国際的連帯を傷つける「失言」として、「十字軍」と「限りなき正義」(9月25日までの作戦名)を挙げておこう。
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が今年3月から5月にかけて、ギリシャ正教やユダヤ教、イスラム教の代表と会い、900年以上前の十字軍遠征を謝罪したばかりだったので、この「失言」の罪は深い。
「限りなき正義」の方は、これがアラーの神を意味することから、イスラム世界から批判を浴び、異例の作戦名変更を行うはめになった。「味方にできなくてもいいから、敵にしない」の逆をいく、「味方のなかからも敵をつくる」愚行である。
「言葉」の罪深さは、日本政府も同様である。対米支援策や特別立法は、「憲法の範囲内」「後方支援」「武力行使と一体化しない」といった「言葉」の装飾が施されている。だが、ミサイル搭載護衛艦を、「調査・研究」(防衛庁設置法5条18号)を根拠に派遣するなど、「法治」ではなく「法恥」の世界に入りつつある。米軍の戦闘行動への直接支援行為は「武力行使と一体」であり、それは「憲法の範囲内」ではあり得ない。
少し立ち止まって考えてみよう。英国を除くほとんどの国は、反テロで米国に連帯しつつも、無謀な軍事報復には距離をとろうとしている。米国内でも、反戦デモが行われている。事件直後に比べれば、世界の世論も次第に冷静になりつつある。「われわれの側につくか、テロリストの側につくか」という選択を強要するブッシュ政権の独善性に、国際社会はついていけなくなっている。
そんななか、日本政府だけが、「湾岸の轍を踏むな」をかけ声に、対米軍事協力の準備を急いでいる。米軍の「殴り込み部隊」の基地を多数抱える沖縄は、「報復戦争」が行われれば、攻撃された国の人々から深い恨みをかうことになる。長期的にテロの対象にされる可能性もある。基地が安全を守ってくれるのではない。「基地があるから危険なのだ」という逆説が証明される日は存外近いかもしれない。
いま、米軍基地が集中する沖縄の市民が、世界に向かって声をあげる「とき」だろう。沖縄の心は、決して武力による平和を望まないことを。
再びサーディーの言葉で引いておく。「二つのものは知性の恥なり。語るべきときに黙し、黙すべきときに語るな」。