「法による平和」の復興を 2003年9月29日

ょうど1 年前、「法による平和の危機」について2回連載した。第1回では、ブッシュ政権が対外的に単独行動主義を突出させ、「法による平和」の仕組みを破壊する一方で、米国内の市民的自由を侵害していることについて書いた。第2回では、平和学者E.-O.Czempielの言葉を引用した。「イラク戦争が起これば、武器と紛争に満ちた地域が、フセイン大統領の脅威と何ら関係なくても騒乱の渦のなかに巻き込まれる。ブッシュの対イラク政策に対しては、『限りない連帯』ではなく、批判的連帯が求められる。ヨーロッパが金を出さなければ、ブッシュは対イラク戦争を遂行することはできない。…安全保障政策上、EUは、見かけほどには無力ではない。EUに欠けているのは、共に行動しようという各国政府の意思なのである」と。この指摘は、その後の独仏などヨーロッパ諸国の態度を見通していたと思う。

  ヨーロッパと対照的なのが、小泉首相の「忠実な僕ぶり」である。残念ながら、この流れは基本的に変わっていない。「イラク戦争」の影響の深刻さは、今後、さまざまなところにあらわれてくるだろう。「イラク復興支援法」で自衛隊派遣ばかりを突出させているが、まず復興すべきは、ブッシュにより破壊された「法による平和」そのものであろう。 9月23日の国連総会でアナン事務総長は、「たとえ不完全だとしても、世界の平和と安定を58年間保ってきた〔国連憲章の〕原則に対する根本的な挑戦である」と、ブッシュの「先制的自衛」戦略を厳しく批判した。他方、アナン事務総長は、先制攻撃の扱いを含め、「脅威に対する武力行使」の基準作りにも言及。米国の単独行動主義を縛る方向性も打ち出した。安易な先制攻撃合法化につながらないような、慎重な議論が必要だろう。「有志連合」(米国と取り巻き国)で先制攻撃を実施し、その尻拭いを国連にやらせるというパターンが定着しないよう、何事も最初が肝心である。

  いろいろとダブりもある既発表論稿だが、問題の原点を確認するという意味を込めて「直言」としてUPすることにしたい。この論稿は、日本キリスト教婦人矯風会の『婦人新報』2003年8月号(通巻第1235号)に掲載されたものである。日本で最も歴史のある女性団体の機関誌で、この団体は、「1886年米国にならって矢島楫子らが設立。禁酒運動・純潔運動・公娼制度廃止とその更生補導など、女性の向上と生活改善に実績を残す」(『日本史B用語集』〔山川出版〕)と、高校日本史の参考書にも紹介されている。近代日本女性史という観点でも重要な存在と言えよう。なお、『婦人新報』のバックナンバーは、明治21年(1888年)創刊号から全60巻(総30000ページ)の復刻版が出されている。その通巻1235号にあたる先月号の特集は、「あの“戦争”は何なのか」である。拙稿は特集と同じタイトル。副題は「『法による平和』の回復を」である。編集部の許可を得て転載する(イラク市民の死者数のみ最新のものを加筆)。

