「塀の中」に入ってみれば  2005年4月11日

1月に、ゼミ学生と府中刑務所を見学した。事前に、府中刑務所の外国人受刑者訴訟担当の女性弁護士をゲストに呼んで勉強を重ねていたので、学生たちはそれぞれの問題意識で見学に臨んだ。学生たちは相当細かい質問を行い、刑務所側も時間をとって対応してくれた。1998年にゼミで見学したときに比べて、施設的には随分きれいになっていた。
  
見学では、まっさきに「保護房」に案内された。最新式の床暖房になっていて、菊田幸一『日本の刑務所』(岩波新書)のイラストにある薄汚れたイメージとかなり異なるので、学生たちも驚いていた。きれいになったとはいえ、その運用が問題であることはいうまでもない。受刑者たちの作業場もいくつか見学した。雑居房では、廊下側の、見学者からよく見える位置に本や雑誌が置いてあった。『週刊金曜日』1月14日号もあった。《本多勝一インタビュー「憂刻ニッポン」第1回小沢一郎》という文字を刑務所内で見るのは、何とも不思議な気分だった。
  
『平成16年版犯罪白書』によれば、全国的に、既決囚だけで120%の過剰収容になっており、2007年には146%を超えるおそれがあるという。松宮孝明氏(立命館大学)は、こうした「過剰収容」状況のなかで、2004年の刑法・刑訴法改正による重罰化がもたらす影響について分析している(「過剰収容」時代の重罰化」『法律時報』2005年3月号「法律時評」)。
  
昨年12月、有期刑の上限を現在の15年から20年に引き上げるなど、刑法の重罰化がはかられた。殺人罪の公訴時効は現在15年だが、それを25年に延長するなど、刑事訴訟法の改正も行われた。「治安の悪化」が叫ばれ、「安全で安心して暮らせる社会の実現」を目標として厳罰化が行われているが、松宮氏が指摘するように、このような方法では、下手をするとそれに逆行するおそれもある。氏はその原因の一つを、刑務所の「過剰収容」に求める。執行猶予から実刑へ、実刑の場合でも刑の長期化といった重罰化は、受刑者の社会復帰にとってマイナスの効果をもたらす。「重罰化は、犯罪を減らすどころか、これを増やす可能性がある」と指摘する。「大事なことは、人々の間に共有されている規範を前提にして、その違反を明らかにし、これに対してきちんとした罰を与えることであって、与えられる罰を大きくすることではない」、「長期隔離によって合法的な生計の道がますます狭くなるために、非合法な手段によって生計を立てようとする圧力が強まる」という側面も指摘する。
  
刑務所における受刑者の処遇については、一般市民の理解とのズレは大きい。一般には、長く拘禁して自由を奪うことで「罰を与える」というイメージが強いが、むしろ、受刑者を理性ある人格として尊重し、社会の担い手として復帰できるような自発性の涵養こそ重要である。このように、刑務所をめぐっては、さまざまな構造的な問題が複雑に絡み合っているのである。なお、4月3日に「受刑者の家族会」が発足した。「刑務所でも社会とのつながりを持ち続けることが、その後の円滑な社会復帰に役立つ」という観点から、親族だけでなく、友人との面会も可能にするよう働きかけてきた人々だ。今国会で監獄法が抜本的に見直され、友人との面会も認められるようになる( 『朝日新聞』2005年4月2日付) 。学生たちから、「塀の中」でいろいろなことに気づき、驚き、そして考えたことがメールで届いた。一人の学生はいう。「精神的に何らかの疾病をかかえている者が30%、身体的に疾病のある者が50%、両方もちあわせている者もいるので、健康な人は43%と聞きました。『何かしら病んでいるんですね』という刑務官の言葉から、B級の刑務所は、病める社会の縮図のような気がしました」と。なお、『月報司法書士』の「憲法再入門Ⅱ」連載第12回(Ⅰからの通算では第18回)を転載する。

 

「塀の中の人々」の権利

 ◆「塀の中の人々」の現風景

  「お掘りの向こうの人々」の問題についてはすでに書いたので(本誌2004年8月号「象徴天皇制を診る」参照)、今回は「塀の中の人々」(在監者)について述べよう。
  
安部譲二『塀の中の懲りない面々』(新風舎)という自伝的小説がある。松竹から映画化(1987年)されたので、ご存じの読者も多いだろう。舞台は東京の府中刑務所。府中生まれの府中育ちで、いまも府中市に住んでいる筆者でも、「塀の中」に入ったのは二度しかない。
  
この1月中旬、ゼミ学生を引率して、7年ぶりに府中刑務所の見学を行った。建物は改築され、大変きれいになっている。通常では見学できない「保護房」(自傷加害の恐れある者などを収容する)の内部にも立ち入ることができた。床暖房になっていて、天井のカメラで24時間監視される。ドア横の柱には、「台東○○」「二代目○○」などのいたずら書きがびっしり。そこは監視カメラの死角だそうで、食器を返すときにスプーンで彫ったものらしい。ジョージ・オーエルの小説『1984年』のなかに、ビッグ・ブラザーの監視スクリーンのわずかな死角で、主人公が禁止されている日記をつける下りがあるが、それを思い出した。
  
