首相公選制とジェニンの虐殺 2002年4月15日

91年1月17日、アメリカを中心とする「多国籍軍」がバッダッド空爆(空爆と空襲の区別については直言BN参照)を開始した。湾岸戦争のはじまりである。イラクのクウェート侵略に対する「制裁」が大義名分だった。そして、99年3月24日に始まったNATOによるユーゴ空爆。これは、コソボ・アルバニア系住民に対する大量虐殺を阻止するため「他に手段がない」ということで始まった。では、ヨルダン川西岸地区に武力侵攻して、多くの住民を殺傷しているイスラエルはどうなのか。報道管制のため「何が起きているのか」が十分に伝わってこない状況が続く。自爆テロの連続で、「どっちもどっち」という感覚をもつ人も少なくないだろう。そんななか、先週、ある方からメールが届いた。3月11日、イスラエル軍が侵攻したヨルダン川西岸ラマラからの詳細なレポートである。「反テロ」の行為として正当化しえない、「国家テロ」ともいうべき行為の数々が報告されている。それゆえ、イラクやセルビアの行為に対して「空爆」を行ったアメリカやNATOの論理を一貫させれば、国連安保理の要請を無視して侵攻を続けるイスラエルに対しては、「エルサレム空爆」が筋となろう(それを肯定しているわけではない。念のため)。シャロン首相は、反テロ「ブッシュの戦争」の枠内のことだと涼しい顔をしている。パウエル国務長官の「仲介」活動も腰が引けている。
 イスラエル軍は4月13日、パレスチナ自治区ジェニンに侵攻。住民を虐殺しているという。犠牲者の正確な数は不明である。イスラエル最高裁は、ジェニンの犠牲者の集団埋葬を4月14日まで差し止める命令を政府・軍に出したという。イスラエル議会のアラブ系議員の訴えに対する仮処分だ。遺体の腐敗を防ぐために軍は保冷車を出動させたという。最高裁は14日に埋葬を認める決定を出す公算が高いというが、大量の死者が出ていることだけは事実上裏づけられたことになろう。
唐突だが、ここで「歴史におけるif(もしも)」を二つ出してみよう。一つは「もしも、フロリダ州パームビーチ郡の『票の数えなおし』の結果、『ゴア大統領』が誕生していたら」。もう一つは、「イスラエルが首相公選制をもっと早く廃止していたら」である。「ゴア大統領」が実現していれば、「9.11テロ」はなかっただろう。ブッシュの単独行動主義が突出した結果、最も残虐なリアクションを引き出してしまったのである。同様に、イスラエルの暴走も自爆テロの応酬も、こういう悲劇的な形で発展することはなかったのではなかろうか。別にゴアが立派な人物というのではなく、クリントンが関わった中東和平の枠組みを崩すようなことをゴアがあえてしない結果、現地の対立の度合いも今ほどではなかったと推測されるからである。シャロンの強気の背後に、ブッシュの姿勢があることは否めない。
 ところで、イスラエルでは、92年に首相公選制が導入された。小党分立の議会では何も決まらない。「首相の強いリーダーシップ」を期待して、96年に最初の首相公選が行われた。選挙区の利益を代弁する議員たちよりも、国民の瞬間的な気分と感情を一回の投票で最高権力者に与える首相公選制。大統領制の国のように強い権限をもつ議会が存在しない分、制度の歪みは、議会多数派が首相を選ぶ通常の議員内閣制の国よりも派手になる傾向が強い。ことほど左様に、対アラブ強硬派の野党リクード党首シャロンが首相公選で圧勝。昨年2月6日のことである。テロへの不安と政治への不満が、タカ派大物を首相に押し上げた。アラブ世界に絶望が走った。それから暴力の応酬がとまらなくなった。市民の不安が国家権力の歯止めを外し、新たな復讐へのエネルギーを増幅させた。イスラエル議会は、2001年3月、首相公選制廃止法案を可決した。3回実施されただけで「失敗だった」(ペレス元首相)と総括された首相公選制。その制度が生んだタカ派首相のもとで、暴力の応酬は続く。