あの“戦争”は何だったのか――「法による平和」の回復を

1.破壊された「法による平和」 「結果オーライ」(All is well that ends well.) という言葉がある。段取りや途中のプロセスに問題があっても、よい結果さえ出れば、それでよいではないか、という考え方である。「イラク戦争」についても、「フセイン独裁体制から2400万人を解放できたのだからよしとすべきだ」という論調が、「部数だけは世界一の新聞」を中心に広範に流布されている。戦争が始まり、市民が毎日のように死んでいく最中でも、「イラクの戦後復興は日本が」といった論評が紙面に載る。一体、なぜ「復興」を必要とする事態になったのか。それは、ブッシュ政権が世界の反対を押し切って、勝手に戦争を始めたからにほかならない。  「戦争で最初に失われるのは真実である」という言葉通り、メディアは、米軍にとって都合のいい情報だけを、しかも今回は米軍と「添い寝する記者」(「従軍記者」)まで使って垂れ流した。この戦争によって破壊されたのはイラクの国土や多くの人々の命だけではなかった。人類が350年以上かけて積み上げてきた「法による平和」の仕組みも破壊されたのである。もし、復興を語るなら、まず何よりも、「法による平和」をどう再建するかでなければならない。  膨大な犠牲者を出した第一次世界大戦。その悲惨な結果を受けて、1928年の「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)は、「国家の政策の手段としての戦争を放棄すること」を明確にした。ただ、そこには、自衛権に基づく戦争という抜け道があった。そのため、二度目の世界大戦を阻止できなかった。こうして、二度の大戦の犠牲と教訓を踏まえ、国連憲章(1945 年) は、武力行使禁止原則を明確にした。紛争の平和的解決が原則化されたのである(2条4項) 。  ただ、この原則には2つだけ例外がある。その1つが、侵略や平和破壊、平和に対する脅威に対して、安保理が決定する軍事的強制措置である。その典型的な形態が国連軍である。第2の例外は、現に武力攻撃が発生した場合、安保理が必要な措置をとるまでの期間に限って、国家に認められる自衛権行使である。ただ、国連憲章51条は、自衛権を非常に限定的にしか認めていない点に注意する必要がある。攻撃もされていないのに、その「疑い」や「危険性」だけで「予防的」に先制攻撃を加える「先制自衛」を、ほとんどの国際法学者は違法と解している。今回の「イラク戦争」は、この2つの例外のいずれにも該当しない。国連決議は存在せず、どこの国に対してもイラクは武力攻撃を仕掛けていないからである。こうなると、米国がやったことは、裸の暴力のむきだしの行使にほかならない。それは戦争でさえない。最新兵器の実験と宣伝を兼ねた、弱り切った独裁国家に対する一方的な屠殺であった。

2.偽りの根拠による戦争  イラクの元国連大使ドゥーリ氏は、英国BBCのインタビューに、イラク政府は「戦争は起きない」という観測を最後まで持ち続けていたと答えている(『朝日新聞』6月17日付)。誰も戦争を望まず、誰も戦争になるとは思わなかったのに、ブッシュ政権は戦争に踏み切った。「イラク・ボディ・カウント」によれば、イラクの犠牲者の数は2003年9月24日現在、最低で7346人、最大見積もって9146人に達する。これだけの貴重な生命を犠牲にして、開戦の最大の根拠であった「大量破壊兵器」が見つからないというのは、これはもうスキャンダルである。
 当初は、「対テロ戦争」の一環として、フセイン政権とアルカイダとの密接な関係を指摘し、イラク攻撃は「対テロ戦争」の延長にあり、それゆえに正義であるという言い方がなされた。でも、よく考えてみると、フセイン政権とテロリストとの関係は証明されておらず、むしろ、フセイン政権が政教分離を厳格に守ってきた事実が知られるようになり、「対テロ戦争」という理由づけは、いつの間にか消えてしまった。
かわってイラク攻撃の根拠として前面に躍り出たのが「大量破壊兵器」である。1991年以来の査察によって、イラクの「大量破壊兵器」はほとんど破壊されており、差し迫った危険性がないことは、ブッシュ政権も実はわかっていた。だが、国連安保理の場でも、米国はイラク攻撃の根拠を示すことに失敗した。焦ったラムズフェルド国防長官は、次のように言った。「イラクが大量破壊兵器がないことを証明できない限り、我々は攻撃する」と。18世紀以来、適正手続(デュー・プロセス)に関する憲法原則を世界に広めてきた米国の人間とは思えない言葉だ。例えて言えば、覚せい剤を隠し持っているとの疑いをかけられた人にむかって、警察官が、「覚せい剤を持っていないことを証明できなければ射殺する」というに等しい。
 戦争の途中から、第3の根拠づけが前面に出てくる。「体制転換」(レジーム・チェンジ)である。アフリカでは、隣国の介入によって体制転換が起こることはノーマルなことだから、「イラク戦争」は世界で最初の予防戦争ではない、とする議論がある(die tageszeitung vom 25.3.2003) 。この論者は、タンザニア軍が、ウガンダのアミン政権を倒すために侵攻したのを典型に、ベトナムも78年クリスマスにカンボジアに侵攻して、ポル・ポト政権を倒したのだから、「イラク戦争」は世界最初の予報戦争ではないというわけだ。虐殺政権を転覆するための戦争は、「人道的介入」と重なり、正当化されるという論理を伏線にもつ。だが、米国が行ったイラク攻撃は、その規模と内容からして、ベトナムがやったことと同一に議論できないだろう。
 『モスクワ・タイムズ』3月20日付は、「ブッシュのブレジネフ・ドクトリン」と題する興味深い論評記事を載せている。1968年8月にチェコスロバキアをソ連軍などが侵略したあと、ブレジネフ・ドクトリンが形成された。「社会主義共同体の利益」のために、「衛星国家」に侵攻するソ連の権利が留保され、ソ連以外の国々は「制限主権」のもとに置かれた。米国はいま、(米国にとって)「不快な体制」を転覆するために、他国に侵攻する主権的権利を主張している。これは、「ブッシュのブレジネフ・ドクトリン」(BBドクトリン)とも言うべきもので、将来の国際法の基礎になるかもしれない、と皮肉る。かつてレーガン大統領が「悪の帝国」と罵倒した旧ソ連。そのブレジネフ・ドクトリンと同様の発想で、世界各国に武力介入する米国。「ミイラとりがミイラに」の例えではないが、ブッシュ政権のもと、米国はいま「悪の帝国」と化しつつあるのか。

