拉致と放置 2002年12月2日

学院法学研究科の授業は3コマ連続で、1コマ目は「最近憲法判例の検討」、2コマ目は英語文献の講読(共同研究の成果は「文献紹介:Ruti G.Teitel,Transitional Justice」として『比較法学』近刊に掲載)、3コマ目は独語文献の講読である。先週と先々週、3コマ全部を使って、公開授業を実施した。1回目は、土井香苗弁護士にアフガン難民訴訟について語ってもらった。日本の難民認定手続のお寒い現状が浮き彫りにされた。司法試験合格後すぐに法整備支援のためエリトリア(アフリカ)に滞在した経験をもつ土井さん。そのパワフルな話に、院生・学生は大いに刺激を受けたようだ。先週は、中国残留日本人孤児国家賠償訴訟を扱った。残留孤児の紅谷寅夫さん(64歳)、孤児2世の方3人、担当の平井哲史弁護士、通訳の方に参加していただいた。私の研究室の院生たちは判例研究の一環として、戦後補償裁判を含め、さまざまな訴訟関係者への聞き取りを自主的に行っているが、その過程でこの企画が決まった。

  紅谷さんの話は衝撃的だった。NHKドラマ「大地の子」のモデルにもなった悲惨な体験を淡々と語った。1945年8月27日の「佐渡開拓団跡事件」(東安省勃利県)である。紅谷さんはそこで親兄弟すべてを失い、ただ一人生き残る。ソ連兵の執拗な民間人殺戮の場面は鬼気迫り、学生たちの顔はひきつった。死体の山に埋もれていた7歳の紅谷さんを、中国人が発見する。そして、別の中国人の養子となる。以来、養父母に専門学校まで行かせてもらう。しかし、故郷が忘れられず、何度も家出をして日本に逃げ帰ろうとするが、失敗した。「文化大革命」のときは、日本人だということで迫害された。一番辛かったのは、固い煉瓦の上に長時間正座させられ、罵倒されたことだという。1972年の日中国交正常化で、1975年に日本に帰国した。帰国後すぐに働き始めるも、日本語がわからないため辛酸をなめる。「やっと日本に帰ってきたのに、どうして同じ日本人に侮辱されなければならないのか」。残留孤児の平均年齢は60歳前後。日本での生活期間が短いので年金がもらえない人がほとんど。もらえても月2~3万円程度。日本の植民地支配の犠牲者である残留孤児も年金をもらえるようにしてほしい、と紅谷さん。「政府の棄民政策により生み出された中国残留日本人孤児を見捨てないで下さい。一度棄てた人たちを二度棄てないで下さい」と結んだ。

  ソ連の参戦が目前に迫った1945年8月2日。関東軍報道部長・長谷川宇一大佐は、新京放送局からこう語った。「関東軍ハ盤石ノ安キニアル。邦人、トクニ国境開拓団ノ諸君ハ安ンジテ、生業ニ励ムガヨロシイ」と。しかし、大本営は、8月10日には防衛線を朝鮮国境とした(関東軍に対する撤退命令に等しい)。関東軍は住民を見捨てて、列車で密かに南下する。開拓団の人々は、獰猛なソ連軍(受刑者などを含む低レベルの部隊)の真っ只中に取り残され、殺戮、強姦、強奪、「集団自決」等により多大の犠牲者を生んだ。「終戦」前後に旧満州で死亡した者は24万5000人にのぼる。残留孤児は、そのような悲惨な状況下で、紅谷さんのように奇跡的に生き残った人々である。だが、これらの人々に対して、戦後日本は冷たかった。1949年の中華人民共和国成立で政府は国交を断絶。引き揚げは中断されてしまう。中国には未帰還者が数多く残された。だが、岸内閣は、1959年、「未帰還者に関する特別措置法」を国会に提出。この法律により、中国に多くの未帰還者がいるにもかかわらず、「戦時死亡宣告」を行って戸籍を抹消する措置をとった。この手続をすれば3万円の弔慰金が出る。1959年の国家公務員(一般職)の給与は20760円。遺族の足元をみるような、何とも冷たい仕打ちである。この措置により、日本人残留者1万3000人が生きながら法的に「死者」と扱われ、残留邦人の判明が著しく困難になった。

  日中国交回復後も、大蔵省(当時)が戦時死亡宣告された者に対する身元調査の予算は計上できないというかたくなな姿勢を貫き、身元調査はさらに遅延することになる。訪日調査が行われたのは、国交回復から9年もたった1981年だった。紅谷さんら原告は、大本営による在留邦人の置き去りを「第1の遺棄」とすれば、この特別措置法による戸籍抹消措置を「第2の遺棄」であるという。

 帰国後の自立支援策もお寒い限りだった。所沢の研修センターでの4カ月の語学研修と、わずかな支度金だけで世間に放り出された孤児たち。1994年の自立支援法も不十分なものだった。「国の施策により大陸に送られ、国の施策で棄てられ、国の施策で帰国が遅れ、国の施策の不備で生活ができない」。孤児たちは、国の不作為の責任を問うて、国家賠償請求訴訟を起こす。原告は提訴時点ですでに600人を超える。原告の平均年齢は定年間近の58歳である。戦前・戦後の国家政策の犠牲者ともいうべき残留孤児。しかし、現行の法制度のもとでいかに国の責任を問えるか。孤児の気持ちは十分理解できるが、裁判所に認定させるための法律構成は容易ではない。今月提訴がなされるので、詳しい法的論点の紹介はここでは控えることにしたい。

  いま、国民の関心は、マスコミの影響もあって、北朝鮮に拉致された被害者の日々の動静や生活に向かっている。拉致被害者生活支援法もまもなく成立する。拉致被害者の生活支援に反対する人はいないだろう。しかし、月額24万円を5年間にわたって支給され、年金にも特別の扱いがされる拉致被害者と、中国残留日本人孤児の生活支援の内容を比べれば、その差は歴然としている。拉致被害者の生活支援が高すぎるというのではない。残留孤児の生活支援が低すぎると言っているのである。この点は、NHKラジオ第一放送の「新聞を読んで」でも指摘した

  法治国家と言われる日本。しかし、残留孤児の問題でも「放置国家」であり続けた。そして1959年の特別措置法こそ、「法恥国家」と呼ぶにふさわしい仕打ちである。残留孤児国賠訴訟では、この法律が当然争点となる。「国家的放置」の政策に深く関わった岸信介首相(当時)。その女婿は安倍晋太郎元外相。その息子が、拉致問題の強行策で一躍有名になった安倍晋三官房副長官であるのは何かの因縁か。 拉致問題も、国家と国家の隙間に家族が挟まれ、ある時は無視され、ある時は過剰に介入され、翻弄されている。国家がその時々の都合で個人・家族を利用し、「国策」を推進するのは、戦前も戦後も一貫している。個人の生活をこれ以上、「国策」の道具にさせてはならない。

※本稿執筆に際して、紅谷氏および平井弁護士のレジュメ・資料を参考にさせていただいた。記して謝意を表する。

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