なぜ教育基本法の改正なのか  2001年12月17日

有倉遼吉早大教授は、日本教育法学会の初代会長として、教育法の理論的発展に大きく貢献された。25年前、大学院生の時に先生の授業(憲法研究)を初めて受けたとき、起立・礼で始まったのには驚いた。厳格な姿勢はすべてに貫かれていた。その有倉先生が情熱を傾けてとりくまれたのが教育基本法(以下、教基法と略す)である。

先生はこの法律を「準憲法的法律」と呼んだ。法的効力こそ一般の法律と変わらないが、内容的には憲法の理念を具体化するきわめて重要な法律である。前文の格調高い文章は、教育のあり方に関する普遍的メッセージとなっている。本文は全11カ条。教育の目的と方針(1、2条)、教育の機会均等(3条)、義務教育とその無償(4条)、男女共学(5条)、学校教育の公共性と教員の職責(6条)、社会教育の奨励(7条)、政治・宗教と教育の中立性(8、9条) 、教育行政の民主的あり方(10条) 、補則(11条) からなる。日本国憲法と同じ歳月を経た「準憲法的法律」にいま、手がつけられようとしている。

文部科学大臣は11月26日、中央教育審議会に対して、今後の教育改革の方向を定める「教育振興基本計画」と、「新しい時代にふさわしい教育基本法のあり方」を審議するよう諮問した。教基法は1947年に施行されて以降、一度も改正されていない。他方、教基法の理念に反する施策が長年にわたって展開されてきた(拙稿「戦後教育と憲法・憲法学」樋口陽一編『講座憲法学・別巻』日本評論社)。そしていま、戦後教育の「総決算」の最終ステージとして、教基法「改正」が日程にのぼったわけである。

 教基法をなぜ変えるのか。どこが不都合なのか。「愛国心が書かれていない」という類の改正理由は1950年代から主張されてきた。個人の権利が強調されすぎていて、義務がなおざりになっているという批判、公の視点が弱く、利己主義がはびこる、日本の歴史・伝統・道徳などについての記述が弱い、といった主張も旧態依然たるものである。「宗教的情操の涵養が落ちている」といった指摘に至っては、教基法9条を踏まえた議論をすべきだといいたい。教基法9条1項は、「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」と定めている。決して宗教を無視・軽視しているわけではない。ただ、国や自治体が設置した学校は、特定の宗教教育をしてはならない(同2項)。憲法の政教分離原則から当然のことだろう。

 ちょうど1年前、NHKラジオ「新聞を読んで」で、「教育改革国民会議」最終報告が教基法「見直し」を提言したことに言及した。放送では、教基法10条が、教育は「不当な支配」に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものと定めた意味を強調した。教育は実にデリケートなものである。その時々の政治や社会の論理からできるだけ距離をとり、長期的な視野で行われる必要がある。伝統・文化あるいは民族を過度に強調することは、教育の現場に混乱を持ち込むものだろう。

『毎日新聞』連載「時代の風」(12月2日付)で養老孟司氏(解剖学者)は教基法見直し問題に触れ、「子どもが変だとすれば、大人のせいに決まっている」「まず大人が自らを省みよ」と指摘している。同感である。審議会や「教育改革国民会議」で教基法攻撃をする「大人」たちの国家観、政治感覚、社会意識をみると、その薄っぺらさが浮き彫りになってくる。いま教基法を改正する必要性はまったくない。むしろ、教基法の理念から遠く離れた教育の現実的ありようを少しでも変える努力こそ肝要だろう。とくに過度な伝統の重視や「国に誇りをもてる日本人の育成」なんていうコンセプトは教育の現場を混乱させるだけである。「誇り」をことさらに強調する発想それ自体がそもそも胡散臭い。

 最近ドイツ・マンハイムの社会研究所(ipos)が行った世論調査によると、市民の85%が「ドイツ人として国に誇りをもっている」と答えたという(Die Welt vom 29.11)。学歴で分類すると、教育水準が上がるに従って、誇りをもつ人々の割合は「劇的に」減るということも確認された。基幹学校(Hauptschule)卒の人々の87%が「ドイツ人であることに誇りをもつ」と答え、中級卒業資格をもった人では71%、そして高等教育を受けた人では57%という数字である。

具体的にどんな点に誇りをもつかという点では、社会的安定(54%)、経済力(50%) 、文化的成果や民主的秩序(ともに39%)と続き、ドイツの歴史に誇りをもつという人は18%にすぎない。さらに、政治制度について誇りを感じるという人は西が44%であるのに対して、東では21%にとどまり、むしろ消極的評価の方が高い。

日本でも同様だと思う。「自分の国に誇りをもつか」と尋ねられても、その人がどのような中身を想定しているかにもより、答えは単純ではないだろう。子どもたちが学ぶ教育現場に、大人の政治的論理が過度に、あるいはストレートに持ち込まれることは望ましくない。無理に「誇り」を押し出せば、胡散臭い埃がついてくる。自分と自分の国、社会について学ぶなかで、それを誇りに思う気持ちも自然に出てくるはずである。だが、それを他人や他国の人々に対してあえて押し出すかどうか。むしろ、誇りに思う気持ちというのは、内に秘めておく自然なものではないだろうか。