3.ブッシュ・ネオコン政権崩壊へ 米国による、「一見きわめて明白に国際法違反の武力行使」に対しては、世界中の「普通の人々」がかつてない規模で反対の声を挙げた。フランスの元経済財政相D・シュトラウス・カーン氏は、2 月15日に全欧で起きたデモを高く評価し、そこに「新しいネーションの誕生、ヨーロッパ国民」を見て取る(Frankfurter Rundschau vom 11.3.2003)。もはや「欧米」という言葉は使えない。それだけヨーロッパ(欧州)は米国から離れてしまった。独仏のように政府と国民がほぼ一致した行動をとった国々、スペイン、イタリアのように政府は対米協力に走ったが、国民はそれに批判的だった国々、そして、長い冷戦時代をくぐり抜け、未だ米国に対して観念的あこがれを抱いている「新しいヨーロッパ」(旧東欧圏)の国々。それぞれに違いはあれ、米国の単独行動主義とどう距離をとりつつ外交を展開するか、それぞれに戸惑っている。そうしたなかで、何も悩むことなく、おおらかに対米協力に邁進するのが小泉首相の日本である。会期を延長してまで「イラク復興支援法」を成立させ、「はじめに自衛隊派遣ありき」で、前のめりで軍事的協力を進めている。この時期、このタイミングで、ブッシュ政権に深くコミットすることは、最大の愚策であったと後に評価されるだろう。
 思えば、いまから約40年前の1964年8月2日。ベトナムのトンキン湾で、米駆逐艦が「北ベトナム魚雷艇の攻撃を受けた」と発表した。いわゆる「トンキン湾事件」である。8月7日、米議会両院は、大統領に戦時権限を付与した。翌65年2月7日、北ベトナム爆撃(北爆)が開始された。これが嘘だったことが、後に明らかとなった。ニクソン大統領も対外政策では得点をかせいだが、ウォーターゲート事件で失脚した。レーガン政権も「イラン・コントラ事件」がスキャンダル化した。いま、「大量破壊兵器」の問題で情報操作を行ったという疑惑が、一大スキャンダルへの萌芽をはらんでいる。ドイツのネット新聞は、「ウォーターゲート事件」になぞらって、今回の大量破壊兵器情報の「ウソ」を、「サダムゲート事件」と呼び、米国史上最悪のスキャンダルであると書いている(6月23日付)。ブッシュ・ネオコン政権の崩壊は、世界平和にとって、当面、最大のプラス要因となろう。その時期は存外近いかもしれない。

(『婦人新報』(日本キリスト教婦人矯風会)2003年8月号所収)  

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