この直言が出る頃には「9.11総選挙」の結果が出ていることだろう。それはまた別の機会に書くとして、今回は、先週5日から8日までの水島ゼミ長崎合宿について述べよう。
毎年ゼミ合宿をやっているが、なぜか台風に縁がある。時期の問題だけではなく、ゼミ内に「嵐を呼ぶ男(女)」がいるのかもしれない(smile)。それはともかく、学生たちは4班に分かれて、早い班は8月30日に車で東京を出発。広島などをまわりながら長崎入りした。台風直撃など予想もできない段階で、すでに4つの班の合計29人の「先遣隊」がさまざまな経路で長崎に向かっていた。「本隊」は台風の九州直撃がはっきりした5日朝、羽田空港に集合した。「本隊」といっても、私と学生2人だけ。そこで長崎行きの飛行機が欠航という事態になった。もし、その場に31人全員がいたら、私は合宿を中止していただろう。ゼミ生の9割が長崎にいる。私だけ東京にとどまることはできない。新幹線で行くことも考えたが、運良く福岡行きへの振り替えが可能というので、すぐに手続きをとった。福岡からは高速バスである。途中、私だけは佐世保に寄って講演をして、翌日学生たちと合流する予定だった。夕方、佐世保市内で開かれた講演会の途中から風雨が強まり、終了後、ホテルでNHKラジオ「新聞を読んで」の原稿を書いていたが、風雨は時間の経過とともに激しくなっていった。
翌朝、JRは全線運転見合せ。高速道路も次々に閉鎖。タクシーで国道を長崎市まで行く覚悟をしたが、佐世保バスセンターでしばらく待っていると、何とか長崎行きの高速バスに乗ることができた。学生たちには6日のすべての取材をキャンセルさせて、ホテル待機を指示していた。昼前、私が長崎市内のホテルに着いたとき、五島列島に孤立した班を除いて、全員がホテルで私を待っていた。ロビーでテレビを見ると、高速道路が全線閉鎖に。間一髪だった。取材ができず、学生たちはふさいでいたので、いつも教室でやる3時間ぶっ続けのゼミをホテル内でやろうと提案した。ホテル側の配慮で、台風でキャンセルになった会議室を夜遅くまで無料で借りることができた。教室でやる授業と同じ時間にゼミを開始したが、その直後、諫早市に台風が上陸したとのニュースが入った。暴風雨のなか議論は延々と続き、日頃の授業ではあまり話せなかったゼミ生たちとも、トータル12時間にわたって密度の濃い議論ができた。もし天気がよければ、彼らはそれぞれの取材先に散っていっただろうし、合宿先で全員が揃うのは、長崎大学山口ゼミとの合同コンパだけの予定でいたから、一回性の密度の濃い議論は「台風のおかげ」といえなくもない。なお、五島列島に孤立していた班も、7日午前には長崎に入り、取材日程を急遽変更して、精力的に各地をまわっていた。
通常、大学のゼミ合宿というのは、指導教授が学生を「引率」するという形をとるが、私のゼミの場合、それぞれが決めたテーマに従って行政、団体、個人などを取材するため、私と行動をともにすることは滅多にない。そのかわり、携帯メールで朝晩の報告を義務づけている。全班長からその日の行動と翌日の予定について、携帯に長いメールが入り、それを読んで個別に指示を出す。私のゼミの場合、教員の「指導」とは、携帯メールの「親指」で「導く」という意味になる。ここ数年、私の親指はゼミ合宿の間はフル回転である。携帯否定論者だった私が、こういう「指導」をやっていることを知れば、携帯不保持を宣言していた私を知る昔のゼミ生たちは、さぞかし苦笑していることだろう。
さて、台風が接近する5日夜に佐世保市内で行った講演は、佐世保北部地域の「九十九島9条の会・準備会」であった。この日の会は、10月に正式に会を発足させるための準備のためのもので、終了後、かなり時間をかけて議論が行われていた。私は懇親会があるというので途中まで参加したが、話し合いは延々と続き、夜10時近くまで待たされた。でも、この話し合いは面白かった。
講演で私は、憲法が権力者を拘束し制限するものであることを強調した。「9条2項を改正して何が悪い?」という論点では、もし9条2項を削除するとこうなるというシミュレーションを3点にわたって述べた。講演後の準備会では、その論点が話題となった。
もともと「九条の会」というのは、作家の大江健三郎氏ら著名な9人の呼びかけによって2004年6月に発足したもので、私が共同代表と事務局長を務める「憲法再生フォーラム」の創設メンバーが4人参加している。また「九条の会」事務局長は、「憲法再生フォーラム」初代事務局長の小森陽一氏(東大教授)である。「憲法再生フォーラム」が理論面を、「九条の会」が実践面を担うという見えざる分担関係でこれまでやってきている。他方、「○○九条の会」が、全国各地、さまざまな職種・分野で結成されており、7月末現在、その数は3026にのぼるそうである。
佐世保北部地域の人々が「佐世保北・九条の会」という名称ではなく、あえて、その地域の名称「九十九島」(くじゅうくしま)を頭につけた理由として、憲法99条の「憲法尊重擁護義務」と9条をかけるという含意があったことが、この日の会合でわかった。私は大変うれしかった。準備会のホームページにはこういう一文がある。「この文章〔憲法99条〕をよく読むと、不思議なことに気づきます。“国民”がありません。つまり、国民には憲法を守る義務がないのです。そんなばかな、『ミスプリントじゃないの』うっかりしたんじゃないの、真面目な人ほど、そう思いますよね。法律は、ダメダメばかりで、国民を縛るもの、そう思っていませんか。しかし、ここが日本国憲法の真髄なのです。…憲法を尊重し擁護するのは、国の行政を任された人達なのです」と。
