小泉首相は「自民党をぶち壊す」と叫んだ。間違いなく自民党は壊れた。結党50年を目前にして、「どこの馬の骨ともわからない」(と、昔の自民党領袖ならいいかねないような)候補者を「刺客」にした決闘(Duell) まで行って、自民党の「歴史と伝統」を断ち切った。この党は、当選回数や派閥力学によって動いてきたが、今回、結婚記念日でレストランに向かう途中に官邸から携帯で呼び出され、ウキウキ立候補なんていう人から、名義貸しのつもりが、比例下位の「ドブさらい」で当選してしまった人まで、いったい「国民代表」って何だと思わせるようなありさまである。その昔は、政権を担当していた自民党の政治家たちの顔は、それなりの「面構え」をしていた。いま、この軽さはなんだろう。自民党は内と外とその深部から確実に「壊された」といえるだろう。
小泉首相は同時に、この国の議会制民主主義や二院制にも大きなダメージを与えた。参議院がいうことをきかないから、国民に直接決めてもらうとして、特定法案の成否を疑似「国民投票」の形で決着をつけようとしたのが最たるものだ。一つの院が熟慮の末に法案を否決した意味は重い。小泉首相がやったことは、二院制を無意味化する仕打ちである。同時に、法案に反対した自党の議員を冷徹な形(非公認、「刺客」をたてて落とす)で「粛清」した。その結果が、小泉首相の予想も超える「サプライズ」だったのか、それとも「想定の範囲内」だったのかはわからない。ただ、自民党に投票した人の半数以上が、「勝ちすぎ」と危惧を表明していることも確かである。9月14日付の『読売新聞』世論調査でも、内閣支持率を61%に上昇させながら、首相の政治手法に「不安を感じる」とする人が6割を超えたと書いている。「支持すれど不安」という心象風景をもたらした首相は、この国の政治史上かつてない。
『読売新聞』連載「327の衝撃」(上)(13日付)は、「327」という数字が、首相・執行部主導型の政治への傾きを一層強め、国会運営が激変すると指摘する。野党は無視され、与野党対立が希薄となって、むしろ与党内の緊張が高まるというわけだ。「日刊ゲンダイ」9月13日付は、「この国の民主主義は死んだ」という派手な見出しを打った。センセーショナルが売りの夕刊紙だが、一貫して反小泉の紙面構成で臨んでいる。「宰相・小泉純一郎のひとり勝ち」(朝日12日付)。「小泉劇場」の顛末を語る各紙の論調は、自らが「劇場」のお囃子であったことへの自省に欠ける。
海外メディアも今回の総選挙について、異例のスペースをさいて報道している。ドイツの「フランクフルター・ルントシャウ」紙12日付は、「小泉の地滑り的勝利(Erdrutschsieg)」という写真入り記事を出し、保守系の「ディ・ヴェルト」紙は、「小泉の革命」(12 付)、「小泉のクーデタ」(13日付)という評論を相次いで掲載した。後者の評論は、小泉首相が自民党を改革者の党として押し出すとともに、反対派に対して「刺客」を立てたことを詳しく紹介している。小泉首相の任期が一年あまりであるとしながら、かりに小泉がここで再びルールの例外を作っても驚かないだろうとして、任期延長まで予測している。9月18日のドイツ総選挙と対比して論ずるものもある(Die Zeit vom 13.9) 。ドイツのメディアがここまで詳細に日本の政治や選挙について報ずるのは実に珍しい。
ところで、「327」という数字と「296」という数字は区別する必要があろう。自民党単独ではまだ衆院の3分の2に届かない。連立与党が存続することが前提だ。だが、連立与党間も一枚岩ではなく、さまざまな矛盾も生まれてくるだろう。公明党が自らは3議席を失いながらも、自民党の「296」実現のために奔走した。涙ぐましいほどの協力は、決して自公の信頼関係が強いからではなく、公明党が一貫して与党でいつづけようとする戦略のゆえである。「296」を得た小泉首相にとって、これまでのような自公連立を維持する必要性が低まってくれば、連立解消という選択肢も、「非情な」小泉首相にとっては常に頭のなかにあるだろう。
