「戦国時代の最大の激戦は?」と問われれば、たいていの人は「天下分け目の関が原」とか、「鉄砲3000丁」で知られる「長篠の合戦」を挙げるだろう。いずれも歴史的に重要な意味をもつ戦いであった。ただ、関が原などは、いくつかの遭遇戦が組み合わされただけで、両軍が全力で激突することはなかった。一度の合戦で大量の死傷者を出したという点では、1561(永禄4)年9月10日の「川中島の合戦(第4次)」こそ、最大の激戦と言えるものだった。上杉謙信(越後)と武田信玄(甲斐)という地方大名間の衝突であり、戦争の性格という観点から見れば、一地方の局地戦にすぎないとすることも可能だが、戦争の悲惨さという点で診れば、これだけ短期間に大量の犠牲者を出した合戦は、戦国時代といえども稀有であった。
この合戦では、信玄は作戦軍を二分。別働隊1万2000が背後から妻女山の上杉方を攻撃し、信玄率いる主力8000の待つ八幡原方面におびき出して、挟み打ちにするという「啄木鳥の戦法」をとった。だが、謙信はその手にのらず、1 万3000の主力をもって信玄正面に一気に押し出してきた。信玄は上杉方の猛烈な突進を「鶴翼の陣」で迎え撃った。これは、鶴が両翼を張ったように12段の陣を構え、進出してくる敵を三日月形に包囲する陣形である。今風に言えば、「逆八型縦深陣地」である。他方、上杉方は「車懸りの陣」で攻めたてた。これは、謙信の旗本を中心に、水車が廻るように次々と新手を繰り出して突撃を反復・継続する戦法である。わずか一日の戦闘で上杉方は戦死3400、戦傷6000、武田方は戦死4600、戦傷1万3000とされている。単純計算で、上杉方の戦傷率は72%、武田方は88%である。『甲陽軍艦』によれば、「…突きつ突かれつ、伐ちつ伐たれつ、たがひに具足の綿噛みをとりあひ組んで転ぶもあり、首をとって立ちあがれば、その首わが首なりと名乗って槍つけるをみては、又その者を斬り伏せ、のちには十八、九歳の草履とりまで手と手を取りあひ刺し違へ候」という死闘だった(桑田忠親編『日本の合戦』3巻、人物往来社)。両軍が満身創痍の状態。謙信が敵本陣に単騎斬り込み、信玄と渡り合ったという「三太刀七太刀」の伝説も生まれる激戦だった。信玄の弟信繁をはじめ、名だたる武将が多く戦死した。結果は引き分けだし、戦国史全体から見れば、軍事的・政治的意味はさほど大きくない合戦だったとはいえ、一回の戦闘による死傷者数という点で見れば、戦国時代最大にして最も苛烈な戦闘だったと言えるだろう。
作戦軍の運用面から見れば、信玄はどんな強力な敵でも懐深く包み込んだ上で殲滅する戦法をとるのに対して、謙信は回転鋸のように常に新手の破壊力を繰り出す戦法で、機動性と迅速性を重視した。この二つのタイプがまともに激突すればどうなるか。中国の故事「矛盾」のように、何物も貫き通す鋭い「矛」と、何物も通さない頑丈な「盾」とがぶつかる関係に似ている。信玄と謙信の戦いは、そうした「矛盾」に近いもので、多数の犠牲者が出るのは当然だった。双方合わせて8000の命が一回の戦闘で失われた。想像してみよう。一人の兵に何人の親族、親類縁者がいるかを。上杉、武田双方に与えた影響は大きい。引き分けのため、敵の領地を十分に恩賞として与えることはできない。武将たちの士気を維持するため、謙信は、戦功ある武将たちに「血染めの感状」(一族・郎党らの死の代償という意)を与えてねぎらった。その一つ、色部修理への「感状」にこうある。「…武田晴信に対して一戦を遂ぐるの刻、粉骨比類無く候。殊に親類被官人手飼之者余多これを討たせ、稼ぎを励まさるに依り、兇徒数千騎討ち捕り…」(前掲『日本の合戦』参照)。だが、武将から下級兵士に至るまで不満は残ったはずである。この合戦が「トラウマ」になって、3年後の第5次「川中島の合戦」では、信玄は2カ月の間、本陣の位置を明かさず、衝突を回避しようと試みたし、謙信も、信玄への抑えとなる飯山城の普請が完成するや、越後に引き返している。それだけ双方への影響は大きかったと推察される。
