筆者体調不良により、休載します。
今週は、 『月報司法書士』2004年12月号・憲法再入門Ⅱ連載10回を転載します。管理人
憲法九条はいらない?
◆改憲問題Q&Q
「こんなものいらない?」シリーズの最終回は、憲法九条である。最もそのように言いそうにない筆者のことだから、結論は見えているという声もあろう。やや宣伝めくが、この10月に、筆者が共同代表を務める「憲法再生フォーラム」が『改憲は必要か』(岩波新書)を出版した。帯には、「変えてもいいのでは?そう思い始めている人のための憲法Q&A」とある。企画・編集を担当した筆者は「あとがき」で、「いまの憲法は悪くはないが、そろそろ変えた方がいいのではないか」と考えている人々と対話する気持ちで、「改憲問題Q&Q」を目指した、と書いた。本稿でも、「九条はいらない?」と問いかけてみる所以である。
◆24年前の江藤淳
憲法九条は二つの「項」からなる。第一項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、第二項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」である。
このわずか一箇条をめぐって、半世紀以上にわたり解釈論争が展開されてきた。改憲すべしという議論を見ても、九条をトータルに否定する意見は影をひそめ、「第一項はとりあえず残して、第二項を変える」という形で、一項・二項分離論が主流になっているようである。
第一項の戦争放棄と、武力威嚇・行使の放棄は、不戦条約(1928年)と国連憲章(1945年)の到達点を反映したものである。改憲派も、1928年以前に戻れと主張する者はいないだろうから、「九条を改正しよう」という場合の焦点は、第二項に何らかの変更を加えるかどうかに落ちつく。
この第二項に早くから着目して、その問題性を指摘していたのが江藤淳(文芸評論家)である。この保守派の論客は、論文「一九四六年憲法――その拘束」(『諸君』1980年8月号)で、憲法九条二項が何よりも「主権制限条項」であると主張した。「戦争か、平和か」という議論軸を、「主権制限を続けるのか、主権を回復するのか」という軸に微妙にスライドさせる傾きをもつ論稿だった。
江藤は、第二項を改変して交戦権を回復することは、決して戦争への道ではない。核武装も意味しない(江藤は核武装は「賢明な選択ではない」として退けている)。要するに「それは主権の回復のみを意味し、日本が強制された憲法上の拘束によってではなく、自らの意思によって選択した基本的政策として、平和維持のあらゆる努力を継続することを意味する」と主張した。米国滞在時に入手した憲法制定過程の資料なども使っており、個々の資料や指摘には興味深い点もある。ただ、主権制限条項という「仮説」に絞り込んでいく筆運びは、やや強引という印象は否めない。
◆交戦権否認と改憲案
《国家の本質は交戦権にある。交戦権を奪われた国家は主権国家ではない》。こう言われれば、その通りだと思う方もあろう。だが、自衛権や交戦権を、国家固有の権利とする考え方は立憲主義とは相いれない。そこでは、憲法によって創設され、確認されたものだけが認められるからである。
交戦権をめぐっては、①国家が戦争を行う権利、②国際法上の交戦者の諸権利の総体、③その両方という三説に分かれる。憲法九条は、戦争、武力行使・威嚇を放棄し、そのための戦力の不保持を明確にし、通常国家が国際法上「交戦者」として持つ権利をも否認するという形で、徹底した平和主義を採用したのである。
江藤のように交戦権否認を主権制限条項という形で問題にするのは、ある種のレトリックだろう。そもそも国家主権の発動としての戦争(武力行使)を放棄し、それを戦力の不保持に連動させたところに、憲法九条の際立った特徴がある。戦後日本は、その出発点において、「普通の国家」のありように修正を加えたと考えるべきだろう。日本が自ら戦力を保持しないと同時に、国際法上認められる交戦者資格を一方的に否認することによって、平和主義を徹底しようとしたわけである。
◆改憲論の語り口
「主権回復のため、交戦権を否認した九条二項を削除せよ」という江藤の主張は、「占領下の押しつけ憲法」という古めかしい議論に乗ることなく、交戦権否認=「主権制限条項」という形で、憲法の「押しつけ」性に別の角度から光をあてることを狙ったものと言えよう。ただ、この議論は、現在の改憲派の関心を引くことはないだろう。90年代以降、「国際貢献のための武力行使」の可否に議論がシフトしてきているからである。
このほど公表された自民党憲法調査会「憲法改正大綱」原案(『読売新聞』2004年11月17日付「スクープ」記事)を見ると、現行憲法九条の第一項の内容はそのまま維持されているが、「個別的または集団的自衛権を行使するための必要最小限の戦力を保持する組織として、自衛軍を設置する」という形で、第二項はまったく別物に改変されている。「自衛または国際貢献のための武力行使であっても…必要かつ最小限の範囲内で行われなければならない」と、ご丁寧に「武力行使の謙抑性」の条項まで予定されている。
日本国憲法の最大の特質である九条二項が、こうした形で改変されてよいのか。根本的な議論が求められる所以である。
江藤は1999年、妻の後追い自殺という形でこの世を去った。江藤主張が、今の改憲論議で注目されることはないだろう。ただ、九条二項にターゲットを絞るという江藤のアイデアは、その後の改憲論にも継承されているのである。
〔『月報司法書士』2004年12月号・憲法再入門Ⅱ連載10回所収〕