はじめまして、OBです。もっとも私はベテラン司試受験生なので僕が在籍中は先生は教壇には立っておられませんでした(笑)。かつては保守主義に傾倒していた者として、今日は半ば自己批判を含めて平和主義に対してエールを送りたいと思います。
平和主義に対してよく寄せられる批判として「もし隣国が突然攻めてきたらどうする」という古典的ともいえるものがあります。しかしこの批判、問題提起は絶対のものといえるでしょうか。例えば親戚の家に遊びに行ったとして「なぜナイフを忍ばせておかない。もし、いとこが突然攻めてきたらどうする。なぜ攻めてこないと断言できる」といったらおそらく病気でしょう。「警察がいるから」というのは答えになっていないと思います。突然攻めてきたら警察を呼んでる暇はないからです。私は屁理屈を言おうとしているわけではありません。「もし攻めてきたら」という問題提起は少なくとも攻めてきてもおかしくはないといえるだけの蓋然性が存在することが前提になっていると思うのです。そうした蓋然性もないのに普遍的にあてはまる問題提起ではないということを申し上げたいのです。
国際関係は日々変動していると思います。ヨーロッパの血なまぐさい歴史と現在のヨーロッパを比較してみれば歴然です。今例えばフランスが、「もしドイツが攻めてきたらどうする」などと真剣に考えているとは思われません。「もし攻めてきたら」という問題提起自体が日々アナクロなものと化していきつつあるのを感じます。
石原氏がよくいう「中国の脅威」というのは本当でしょうか。彼が冷戦時代はひたすらソ連の脅威を言い立てていたこと別としても、私は中国と旧ソ連を同一視することはできないと思います。20世紀世界に脅威を与えた国として例えば日本、ドイツ、旧ソ連(ある意味ではアメリカも)があげられるかもしれません。これらの国には共通点があると思います。それは国際舞台では「成り上がり国家」であるということです。成り上がり国家はそれまで大国の胸を借りて思い切り活動しても、弱小であるゆえそれほど周辺諸国に迷惑をかけることはありませんでした。それが大国として成り上がった後も同じ精神構造のまま全力投球するのですから周囲の被害は甚大なものとなるわけです。
それに対して中国は違います。中国は2000年にわたって極東アジア唯一のスーパーパワーとして君臨していた国です。スーパーパワーとして君臨し続けるには、持てる力を抑制しなければならないことを経験的に知っていると思います。もし抑制しなければ周辺諸国を皆滅ぼしてしまい、自身もそのあおりで結局は滅びてしまうと思います。
ですから20世紀になってはじめてスーパーパワーとなった旧ソ連と、中国を同一視することはとうてい出来ない。つまり中国は国際社会の中での周辺諸国とのつきあい方に関して、日本やアメリカのごとき最近やっと力をつけてきた国にとやかく説教されるいわれはないというのが本音だと思うのです。
ヘンリー・キッシンジャー氏はむしろ脅威は日本だと一貫していってます。かつて保守主義に傾倒していたものとしては彼の主張は大変よくわかるのです。つまり保守主義は人間のみならず国家もそう簡単に行動形態は変わらないと考えます。そして日本のこの100年を見てみますと戦前は軍事的に侵略していたのが敗戦でそれができなくなったのでベクトルの方向が経済に向かっただけで侵略的である点ではむしろ共通しているというのです。そうだとしたら、再びベクトルの向きを変えたらまたかつてと同じことが起きるというのです。最近胎動する「普通の国」への志向は彼の見方をある程度裏書きしているかもしれない。
その意味で「もし隣国が攻めてきたら」という問題提起より「もし隣国を攻めてしまったら」という危機感の方がよほど当を得ているかもしれません。