8000人が死ねば、帰還を待ちわびる家族は絶望のどん底で苦しむ。最愛の夫を失った妻の悲痛な叫び、息子に先立たれた親の悲哀、父親をなくした子どもの悲しみは、いずこの時代も変わることはない。一つの村から出陣した男の大半が戦死ということもある。その村は悲しみにつつまれ、立ち直りには相当な時間を必要とする。足軽は農民が多いから、労働力のダウンも無視できない。戦死者の家族に対するケアは、次の戦争を行う上でも重要となる。戦国時代のみならず、どこの国、どの時代でも、軍事においては、軍の組織や編制、装備、運用思想、精神教育などだけでなく、いわばソフト面として、留守家族の援護(軍事援護)、戦死者の顕彰・叙勲、遺族年金なども重要な課題となる。「隣保相扶」もその一つ。日清戦争あたりから始まった。国家丸抱えで援助するのにも限りがあるので、市町村や地域社会で相互助け合いシステムを使って、留守家族を援護するのだ。1917年の軍事救護法制定以降、国費救護に軸足を移すが、日中戦争以降、「国民の隣保相扶」という形に転換していく。地域の相互扶助の仕組みを戦争目的に利用していったわけである(郡司淳『軍事援護の世界-軍隊と地域社会』〔同成社、2004年〕参照)。
現代日本においては、退職自衛官援護、つまり再就職斡旋が中心となる。公務中の事故死については、6000万円の「賞恤金」(賞じゅつ金)が支払われる。ただ、これは「戦死」ではなく、「公務死」である。戦後半世紀もの間、自衛官が海外で「戦死」することは想定されてこなかった。この国は憲法9条で「戦争をしない国」というのが国是であり、自衛隊員は「わが国を防衛するために」、「危険を顧みず」「身をもって責務の完遂に努め」ると宣誓したはずである(自衛隊法施行規則39条)。ブッシュ政権へのご機嫌取りのため、命を危険にさらす「宣誓」はしていない。
来年1月末のイラク総選挙を前にして、武装勢力は全力で選挙の妨害をはかり、占領権力に対して攻撃を仕掛けてくるだろう。自衛隊も例外ではあり得ない。不幸でかつ残念なことだが、戦後半世紀で初の「戦死者」がでる可能性がきわめて高い。ブッシュ再選と、自衛隊イラク派遣延長決定で、それは時間の問題となったと言えるだろう。
一般に、国家公務員の公務死亡は「殉職」となる(ちなみに、ドン・キホーテ社長が焼死した店員にこの言葉を使ったが、あらゆる意味で不適切だった)。自衛官の場合も、賞恤金が支払われる。防衛庁の「賞恤金に関する訓令」に基づく賞恤金は最高6000万円だったが、このほど9000万円に増額された(衆議院「賞恤金制度に関する質問主意書」)。これに、閣議決定による「特別褒章金」(テロ対策関連業務に従事する者、最高1000万円)が加算される。そのほか、イラク保険(1カ月1万5610円の掛け捨て保険)1億円、防衛庁共済団体傷害保険2618万円、退職手当2170万円(階級により異なる)、葬祭補償138万円、埋葬料・弔意金64万円、派遣手当48万円、夜間特殊業務手当1万円等々。トータルで約2億5000万円になる(北井亮『戦士の値段』太田出版、2004年参照)。自衛官の公務死については、内閣府が勲六等前後を緊急叙勲で与えるという。だが、どんな大金も勲章も人の命と引き換えにすることはできない。
近年、自衛隊制服組は、自衛隊に軍隊としてのすべての属性を与えるように自己主張を始めた。「自衛官の名誉処遇」として、戦闘に参加する自衛官への新たな叙勲基準や独自の栄典制度新設を要求したのもその一環だろう。イラク派遣の自衛官については、訓練中の死亡より上位の勲章を授与するように要望したという(共同通信2004年7月22日)。同時に、戦死者の精神的支えをどうするかという問題も出てくる。自衛隊が旧軍同様、靖国神社との深い関係をもつことは、憲法の政教分離原則との関係でも許されない。靖国神社遊就館には、自衛官の集団参拝の写真が掲げられているが、その方向は、自衛隊内の新しい世代も全面的に歓迎というわけではないと思うのだが。
