コンサートで突発事件が起きたら、人は誰を見るか。当然、指揮者に注目するだろう。20年前のコンサートでのこと。コントラバス奏者が勢い余ってイスを後ろに蹴り落とし、ドタン、ドタンという大音響がホールいっぱいにこだました。曲に一瞬の静寂が生まれた時だっただけに、聴衆もオーケストラも凍りついた。もし、あそこで指揮者がパニックになって固まってしまえば、コンサートはぶち壊しだったろう。だが、その指揮者はまったく動揺せず、凄まじい気迫で演奏を続けた。「マエストロがものすごく大きく見えた」。指揮者の前で第二バイオリンを弾いていた知人は、コンサートの後、私にそう語った。
地震、噴火、火事、航空機事故など、人の生命に関わる重大事態が発生したら、その瞬間、その場、その箇所で最も責任のある人が指導者となる。学校の校長、村の村長、ホテルの総支配人、フェリーの船長…。皆がその人の指示に従う。その人の発する「言葉」と「一挙手一投足」にその場のすべての目が集中する。上に立つ者がうろたえ、まっさきに逃げたり、姿を隠したりすれば、その後どんなに立派なことを言っても、誰も信用しないだろう。「長」になった者の能力は、「非常事態」において最もはっきりあらわれる。「備えあれば憂いなし」という単純化されたフレーズを多用し、「有事法制」整備に力を入れた小泉首相。「国民保護」法には、避難・誘導、避難所の開設等々、「武力攻撃事態」で実施される措置が細かく規定されている。だが、そんな無理に作られる「有事」よりもはるかに現実的な、「いま、そこにある危機」である新潟県中越地震において、彼はどんな言葉を発し、どんな行動をとったのだろうか。
10月23日(土曜)17時56分。最初の激震が来たとき、小千谷市内で、小学校6年生の和美さんはお風呂に入っていた。72歳の祖母は風呂場に向かって叫んだ。「早くおいで。下着もちゃんと身につけるんだよ」。「今出るよ」という元気な声。その直後、二度目の揺れが。祖母は外に飛び出す。崩れた家のなかで、和美さんは梁の下敷きになって死んでいた。きちんと下着を身につけて。「余計なことを言わなければよかった」。祖母は自分を責めた(『朝日新聞』10月25日1社)。家族にも多くの苦しみと悔恨を生みながら、無数の悲劇が現在進行形で起きていた「その時」、この国の最高責任者は港区・六本木ヒルズにいた。
「首相動静」欄(『朝日』10月24日付)によると、17時49分にホテル「グランドハイアット東京」に着き、17時59分から「東京国際映画祭オープニングセレモニー」で挨拶している。「首相になる前は、大体月一回くらいは一本、自分で映画館に行って映画を楽しんでいた。しかし、首相になると、映画に行くと『何でこんな忙しい時に映画なんて見ているんだ』と批判されるので、なかなかいけないのが残念だ」。そんなたわいのない挨拶に通訳がつく。外国からの招待客が地震のことを知ったら、「何でこんな大変な時にここにいるんだ」と思ったに違いない。挨拶を終え、18時15分に会場を出た首相は、首相専用車のなかでテレビを見たり、携帯電話で報告を受けたりした。そして、車を官邸に向けて発進させることもなく、18時30分に六本木ヒルズ内の映画館に入った。山田洋次監督作品「隠し剣 鬼の爪」を鑑賞するためだ。18時40分になり、「上越新幹線が脱線している」とのメモが渡されると、首相は、「公邸に戻るかな」とつぶやいたという。とその時、「まもなく挨拶が始まります」との放送が流れ、首相はそのまま舞台挨拶を聞く(ここまで『読売新聞』10月24日付囲み記事「その時、首相は…」参照)。私は、首相が山田監督の舞台挨拶になぜ、そんなにこだわるのかな、と思っていたら、「大好きな松たか子の舞台挨拶を見たかったから…。実際、舞台にいる松から『小泉さん、こんばんは』と声をかけられ、満面の笑みで応じていた」(『週刊新潮』2004年11月4日参照)という文章を読んで、なるほどと思った。政治を趣味と感覚で仕切る首相らしく、松たか子の挨拶が終わるまで会場にとどまり、19時8分に会場を出た。地震発生から1時間12分が経過していた。奇妙なことに、首相は、危機管理のシステムが揃い、関係職員が続々と集まり始めた首相官邸ではなく、東五反田の仮公邸に向かった(同27分に仮公邸到着)。その後、翌日午前中いっぱい、仮公邸に引きこもる。12時26分に麻布台の外務省飯倉公館に着き、同27分からパウエル米国務長官と会談している。13時15分に仮公邸に戻り、首相官邸に着いたのは、何と夜20時15分である。同20分から「新潟県中越地震関連対策会議」に出席するためだ。地震発生時から、この国の危機管理の最高責任者がその本来の持ち場に入るまで、何と26時間19分もたっている。えひめ丸事件の時に、事態を把握した後もゴルフ場にとどまりビールを飲み、官邸に直行しないで私邸に向かった森前首相と何とよく似ていることか(私は森氏の首相就任の経緯について疑問を持っているので、ずっと森首相と言わず「あの男」で通した)。
