携帯電話について書くのは2年半ぶりである。身近な人間のことを中心に書いた「携帯電話症候群」が最初だった。その後、ドイツでの在外研究から帰国後、「携帯不保持」を宣言した。伝達手段が、いつの間にか「連結手段」になったり、「確認オブセッション(強迫観念)」の危なさを感じたりしたからである。次いで、人と人との「間」を奪う道具としてのマイナス面を強調し、携帯電話の着信音や、授業中の携帯電話について問題にした。この頃は、「携帯不保持」原則を一部緩和して、早大教員組合書記長の激務の1年半だけは、私の健康を気づかった家族の要求で、携帯を所持させられていた。名義は妻のもの。携帯ショップでも妻に契約してもらい、店員に怪訝そうな顔をされた。書記長任期中に限って「預けられていた」わけで、「保持」ではなく「寄託」であると周囲に説明した。任期中限定のはずだったが、実は任期を終えてからも携帯電話の「所持」を続けている。「携帯不保持」原則からの「転向」という批判を意識した、「妻名義で『保持』させられているのだ」という屁理屈は、最近ではやめている。この国の首相のように、「携帯もいろいろです」と逃げることもしない。むしろ、今は携帯を頭から否定するのではなく、これと上手に付き合うことも必要ではないかと考えるようになった。アンチ携帯派の私を知る元ゼミ生たち(2期生、3期生あたり)が聞いたら、びっくりするだろう。
私が携帯に対する姿勢を変えた理由は次の通り。携帯メールは、「安価」で「安心」、「安易」で「安直」なコミュニケーション・ツールである。公衆電話(この言葉も死語になる?)一回分(10円)と比較すれば、「安価」は最大の価値だ。セキュリティという意味での「安心」はかなり怪しい。十分注意して使う必要がある。その意味の「安心」ではなく、例えば、家族や学生たちが無事に現地に着いたかどうかを、「いま着きました」という1行メールで確認できるという意味での”安心”感である。「安易」で「安直」。これは、便利さの反面として、受ける側に不快な思いをさせないよう、上手な使い方をすること。これに尽きる。
どんなツールでもプラスとマイナスがある。「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということもある。適度に、適切に、上手に使うことである。そこで、私自身が携帯メールの効用と感じている点を三つ挙げておこう。
まず、第一に、ゼミ合宿などで、複数の方面に取材に出た学生たちとの連絡手段である。昨年の北海道合宿の時に初めてこの方式を使った。札幌にいる私のもとに、北方領土取材に道北に向かった班をはじめ、道内各地に展開した学生たちからの報告が毎晩届く。これは全体の動きを把握し、指示を出すのに実に効果的だった。今年の沖縄合宿では、携帯ML(メーリングリスト)がすべての班が使われた。私の指示や情報をゼミ長や合宿委員に流せば、瞬時に全員に行き渡る。これは実に便利だった。予定の変更や、場所の変更なども確実にできる。20年以上ゼミ合宿をやってきたが、今回ほどメールの効用を感じたことはなかった。台風の恐怖を味わった前回の沖縄合宿は、もっぱら電話で指示したが、今年は携帯メールが活躍した。
近年、「ピースウォーク」とか「ピースパレード」とか、私のような中高年世代にはやや違和感のあるような、若者中心の集会やデモの様変わりの背景には、パソコンや携帯メールの普及があるようだ。どこどこで何があるという連絡を携帯でまわして集まってくる若者たち。新時代の「集合法」なのだろうか。
「携帯がなくて、昔はどうやったんですか」と真顔で学生に尋ねられたことがある。携帯があたり前の彼らにとって、携帯なしの生活は考えられないのだ。思えば11年前の沖縄合宿のとき、集合地点を間違えた1台をさがして、国道58号線に立ち続けたことを思い出した。ゼミのコンパも、遅れてくる学生のために、駅の伝言板(これはもう死語?)に書き込んだり、駅の出口を間違えているかもしれないと、反対側の出口に学生を走らせたりと、けっこう神経を使った。今時の学生は、こういう苦労が存在したこと自体が理解できない。逆に、集合時間に平気で遅れ、「寝坊しちゃってさ。会場に直接行くからぁ。よろしく」なんてやり取りを横で聞いて激怒したのは、今は昔である。でも、携帯電話の安易さと安直さに流されず、待ち合わせや連絡をとる際の気遣いは忘れたくないものである。
