イラク戦争と9条改憲 2004年6月7日

月22日の小泉訪朝は、二つの家族の再会と再結合を実現したことは成果ではある。だが、あまりにも唐突かつ準備不足の小泉式「思いつき外交」に、多方面から批判が出ている。6月22日頃に訪朝の日時を設定して、それまでに米国と交渉して、曽我さんの夫ジェンキンス氏に対する恩赦か訴追免除の確約をとる。そのくらいの「カード」をきらなければ、ジェンキンス氏が日本に来ることが困難であることはわかりきっていた。そうした段取りや手順を踏まずに訪朝したのは軽率だったと思う。小泉首相は外交を自らの人気とりの道具としか考えていないと受け取られても致し方ないだろう。言葉の悪い意味でのパフォーマンスを感じる。なお、2002年9月17日の小泉訪朝や、その一周年についてはすでに書いた。国家が家族を引き裂いた実例については、「拉致と放置」で詳しく言及した。今回も小泉訪朝の意味などについて詳論する余裕はない。今日から韓国出張である。そのため、既発表の原稿をUPすることにする。ご理解をたまわりたい。
  6月7日より11日までソウルに滞在し、その間、ソウル大学やヨンセ大学で講演を行う。授業期間中だが、韓国の関係者が私のこの時期の訪韓を強く要請してきたことによるものである。今回UPする論稿は、日本キリスト教婦人矯風会の依頼で書いたもので、『婦人新報』1244号に掲載された。この雑誌は1世紀以上も続く伝統ある雑誌である。なお、帰国後、韓国や北東アジアの現状に関する事柄について直言で連載していく予定である。乞うご期待。

            

なぜ、9条を変えてはならないのか
           ――イラク戦争一周年からの教訓――

 ◆嘘で始まった戦争

  「これ何なんでしょうね。嘘は泥棒の始まりって言うでしょ」。福田康夫官房長官は、古賀潤一郎代議士の「経歴詐称」問題について、こうコメントした(2004年1月27日記者会見)。19単位不足で卒業できなかったのに、選挙公報に「卒業」と書いたことは「嘘」には違いない。だが、全世界に向かって、「イラクには大量破壊兵器が存在する」といって戦争を始めたあげく、今になって、「大量破壊兵器をもつ能力や意図があった」と嘘ぶいているブッシュ政権は何なのか。近年、これほど悪質な嘘があっただろうか。「これ何でしょうね。嘘はブッシュの始まりって言うでしょ」と、後世の人々に皮肉られるかもしれない。
  さて、この3月20日で、イラク戦争から一年が経った。これを契機に、世界の新聞各紙には、この問題についてたくさんの論評が掲載された。例えば、映画監督ピーター・デーヴィス(1974年の「ハーツ・アンド・マインズ」は有名)は、ドイツの『ターゲスツァイトゥング』紙(2月21日付)のインタビューのなかで、イラク戦争とベトナム戦争との類似性を二点指摘している。 その一つは、ともに「嘘」で始まったこと。本誌2003年8月号の拙稿でも触れた「トンキン湾事件の嘘」と、今回の「大量破壊兵器の嘘」のことである。
  もう一つは、いずれも相手(敵)を知らなかったことである。ベトナム戦争で米国は、「ドミノ理論」(共産主義がドミノ倒しのように周辺諸国に波及していくという考え方)にこだわったが、後に中国とベトナムは仲がよくなかったことがわかった。中越関係についての正確な情報を持っていれば、ベトナムへの介入はもっと違った形になっていただろう。相手への無理解が戦争の泥沼化につながったわけである。今回も、フセイン政権を倒せばイラク民衆は必ずや米国を支持し、世界の支持も急増するだろうという見込みは見事にはずれた。イラク民衆の心を、ブッシュ政権は完全に読み間違えたのである。相手を知らず、世界や自国民に対して嘘をついて己を偽る指導者は、「百戦危うし」の類だ。いま、ブッシュ政権の傲慢不遜な単独行動路線に対して、世界で、また米国内でも批判の声が高まっている。
  しかし、小泉政権だけは、ブッシュ政権支持の姿勢を崩さない。そうしたなかで、日本国憲法を改定する動きが進行している。「憲法改正賛成」が65%に達したとする世論調査も出てきた(『読売新聞』4月2日付)。賛成の理由として、「国際貢献など今の憲法では対応できない新たな問題が生じているから」が52%でトップを占めている。だが、この設問自体がきわめて誘導的である。本当に憲法は国際協力の障害になっているのだろうか。イラク戦争一周年という時点で、改めて憲法9条が存在する意味を考えてみよう。

