2月26日、長崎平和研究所の鎌田定夫所長が72歳で亡くなった。以下は、3月に卒業した水島ゼミ4期生のゼミ論文集に寄せた巻頭言である。
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手元に一通の手紙がある。長崎平和研究所の鎌田定夫所長からの原稿依頼である。定型書式A4の余白には、読みにくい、小さな文字でびっしり書き込みがある。それは原稿用紙1枚と小さな紙片へと続き、ホチキスでとめてある。正式の原稿依頼状にしては、異例のラフさである。教員組合書記長として団体交渉目前にして超多忙だった私は、内容もよく読まずに、依頼を断ることに決めた。手紙は机横の既決箱に投げ込み、仕事を続けた。しかし、か細い字でびっしり書かれた手紙のことが妙に気になり、事務局への断りのメールを出すつもりが、「3月末まで締め切りをのばして頂けるならば、お引き受けします」と発作的に書き換えた。手紙をよく読んだ上での結論ではない。何となくである。封筒を開けてから承諾メールを送信するまで、わずか数分の出来事だった。そして、ゼミのメーリングリストに、鎌田先生に取材した平和班のメンバーが、感想や意見を寄せてほしいというメールを流した。翌朝、『朝日新聞』を開いて愕然となった。社会面マンガ下に、鎌田先生ご逝去を知らせる記事が。学生たちにメールを送った時間に、鎌田先生は亡くなっていたのである。
昨年9月3日から6日まで、水島ゼミ長崎合宿が行われた。その際、ゼミの平和班は鎌田先生や長崎平和研究所の先生方に取材をした。長崎総合科学大学の前原助教授は、「大学生の長崎報告から学んだこと」という文章を『長崎平和研究所通信』20号(02年1月28日)
に寄せた。これは、水島ゼミ「長崎報告」の平和班報告に対する感想をつづったものである。長崎合宿では、9月4日に基地班が自衛隊佐世保基地に取材に入ったが、米軍基地の異様な緊張とセキュリティの厳しさを体験した。その1週間後に「米国同時テロ」が起きた。合宿日程が1週間遅かったら、基地調査は不可能だったろう。
私たちは、出会いと別れの連鎖のなかに生きている。あのタイミングで鎌田先生と出会った学生諸君にとって、その体験は一生忘れられないものになるだろう。
今回、ゼミ論文集の巻頭言という場を借りて、鎌田先生の手紙の一部を紹介することにしたい。別件の個人的な依頼部分はカットして、ゼミに関わりのある部分に限って引用する。鎌田先生が亡くなる直前に、病院のベッドの上で、最後の力をふりしぼって書かれた手紙である。これを受け取ったとき、なぜもっとじっくり読まなかったのか。なぜすぐに返事を書かなかったのか。悔やまれてならない。皆さんも、鎌田先生の手紙に込められた気持ちを受けとめてほしいと思う。
水島先生。お変わりありませんか。先般は大田寛さんらのゼミ報告集ありがとうございました。長崎総合科学大学の前原清隆さんに頼んで、あの報告集の紹介と感想を、『長崎平和研究所通信』No.20に書いてもらいました。通信が先生やゼミの方に届けられているか分かりませんが、万一届いていなければ、大至急送るようにします。
私が最近病状が悪化し、3週間前から長崎大学の付属病院に入院しているため、万事連絡が遅れます。一昨年7月、肝臓ガンや黄疸で入院し、コバルト照射で、どうにかガンの拡大を阻止してきたのですが、その後遺症がひどくなり、昨年は貧血で再入院。今回は血管がボロボロになり、瘤が血行を阻んで、うったい状態になり、3度目の入院です。腹水がたまって絶えず鈍痛におそわれ、完全に食欲がなくなったので、半月ほど点滴を受けました。さいわい2月上旬ころより事態は好転し、食事もとれるようになりました。2月18日に血管造影で精査し、患部を見定めた上で、動脈瘤の措置に移ります。35年のC型肝炎、10余年の肝硬変症で、肝不全に陥るおそれもあり、成否は五分五分とか。この編集企画は入院1週間目に作り、妻にワープロ清書してもらいました。20名の執筆者ひとり一人に依頼状を書くので、少々時間がかかります。
さて、水島先生へのお願いですが、二つあります。
(1)「広島、長崎で学生たちは何を学んだか」というタイトルは仮のものです。分かりやすく、本質をついた表現に直してください。
これまで数年間、水島ゼミが取り組んできた実践を要約、紹介しながら、特に広島、長崎での「平和研究班」の実践・教訓をまとめてほしいのです。読者は一般市民から大学の研究者にいたる不特定の人々です。この「平和教育・平和文化」欄は多分多くの読者から注目されるはずです。
報告のページ数が少なく申し訳ありませんが、広島・長崎での調査学習状況を示す写真を2、3枚つけていただけると助かります。
学生さんに執筆してもらうことも意義がありますが、今回は学習の助言者、指導者としての教師の役割を重視しています。そういうわけで、ぜひ水島先生ご執筆お願い致します。昨年は、長崎訪問直後、例の9.11テロと報復の戦争が起こり、学生たちも否応なしにこれに巻き込まれてしまったはずです。8
月8日、長崎を訪れた立命館大学アメリカンソサェティ、南太平洋群島大学の合同ゼミも同様でした(私も講演しました)。そのレポートは立命館大学の○○○さん〔手紙では実名〕に頼みました。【以下略】
そういう次第なので、ぜひぜひお引き受けくださるようお願いします。長崎平和研究所及び長崎の証言の会関係の資料を同封します。
(2)【略】
以上2点、ぜひぜひご協力くださいますよう、お願いします。 鎌田定夫
人はさまざまな出会いのなかで、いまがある。ゼミ論を書くために諸君が選んだテーマもまた、これからの人生のなかでいろいろな意味をもってくるだろう。長い年月が経過したあとに、再び出会うこともあるかもしれない。その時、自分の「未熟な」論文のことを思い出そう。そして、この巻頭言で紹介した鎌田先生のことも。合掌。
[付記]
この直言は、4月中旬刊行の『長崎平和研究』第13号に掲載される拙稿「学生たちはヒロシマ・ナガサキをどうとらえたか――早大水島ゼミの経験」(40枚)の冒頭部分に引用した。本誌についての問い合わせ先: 長崎平和研究所
nagasaki-heiwa@nifty.com