見学は刑務官の指示で、男子学生が女子学生を間にはさみ、二列縦隊で進む。作業場では、高齢者や外国人の姿が目についた。府中刑務所は犯罪傾向が進んだB級受刑者が収容されている。窃盗と覚醒剤で全体の63%。平均4.5回の入所歴があり、最高は37回という。平均年齢46歳(最高85歳)。定員2598人に対して、現在3116人。過剰収容の問題は深刻である。見学した雑居房は6人定員。二段ベッドを入れ、さらにその下に足を入れて寝かせ、8人を収容していた。
  
手紙や書物の検閲はあるが、雑居房をのぞくと『週刊金曜日』の最新号まで置いてあった。私が執筆した号ではなかったが、ちょっと驚いた。隣の房には風俗記事満載の『週刊実話』も。学生の質問に担当官は、「極端な性描写や、脱獄方法の詳細な記述がなければ許可している」と答えていた。
  ここの特徴は、大阪刑務所と並んで、外国人受刑者(F級)に対応する国際対策室が置かれていることだろう。F級では、中国人(香港・台湾を含む)が一位で全体の40%。次いでイラン人10%。計44カ国、31言語、536人が収容されている(04年12月末現在の数字)。主要5言語(英、仏、中、ペルシャ、ポルトガル)については専門職員がおり、13言語は民間の専門家で対応しているという。いろいろな工夫や努力のあとは窺われたが、犯罪の「グローバル化」に追いついていないという印象である。

 ◆在監者の権利

  在監者の権利制限を「特別権力関係論」で説明する人はさすがにいない。ドイツ帝政時代のこの理論は、国などの特別権力の主体は、命令・懲戒権などの包括的支配権を与えられ、それに服する者に対して、一般国民に保障される権利・自由を法律の根拠なしに制限でき、それに対しては司法審査が及ばないというものである。大日本帝国憲法時代ならともかく、日本国憲法のもとでは到底とることのできない理論である。学説は一様にこれを退けている。
  もっとも、現実の行刑現場では、法律上の根拠なしにさまざまなことが行われている。それは、「在監目的を達成するために必要最小限度の合理的な権利・自由の制限は、憲法が容認している」(芦部信喜『憲法学Ⅱ』有斐閣)という形で説明されている。
  例えば、喫煙禁止は監獄法上明文の規定がなく、監獄法施行規則96条で全面的に禁止されている。最高裁判例は特別権力関係論によらず、権利制限の目的などの比較考量を通じて、喫煙禁止(未決拘禁者)について「必要かつ合理的な」制限であると判断している(最大判1970年9月16日)。
  
図書・新聞の閲読については監獄法31条に規定があり、同施行規則86条は、在監目的を害しない限りでの閲読を認めている。新聞記事の墨塗り配付を争ったケース(未決拘禁者)で最高裁は、「閲読の自由」の制限を、監獄内の規律・秩序維持に障害を与える「相当の蓋然性」を理由に認めている(最大判1983年6月22日)。
  
なお、府中刑務所では、『読売新聞』と『DAILY YOMIURI』の講読が許可されているが、「なぜ朝日新聞は読めないのか」という学生の質問には、受刑者のアンケートで講読紙を決めているという回答だった。
  
最後に保護房について。保護房は監獄法に明文の根拠がない。法務省矯正局長通達(1967年)に基づいて実施されている。通達では7日間が収容限度とされるが、3日ごとの更新が可能で、懲罰手段の一種として、これを長期利用する問題が指摘されている(菊田幸一『日本の刑務所』岩波新書)。府中でも外国人受刑者の国家賠償訴訟が複数起こされている。

 ◆刑務所改革のために

  名古屋刑務所事件を契機に、日弁連は、行刑制度の抜本的改革を求める総会決議を行った(03年5月23日)。そこでは、革手錠の廃止や保護房のあり方などが提言され、刑務官の増員と人権教育の必要性も説かれている。筆者が見学した感想でも、やはり刑務官の数が足りない。一人で50人以上をみるのは大変である。小学校の「40人学級」の問題と同様、細かな指導を行うには、人数的な限度がある。過剰収容は、行刑現場の悩ましさの背景に常にあるように思う。特別権力関係論を、刑務所側の意識と儀式と方式のすべてにおいて克服するためにも、憲法と国際人権のスタンダードを「塀の中」に徹底すると同時に、刑務官増員と勤務条件改善などの改革も必要だろう。

〔『月報司法書士』2005年2月号「憲法再入門Ⅱ」第12回50-51頁所収〕