小泉首相の言動には、何よりも緊張感が欠けている。趣味を優先し、日程を淡々とこなしている。沖縄のヘリ墜落事件の時と同様、この首相の行動パターンは一貫していると言えるだろう。「仮公邸でも情報は受けられる」「電話で担当大臣に指示した」というのは言い訳にすぎない。誰からも見える形で、責任者が姿をあらわし、言葉を発する。これが大災害などの異常な事態において求められるのだ。内閣官房が大規模地震などの事態の初動体制についてマニュアルを作成しているが、首相の対応については規定がない(前掲『読売』)。それは、首相は最高責任者として、マニュアルに定めのない判断が求められるからである。マニュアルにないからといって、趣味を優先していいのだろうか。
いまから考えれば、23日18時40分に「新幹線脱線」のメモを受け取った時が決定的に重要だったと思う。40年間、脱線事故なしの新幹線の「安全神話」が崩壊したのである。とてつもない異常事態である。首相は直ちに席を立ち、映画祭取材に集まった各社のカメラを前にして、こう語るべきだった。「新潟で大きな地震が起きました。関係諸機関は、全力を挙げて救援活動にあたるよう指示しました。周辺自治体の皆さんも支援の行動を起こしてください。国民の皆さんも、今後の情報に注目して、できる限りの支援をお願いします。私はすぐに官邸に戻り、対策にあたります」。1分も必要ない。このトップの声と姿を見たとき、人々は事柄の重大性を感じ、それぞれの立場で行動を起こすきっかけをつかむ。各官庁のどんな「指示待ち公務員」でも、「いつもと違う。これは大変だ」という気分になる。その気分の無数の重なりが、その後の組織の動きと勢いを決める。
映画祭で挨拶するシーンや、翌日のパウエル国務長官と会談のニュースが、地震のニュースと並んで流れる。トップの顔が見えないなか、マスコミが続々と現地に入り、差し迫った状況を報道しはじめるや、ようやく「これはただごとではない」という雰囲気になってきた。だが、初動における1時間余のトップの「空白」が、土曜と日曜を前にした各機関を緊急モードに急シフトするにあたってマイナスに働いたことは否定できないだろう。 野党党首が現地視察に入ると、首相もあわてて27日になり、被災地を視察した。それも、当初は天候不良を理由に中止の情報が流れ、それが一転、実施になるというお粗末さだ。首相が新潟空港に着くのは12時6分、新潟を離れるのが17時10分。5時間足らずの「駆け足視察」に、「気持ちがこもらぬアリバイ視察」との批判が出るのも当然だろう。
ところで、災害対策基本法は三つのタイプの災害対策本部を規定している。まず「災害対策本部」(23条)である。本部長は都道府県知事と市町村長。第2に、「非常災害対策本部」(24条)。本部長は、国務大臣、かつては国土庁長官、現在は防災担当大臣である。第3に、「著しく異常かつ激甚な非常災害が発生した場合」、内閣総理大臣を本部長とする「緊急災害対策本部」が立ち上がる(28条の2)。今回の場合、首相は、防災担当大臣にほぼ丸投げしている。くだんの担当大臣は、村田某というまったく無名の政治家。記者会見の時も、この一大事に何を勘違いしたか、癖なのか、妙な薄笑いが目立つ。前掲『週刊新潮』にすら、「ヘラヘラ『村田防災相』を叱りつけたイライラ『小泉総理』」とやられている。23日20時20分の段階で、「早期に先遣隊を出しましょうか」と意見具申したのだが、これが小泉首相の逆鱗に触れ、「早く出せ」と一喝された。だが、ここは首相自らが先頭に立ち、存在感を示すべき場面だったのではないか。