それにしても、選挙後、自民党幹部、議員、地方組織のすべてが、彼を畏怖し、ほとんど平伏に近い形で従うさまは、この国の政党政治で初めてみる光景だろう。かつてドイツ国防軍のエリート将軍たちが、電撃的な作戦展開でフランスを降伏に追い込んだヒトラーの軍事指導に感服して、それ以降、ヒトラーを畏怖し、忠誠を誓ったのを彷彿とさせる。天才的勘とカリスマ性をもつ指導者は、同時に非情さも兼ね備えており、真の信頼関係が築かれることは稀である。義理と人情、親分子分の関係をもった自民党の派閥を解体し、派閥均衡の上に立つ総理・総裁という従来の形も完全に「ぶっ壊した」わけである。中央集権的な党組織構造は、ロベルト・ミヘルスが分析した「政党寡頭制」を彷彿とさせるが、しかし、小泉自民党の場合、その特徴的標識のいくつかを欠き、このままいけば、小泉私党に限りなく近いものになるおそれもある。
さて、「自民党296」は、二つのトリックによってつくられた。一つは、選挙の焦点を「郵政民営化に賛成か、反対か」に極端に単純化し、「改革を止めるな」というスローガンを繰り返し流すことで、「郵政民営化の国民投票」という政治的仮想空間を演出するのに成功したことである。その結果、「改革」という言葉のもつプラスイメージが、中身の検討抜きに、与党側に革新的な傾きと勢いを与えた。これが現状に不満をもつ人々の心と感情と気分をつかんだ。各紙の報道によっても、とりわけ20代の若者、「ニート」と呼ばれる層までもが、「死んでもいい」と叫ぶ小泉首相に「格好よさ」を感じて、支持に向かったという(『東京新聞』13日付特報欄)。自民党圧勝は、若者たち(無党派層どころか、無投票層だった人々)の「小泉純一郎への一票」のおかげである。小選挙区と比例区とで、それぞれ自民党は600万票と500万票増やしたが、この数字は前回の総選挙で民主党が増加させた700万票に及ばない。ただ、この新たに掘り起こされた500~600万票が、自民党候補を押し上げ、「296」を現出させたのである(加えて、公明票の上乗せ操作のおかげ)。本来、直接民主制的なレフェレンダムが特定法案について予定されていないなかで、小泉首相は、疑似的国民投票を訴えることで、現状を積極的に変える「改革者」のイメージと、あらゆる抵抗勢力に果敢に立ち向かう「挑戦者」のイメージを与えることに成功。半ば自己陶酔的な言動も加味して、それまで政治に関心がなく、政治言語の怪しさに無警戒だった若者や女性の心をゲットしたのである。無投票層を含むこうした層の自民党への投票によって、かくも劇的な変動が生まれたわけである。比喩的にいえば、国民の「喝采」(アクラマチオ)の疑似国民投票的正統性に支えられた小泉首相が、議会主義的正統性(さらには自民党の党内多数)にも抵抗して、「改革」という正義を実現していく。これは代表民主制の最も重要な下院(衆院)の選挙を、国民投票の悪用形態であるプレビシット的に利用したもので、まさにプレビシット民主制のトリックがこの国でも現出したことを意味しよう。
二つ目のトリックは、1994年に導入された小選挙区比例代表並立制(実質的な小選挙区制)のトリックが成功したことである。私は1990年に、朝日新聞編集委員の石川真澄さんらとともに、『日本の政治はどう変わる――小選挙区比例代表制』(労働旬報社)という本を出した。この本で分析したのは、1990年の第8次選挙制度審議会の答申である。選挙制度というものの制度設計は、「民意の反映」だけではだめで、「民意の集約」が必要だという点を、この答申は押し出した。そして、つまり政権が選べるという要素を、本来の選挙の目的である、代表者を選出するという「民意の反映」とパラレルにおいて、小選挙区比例代表並立制という奇怪な仕組みを生み出したのである。