合衆国憲法は、大統領や各級議員に憲法擁護義務を課している(合衆国憲法2条1節Ⅷ、6条Ⅲ)。大統領が「憲法の尊重を監視する」という場合もある(フランス第五共和制憲法5条)。ドイツのように、むしろ、国民に憲法忠誠義務が課せられ、憲法秩序に敵対する個人や政党などを制限する「たたかう民主制」を採用する国もある(ドイツ基本法5条3項、9条2項、18条、20条4項、21条2項など)。これに対して、日本国憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定め、義務を負う主体を国家権力の担い手に明確に限定し、国民を含めていない。その意味をどう理解するかは、立憲主義の理解ともかかわるが、日本ではこの点を誤解している人が少なくない。「護憲」の立場に立つという人でさえ、憲法は「国民みんなが守る大切なきまり」と思い込んでいる人がいる。フジテレビの「国民的憲法合宿」でも、参加した市民6人全員が、当初は、「憲法とは何か」という本質的な点の理解が曖昧だった。99条の憲法尊重擁護義務を削除し、国民の憲法尊重義務の導入を提案する「読売改憲試案」のスタンスは、実に明快である。こうした「国家権力にやさしい憲法」への変質を狙う試みについては、すでに何度か指摘したので立ち入らない。
さて、憲法99条の「憲法を尊重し」とは、憲法を文字通り遵守し、その規範内容の実現のために努力することを意味し、「擁護する」とは、より積極的に、違憲行為の発生を防止し、現に生じた違憲行為の是正に努力することまでも含むと解することが可能である。ただ、学説はそこまで積極的な意味をこの条文から引き出すことなく、道義的・倫理的要請を抽象的に表したものと解するものが有力である。しかし、単なる道義的・倫理的義務にこの条文の意義と効果を縮小することは妥当ではなく、やはり憲法上、法的義務と解すべきだろう。
憲法9条を軽視、無視、蔑視してきた権力者に対して、市民が「憲法9条を守る」というのは、こうした憲法尊重擁護義務の問題ではなく、憲法の同一性を確保しようという意味合いだろう。もっとも、市民が「憲法9条を守る」というと、国家権力の担い手に「憲法9 条を守らせる」というニュアンスが曖昧になるきらいもある。
そこで、佐世保の人々は、長い議論の末、「九十九島9条&99条の会」という名称への変更を決めた。「九条の会」のホームページを見ると、「九条の会にはまだ規約などがありません。当面は規約を作る予定もありません」(Q&A) とある。「九十九島9条の会」には「規約(案)」があって、その1条には、「本会は、憲法9条を守る一点で手をつなぐことを目的とします」となっていた。この日、台風が接近するなか、議論の結果、「本会は、憲法9条と99条を守らせるという一点で手をつなぐことを目的とします」に変更された。私は9条と99条をセットでとらえる視点を「平和のスリー・ナイン」と呼んできた。憲法9条を国家権力に守らせる。それを徹底すれば、国家権力の担い手は、憲法99条により、憲法9条の規範内容を実現する義務を負うわけである。九十九島の会の発足は、この9条と99条の関係を明確にするという意味でも、大変意義深いと思う。
そこで思い出したのだが、沖縄県中部の読谷村役場の2階村長室に掲げてある憲法9条と99条の2本の掛け軸に関連して、これを掲げていた山内徳信前村長に私がインタビューして作ったブックレット『沖縄・読谷村の挑戦――米軍基地内に役場をつくった』(岩波書店)のなかに、こういう下りがある。
水島:
正面玄関横には、憲法九条の碑がありますね。村長室には、旧役場のときから、憲法九条と九九条(憲法尊重擁護義務)の両方の掛け軸がかかっています。九条だけでなく、九九条とセットにしているというのは、非常に大事な視点だと思います。私は村長室の掛け軸のことを、『平和のスリー・ナイン(999)』と紹介したことがあります(水島『武力なき平和』岩波書店参照)。山内:
そう。憲法九九条は、憲法を守らない可能性がある者を縛るためにある。村長であるわたくしも、「その他の公務員」のなかに当然入る。これは自分への戒めでもあります。水島:
まさに「憲法を村長が擁護する義務」ですね(笑)。カリスマ的な首長の場合、長期政権になるとどうしても権力的になったり、腐敗が生まれますが、読谷村の場合は全然そういう感じがしない。…憲法九九条を常に身近に掲げて自分を「憲法を破る可能性をもつ側」に置きながら、他方、いつも心の中に辞表を携えておられる。この若々しさが続く限りは、当分、読谷村の「先端性」は大丈夫だと思います。山内:
ありがとうございます(笑)。
このブックレットが発売されてまもなく、山内氏は大田沖縄県知事(当時)によって沖縄県出納長に任命され、海上ヘリ基地問題をめぐる対政府交渉の先頭に立つことになる。98年2月に読谷村長選挙が予定されており、山内氏は無投票で7選が確実視されていた。「人気があっても任期でやめる」という原則が適用されない自治体の首長だが、憲法99条を重視し続けた山内氏は、自然な形で村長を「卒業」することができたわけである。
憲法9条を国家権力の担い手に守らせていく運動を広げていくためにも、そもそも「憲法とは何か」という根本問題と、憲法99条の意義をきちんと理解し、議論しながら進めていってほしいと思う。「九十九島9条&99条の会」のように、憲法9条と99条の関係を深く自覚している市民がいることは、心強い限りである。俄仕立てで作られたような会と違って、この長崎の会は、「小さくとも、キラリと光る」、志の高さを感じる。能登半島の景勝地「九十九湾」(つくもわん)周辺や千葉の九十九里町に「九条の会」ができるときは(すでに存在していたらごめんなさい)、佐世保北部地域と同じ議論が行われたら素敵だな、と思った。