緊急災害対策本部を立ち上げるには、「異常かつ激甚な非常災害」という要件をクリアしなければならない。これは、東京直下型地震や大阪、名古屋が壊滅するような災害を想定しており、新潟の山村部では第2ランクの「非常災害対策本部」で足りると官僚は考えるだろう。だが、都市部と違って、山村地帯は孤立した箇所が非常に多い。台風続きで土砂災害の危険もある。山村では高齢化率が高い。豪雪地帯で冬も迫っている。こうした事態では、被災者の数や地域の広狭ではなく、被害の実質的な内容を考慮すべきである。できるだけたくさんのヘリを集中運用したり、道路確保を急いだり、孤立した人々を救出すべき重大事態であったはずだ。雪国であることからも、住宅の問題など、冬を前にして、短期間に全力を集中するケースである。大都市でないから優先度が低いという扱いだとすれば、国とは一体何なのか。
災害対策基本法上、非常災害対策本部には、総合調整機能が与えられている。官庁間で縄張り争いをやっているようでは十分な救援や復旧もできない。国と自治体で調整も必要である。消防のレスキューを投入するにも、孤立地域へのヘリがない。どこからヘリをもってくるか等々。より高い見地からの総合調整が必要かつ重要になる場面であった。全国からの救援ポランティアなどの有効な活用のための調整も必要となる。ところが、25日の段階で、政府は、新潟県に設けていた「現地連絡調整室」(14人)を「現地支援対策室」(30人)に格上げして、対策室内に「機動班」を設置して、対応が手薄な地域に職員を派遣するということだけ。たった30人のなかに「機動班」を作っても、たかがしれている。自衛隊の災害「活用」については批判があるが、この際、ヘリコプターの輸送力などに限れば、集中投入すべきケースだった。しかし、軍用ヘリでは救助専用ヘリ(ドーファンⅡ)と違って、さまざまな難点がある。数も十分でなかった。こうして、総合調整の役回りを果たすべき人間の不在により、またも阪神・淡路大震災の時の教訓が活かされなかった。
それにしても、大災害など、迅速かつ大規模な救援を要するような事態においては、トップの言葉や表情、姿勢、節目節目の動き方がいかに重要かを痛感する。この地震では、本来、新潟県知事が前面に出なければならない。だが、ほんの一週間前の県知事選挙(10月17日)で、岐阜県に出向中のキャリア官僚(42歳)が落下傘的に知事になった。いかにも小官僚という風貌で、とうてい危機を仕切れる器ではない。新潟、長岡などでこの人物よりも多くの得票をしながら惜しくも落選した、わが同僚、多賀秀敏候補(早大教授)。彼が知事になっていたら、机の上に飛び乗り、大声で指揮をとりながら、携帯電話で首相に直談判をしただろう。野戦型指揮官の素質も能力も十分に持っている。新潟の現場責任者ここにあり、という存在感を示せたのではないかと悔やまれる。今回、存在感ゼロの小官僚知事に代わって、全国的に知られるようになったのが、山古志村村長・長島忠美さん(53歳)である。早い時期に、2200人の全村民の避難指示を決断した。なかなかできることではない。彼の判断は正しく、その後すぐに、同村の水没の危険性が指摘された。適切な場面、適切なタイミングで、適切な指示が出された例だろう。26日になって、道路の開通に伴い、村民の一時帰宅を認めた。実にメリハリのきいた仕切りである。村長はマイクを握り、一人ひとりに声をかけ、「皆さん、これから家に戻ってもらいます。きちんと約束を守ってくれる人だけ行ってください」。決して一人では家に入らないこと、近所の人と一緒に入ることなどの注意をきちんと伝え、励まし、自覚を促し、希望を与えている。メッセージも明快。これが指導者というものだろう。なお、町村合併により、来年4月、この村は長岡市に編入される。『朝日』25日付「ひと」欄は、この「最後の村長」の決意を紹介している。「全村避難は本当に悔しい。必ずもう一度緑豊かなふるさとにしたい」と。この国の饒舌なる首相がときおり見せる恐ろしいまでの冷たさと比べると、小さな村のぼくとつな村長の責任感と村民への愛情あふれる言葉と対応がせめてもの救いだ。
最後に注意しておくべきことがある。それは、こうした大災害が起こるたびに、いつも、首相の権限強化やら、包括的な緊急事態法制の必要性が強調されることである。立憲主義の観点から言えば、首相の緊急事態権限を拡大することには慎重でなければならない。怪しげなシステムを作ろうとする首相が、いま、どんな動き方をしているかをよく見ておこう。どんなに首相に権限が集中しても、首相の関心が松たか子に集中していれば、システムは動かない。23日夜以降の救援態勢は、典型的な「力の逐次投入」の愚をおかしていないか。改善されるべきはシステムよりも、それを運用できない人と政治である。