 ◆憲法9条は国際協力の障害か

  「憲法の制約があるので出来ない」という言い方がよくなされる。『読売』調査に回答した人々も、国際化時代にさまざまな国際協力を展開していく上で、憲法が妨げになると感じているようである。だが、「憲法の制約」といっても、「誰」にとっての、「どのような制約」なのかが語られていない。この点を抜きに論ずれば、「それなら、9条を変えた方がいい」という気分になるのは自然だろう。というより、そう誘導されているわけである。
  そもそも憲法は、人間が誤りをおかすことを当然の前提として、その人間がつくり、動かすところの国家権力を拘束し、その行動を制約するところに最も重要な存在意味がある。だから憲法は、国家権力がこういうことをしてはならないという「禁止規範」と、こういうことをせよという「命令規範」の性格をもつ。国家権力は、憲法の明文規定で許されたことしかできないのである。
  そこで、憲法9条の最も重要な機能は、対外関係において、戦争のみならず、武力行使・威嚇といった「力の政策」をとらないことを国家に義務づける点にある。国際協力を行う場合でも、武力行使・威嚇を伴うものは許されない。だから、米国との軍事協力関係を拡大して、アジア・太平洋地域における日本の軍事的プレゼンスを高めたいという人々にとっては、9条は「目の上のたんこぶ」であり、「制約」なのである。
  憲法9条は、57年にわたり改正されることなく存在し続けてきた結果、憲法制定の3年後に始まった朝鮮戦争でも、その後のベトナム戦争、さらには湾岸戦争でも、日本が米軍とともに戦闘加入するという事態だけは回避されてきた。だが、2004年、小泉政権のもとで、ついに自衛隊の武装した部隊が、国連決議もなく始められた侵略戦争に協力して、その占領統治の一角を担うべく海外出動した。憲法9 条は違憲の現実の前にむなしいまでに無視・軽視され、「たかが憲法」と蔑視されている。だが、憲法は国の最高法規であって、国家に対して厳格な禁止規範のオーラを発し続けている、「されど憲法」なのである。
  では、日本国憲法は、安全保障のあり方についてどう考えているのだろうか。まず憲法は、国際協調主義をとる(前文、98条)。対外政策、特に安全保障政策の基本は、国連の集団安全保障に置かれている。ただ、その手段として軍事力を用いた方向は遮断されている(9条)。次に「平和を愛する諸国民(ピープルズ)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文)という形で、全世界のピープルズの連帯とネットワークのなかで、日本自身の安全も守る方向を選択したのである。さらに、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」(前文)と宣言して、日本国民だけでなく、世界中の貧困や人権侵害に苦しむ人々に対して、積極的な援助・協力を行う姿勢を明確にしている。憲法前文に示された平和主義のありようは、「自国のことのみに専念」する「一国平和主義」でもなければ、軍事力の即効性に傾斜する「一刻平和主義」でもない。ノルウェーの平和学者J・ガルトゥングのいう「積極平和」(構造的暴力からの解放)の実現を目指す積極平和主義そのものである。
  国家に対して戦争・武力行使の禁止を命ずる反面、積極平和主義は、市民・NGOなどの活動に対しては徹底して開かれている。市民やNGOにとって、憲法は国際協力の障害になるどころか、むしろ「積極平和」のさらなる実現を要請しているのである。憲法を「制約」と感じるのは、武力行使・威嚇を「普通に」できるような国を目指し、米国との軍事的協力関係を濃密化しようとする人々だけだろう。

 ◆憲法を変えないことの意味

  さて、イラク戦争一周年から引き出される教訓は何か。それは、いま憲法9条を変えてはならないということである。なぜか。9条を変えて、集団的自衛権を明確化したり、自衛隊の存在を条文に書き込むといった「改正」は、日本の安全保障にとって決してプラスにならない。
  イラク戦争一周年の風景を見れば、米軍とその追随国によって占領されたイラクで毎日のように武装抵抗や自爆攻撃が行われている。米兵の死者は増える一方である。そうしたなかで、スペイン、ポーランド、韓国といった「有志連合」の重要な一角が崩れはじめた。この一年で明確になったことは、武力を使って他国に介入して、勝手に政権を変更することが必ずしも容易ではないことが明確になったことだろう。
  ノーム・チョムスキーは、イラク戦争一周年の日に、先のピーター・デーヴィスと同じドイツ紙のインタビューのなかで、米軍がイラク占領でつまずいたことを肯定的に評価している。もしイラク占領が簡単にいったら、米軍はイランに侵攻していただろう、と。
  イラク戦争に自衛隊を出すことに賛成する人々は、反対する者に対して「対案」を出せという。だが、こういう場合の最も明確な「対案」は、米国のイラク戦争・占領に参加・協力しないということである。犯罪行為が行われているとき、これに協力しないこと以外の「対案」は必要ない。犯罪には協力しないという消極的態度こそ正しい。「イラク復興支援」の名のもとに、イラクに対する「人道的植民地主義」にコミットしてはならない。国連が中心となって真の復興支援の枠組みが始動するまで、ブッシュ政権のイラク占領統治から距離を置くことが必要だろう。イラクに平和をもたらすための近道は、まず日本が自衛隊を撤収させ、国連中心のイラク復興の道筋を米国に対して強く主張することだろう。小泉政権が絶対に選択しないであろうこの道を、市民が主張し続けることが大切である。そして、日本が果たすべき国際協力は非軍事的なものに限られるということが、「憲法の制約」による消極的なものではなく、世界の軍縮を促進し、軍事力によらない平和を実現していく積極的平和主義であることを示し続けることだろう。そのためにも、憲法9条を変えさせてはならない。これは日本の市民のためだけでなく、世界の市民社会に対する重要な「国際貢献」なのである。

【付記】日本キリスト教矯風会『婦人新報』1244号〔2004年5月)号所収。