二つ目は、日頃あまりコミュニケーションのない家族との連絡や意志疎通に大変効果的ということである。外に住んでいる家族だけななく、日常的に顔を合わせている家族との間でも、携帯メールはけっこう有用である。電話をかけるほどの用事はない。面と向かって話すのは照れくさい。でもメールだと言える(書ける)というのは確かにあるように思う。単身赴任者や長期出張者、海外赴任者などを含めて、家族とのコミュニケーションに携帯のメリットは大きい。私も国内外での単身生活は計5年になるが、当時は手紙、電話、ファックスが中心だった。もう10年以上も前になるが、娘からの漫画満載のファックス・ニュースは単身生活の励みになった。距離は近くても、「心の距離」が出来たという場合にも、携帯メールは有効な手段かもしれない。使い方を誤ると、「こんな安易な謝罪を受けられるか」と激怒されるから注意が必要だが、上手に使えば円満な「紛争解決」の手段ともなりうる。
三つ目は、人間関係を豊かにしてくれることである。いろいろな方面にいる友人・知人との連絡が簡単にとれる。出張先などは特に便利である。ただ、あまりたくさんの人にアドレスを知らせるのは考えものだ。人とのつき合いには「心地よい緊張関係」も必要だからである。携帯メールが人間関係を豊かにするツールとして機能すればいいと思う。
他方、パソコンメールや携帯メールが普及するなかで、パソコンを持た(て)ない「ネット弱者」や、あえてそういう世界に対して距離を置く「良心的ネット拒否者」(?)が不利に扱われてはならないだろう。
懇意にさせて頂いているジャーナリストの増田れい子さん(元・毎日新聞論説委員)は、国公労連『調査時報』に、「風紋」という巻頭エッセーを、200回近く連載されてきた。この11月号から私がこの連載を引き継ぐことになった。多忙を理由に一度は断ったものの、増田さんの熱いラブコールに抗しきれずに、お引き受けしたものだ。その増田さんが2004年5月号(497号) の「風紋」にこんなことを書いておられる。
…「ケータイ」をやらない友人が、別の友人に電話をしたところ、電話口に出た友人の夫がいつになく険しい語調で、「どうして便利なメールを使わないのか。…時間のロスだ」と言ったとか。メールならば妻の「ケータイ」にすぐ届いて、この電話をいちいち取りつがなくてもすむというわけだ。増田さんは書く。「あわてたのは私である。私もケータイ使わず、メールやらず。連絡は電話かFAX。そしてハガキと手紙である。この原稿にしても万年筆の手書きをFAX。…ナマ原〔稿〕を受ける側は『ウワッ、めんどうだなあ』と思うことも事実だろう。厄介者に仕分けされてしまうかもしれない。厄介者からイヤな奴、イヤな奴から無視へ、無視から排除へと、次第にエスカレートして、そのうちいらない奴、そしていない奴と、いつの間にかこの世から押し出されてしまうかもしれない…」。
確かにメールのコミュニケーションに慣れてしまうと、メールを使わない人々の存在 を忘れてしまうことがある。増田さんとはいつも電話やFAXで連絡を取り合っている。そういう方はほかにもいる。メールをやらない人々への配慮も必要だろう。と、ここまで書いてきて、この HPで、「講演や取材の依頼はメールでお願いします」と表記していることを思い出した。研究室の電話(ほとんど出ない)や仕事場の電話ならともかく、家族といる場所の電話に講演依頼がくると、手帳もスケジュール表もないから、結局一方的に相手の話を聞くことになる。だから「メールかFAXでお願いします」とお願いしている。これからは、手紙、電話、ファックス、パソコンメール、携帯メールなどのそれぞれの役回りやメリットをいかした付き合い方が必要だろう。これがさしあたり、私の結論である。その意味で、私が「携帯不保持」原則で言いたかったことは、今も基本的に変わらない。
《付記》学会などが続く多忙週のため、ストック原稿をUPしました。「雑談シリーズ」が 続いたことをご了承下さい。