バルカンやアフガンなどに6700人(2004年12月9日現在)を派遣しているドイツ連邦軍は、「海外派兵の先輩国」として同じ悩みを抱えている。連邦軍の外国での死者(事故死を含む)はすでに56人に達している(2004年7月現在)。今年7月、連邦参議院で一つの法案が審議された。「外国特務における援護の規制に関する法律(案)」。連邦参議院文書04年323号には、「世界におけるドイツの意義の増大」のために必要な費用の見積もりが書かれていて、年間15人の「出動時の事故」が計上されている。外国出動で10人までが死ぬだろう(Zehn Soldaten im Auslandseinsatz dürften sterben, …) と想定されており、さらに5人について、50%から80%の間の「出動能力の減少」が見込まれている。「戦死10」と「戦傷5」の計15人までを毎年度の予算に計上するという、何とも生々しい見積もりではある(Die Zeit vom 15.7.2004)。8割負傷というのは「両手・両足切断」だから、長期にわたる給付の可能性が高い。創設以来、ソ連・ワルシャワ条約機構軍からの防衛を任務として存在してきたドイツ連邦軍を、専門の海外緊急展開部隊と安定化部隊、地域はりつけ部隊の三分割する構想も進行中である。イラク戦争に反対して、米国と一線を画したドイツも、「対テロ戦争」では積極的にアフガニスタンに軍を駐留させている。
ドイツ人にとって、2003年6月7日は、海外での「戦死」の覚悟を実感する日となった。この日、33人のドイツ軍人を乗せたバスがカブール空港へ向かう途中、自動車爆弾の攻撃を受けた。4人死亡、6人重傷。うち一人は失明し、一人は片足を失った。全員が聴力に傷害を残し、多くは今日まで、トラウマ(PTSD)に苦しんでいるという。「軍人が戦闘で死ぬ」ということは、連邦軍にとっては、これまでなかった考えだった。「われわれは45年の長きにわたって、それを排除してきた」と連邦軍総監シュナイダーハン大将はいう。冷戦時代を通じて、ドイツ軍人が死ぬのは交通事故と自殺、それに演習での事故くらいのものだった。いま、6700人のドイツ軍人が海外出動しているが、外国で死んだ56人の軍人のうち、敵対部隊との戦闘で命を落とした者は一人もいないという。だが、これからはそうはいかないだろう。
12月22日、モスルの米軍基地に自爆攻撃が行われ、米兵が一度に多数死亡した。負傷者の数も多く、ドイツのラインマイン空軍基地には42名が空路搬送され、軍病院で緊急手術を受けたが3名が危篤という地元紙の報道があった(Frankfurter Rundschau vom 24.12)。世界のメディアは注目しないが、この負傷米兵たちとそれを抱える家族の苦しみが始まる。ファルージャでどれだけの市民が死んでいるか。「自衛隊が活動するところが非戦闘地域だ」という小泉首相は、自衛隊を国際政治の道具として利用している。自衛隊はイラクから直ちに撤退すべきである。
というわけで、ややきな臭い話になったが、これで2004年「直言」を締めくくることにしたい。来年も毎週更新を続け、連続500本更新(2006年夏を予定)を目指したい。
なお、2003年より「年賀状の一方的廃止」を実践している。元旦には年賀状が多数届くと思うが、このような私の勝手な事情のため、お返事は出していない。この機会に不義理をあらかじめお詫びしておきたいと思う。それでは、読者の皆さん、よいお年を。