もちろん、憲法はどのような選挙制度を選択するかを立法裁量に委ねている(憲法47条)。この選挙制度が当然に違憲ということにはならない。だが、当初、「並立制」は小選挙区250、比例250をとらず、300と200で出発し、2000年の公選法改正で300と180と、比例部分が縮小の一途である。しかも比例区もブロック制採用で、比例の要素をさらに縮小させている。「民意の反映」の側面がそこなわれていることは明らかであり、代表制の基本理念からすれば、今日の制度の問題性は明らかだろう。今回、小選挙区で自民党は219議席獲得した。議席占有率は73%である。だが、小選挙区の得票率は47.8%である。民主党は小選挙区で36.4%も得票しながら、52議席しか獲得できず、議席占有率は17%である。得票率で見れば11%の差にすぎないのに、議席の差は4倍の開きがでる。これが小選挙区制の怖さである。自公連立側と郵政民営化に賛成した無所属と、郵政民営化に反対した勢力を比較してみると、小選挙区では、郵政民営化賛成が3389万票(別の計算では3349万票)、反対が3419万票(同3456万票)である。わずかながら反対が賛成を上回っている。圧倒的多数の有権者が郵政民営化に賛成したわけではないのである。ここに「民意の集約」を狙ったとされる小選挙区制が、実は民意「偽造」していくカラクリが見えてこよう。
第8次選挙制度審議会のメンバーは日本テレビ社長など、マスコミ関係者が多数を占めていた。キーワードや言葉の操縦に長けた人々のおかげで、いつの間にか「民意の反映」が「民意の集約」とパラレルに置かれて、結局、小選挙区比例代表並立制の導入が、「政治改革の本丸」として実現されたのである。この時もまた、「政治改革」のスローガンは極端に単純化され、結局、「民意の反映」を犠牲にする小選挙区制の実現に矮小化されてしまった。今回、小泉首相という仕掛け人を得て、この制度の悪魔的な威力が引き出されたわけである。「毒饅頭」の毒は、11年かけて、この国の政治の全身にまわったようである。国会には、小泉首相の顔色をうかがう「イエス・パーソン」の群れが多数出現することになった。こうして、「トップ」の迅速な判断が、議会での鈍重な議論を経由することなく、瞬時に実現していく。利害誘導型の政治家も消え、究極の官僚国家が生まれることになるのだろうか。
総選挙後にさまざまな法律が出てくるが、すでに憲法改正国民投票法案審議のための「憲法調査委員会」(常任委員会)設置のための国会法改正の方向が自民・民主の間で合意された(『朝日』15日付)。そうしたなかで、一つ注目されるのが、テロ対策特別措置法の再延長である。この法律は、2001年の「9.11」の直後に、米国の「テロとのたたかい」に参加・協力するということで、俄仕立てで作られた法律である。そもそも特別措置法というのは、一般法とは区別されて、一定の限られた局面と期間に、例外的な形の対応をする臨時的な法律であって、その延長は慎重であるべきものである。しかし、実際、インド洋での米軍艦艇に対する給油活動が中心とはいえ、いったい、どこが「テロ対策」なのかと疑問視されている活動である。その最初の延長が決定されたのは、2003年10月10日の午前中。つまり、その日の午後に解散されるところの衆議院においてだった。そのことを記憶している人はほとんどいないだろう。特措法を何度も延長すれば、それは「恒久法」と変わらない機能をもたせることになり、立法作法としては邪道である。細田官房長官は「国際テロへの対応が引き続き差し迫った課題だ」と再延長の理由を述べたが(『朝日』16日付)、実際の活動の状況(給油活動は減っている)を見れば、米国に対するアリバイ的な活動にすぎないものであり、イラク派遣部隊とともに、即時撤収すべきものである。
「9.11総選挙」でつくられた「296」によって、「9.11」のテロ対策特措法が再延長される。これは「法恥国家」の象徴的な風景ではあるまいか。