「12月8日」にこだわる理由  2005年12月12日

まざまな記念日や重要な日付を記憶しておくこと、それをいろいろな場面で応用することは、政治家ならずとも大切なことだろう。法律の施行日を決める際にも微妙な配慮が働いたことがある。PKO等協力法(国連平和維持活動等に対する協力に関する法律・1992年6月19日法律第79号)には、「公布の日から起算して三月を超えない範囲内で政令で定める日から施行する」(附則1条)とあり、同年8月10日に施行された。政令は内閣の命令だから、内閣の判断だけで決められる。なぜ8月10日を施行日に選んだのかはわからない。ただ、当時、自衛隊の初の本格的な海外派遣というので、国会でも激しい議論があった。旧社会党など野党は牛歩戦術までとって抵抗した。当時の民社党や公明党も法案に賛成するにあたっていろいろと条件をつけた。そこで、当面はPKO「本体業務」(武装解除の履行監視、停戦ラインの監視など)を凍結して、カンボジアの国道補修を行うため、陸自の施設科部隊を送るという方向で決着した。そういう流れからすると、法律の施行日として7月や9月ではなく、「道路月間」である8月の、しかも10日の「道の日」が選ばれたのは単なる偶然とはいえないだろう。

  特に小泉政権になってから、政治家たちは歴史的な記念日に無頓着なだけではない。周辺諸国を刺激するような「確信犯」的な発言も目立つようになった。かつての自民党政権なら、「不規則発言」とか「失言」として扱われる類のものが、いまでは堂々とまかりとおっている。最初から相手の理解を得られないとわかっていて、あえて挑発的な言葉を発するかのようである。歴史への誠実な態度など微塵も感じられない、思いつきのような言動も目立つ。そこで、歴史への無頓着と思われる例を一つ。これは聞いた話だが、昨年9月2日に小泉首相が北方領土を視察した。その時、ロシア側は極度に緊張したという。首相は何か重要な発言をするに違いないと踏んだからである。9月2日は、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で降伏調印式が行われた日であり、ドイツ無条件降伏の「5月8日」と並ぶ意味をもつ日だった。しかし、結局、首相は観光気分で視察して、早々に帰京してしまった。ロシア側は拍子抜けしたという。首相官邸のサイトにある「小泉総理の動き」欄に残された2004年9月2日のコメントは、「近いね。もっとはっきり見たかった。霧がかかっていたからね」である。
  なお、「5月8日」の「動き」については、小泉首相は、モスクワの「第二次世界大戦終了60周年記念式典」に、戦勝国の米・ロ・中・仏、敗戦国の独・伊などの首脳・代表と肩を並べて出席した。アジアへの戦後60年の対応は乏しい一方で、かつてのソ連の中立条約を破棄した対日参戦、日本は大戦の当事国であった歴史を忘れての笑顔だろうか。その「動き」は不可解に思える。

   他方、小泉首相は「12月8日」には異様な執着があるようだ。臨時閣議を開いてイラク派遣再延長を決定した日は、真珠湾攻撃64周年の「その時」だった。2年前のこの日、私は「米英軍とともに」という直言でこの日付の問題性を指摘した昨年12月9日に派遣延長を決め、ついに今年、とうとう「その日」に再延長を決定した。一昨日のNHKラジオ第一放送「新聞を読んで」でもこの問題について触れたが、小泉首相が「12月8日」を知らないで閣議決定したとは思えない。この人はことさらに論争的な日付を選んで、米国やアジア諸国に向けて「自分なりのメッセージ」を発したいと思っているのかもしれない。米国に対しては、かつての「米英軍」から「米英軍とともに」に転換した意味を強調するために、アジア諸国に対しても米国との親密性をアピールするために。でも、靖国参拝や一連の首相発言を知るアジアの人々には、彼の「思い」は通用しない。それに、米国にとって真珠湾攻撃は12月7日(ハワイ時間午前7時49分)であり、日本時間の12月8日午前3時19分(第一次攻撃隊に「全軍突撃せよ」の命令が発せられた時間)とは日付にズレがある。この真珠湾攻撃よりも約1時間前に、陸軍部隊がイギリス領マレー半島のコタバルに上陸している。「12月8日」はアジア・太平洋全域で戦争が開始された日と考えれば、やはり日付の選択には慎重さが求められただろう。まともな側近がいれば、特にアジア諸国などの反応を考慮して、別の日にするよう進言してもいいようなものだが、この「孤独な独裁者」を止めることのできる人はいないようである。
  ちなみに、アフガン空爆も「本8日未明、米英軍は戦闘状態に入れり」であったことが思い出される(『朝日新聞』2001年10月10日)

  さて、イラク派遣の再延長を決めるにあたり、5日前の12月3日、額賀防衛庁長官がイラク南部のサマワを訪問している。わずか4時間40分の滞在。帰国後、「サマワの治安は比較的安定している。公共施設の復旧・整備や医療支援活動などの要望が依然として存在し、自衛隊の人道復興支援活動が引き続き重要だとの認識を新たにした」という長官談話を発表した(4日付各紙)。すぐに小泉首相に「治安の安定」「現地の要望」などを報告している。その直後、自衛隊車両に対して、現地住民による投石が行われ、サイドミラーが割れる事件も起きている。これでも「比較的安定している」といえるのか。額賀長官は自衛隊が改修工事をしている小学校にも行ったが、住民が長官に話しかけようとしても応ぜず、30分ほどで宿営地に引き返したという(共同通信4日付)。警備上危険が大きいという配慮だろうが、それ自体、現地の治安が安定していない証拠ではないか。再延長に向けた、あまりにアリバイ的な行動といえるだろう

  額賀氏は7年前にも防衛庁長官をやったが、在任中、防衛装備品を扱う防衛庁調達実施本部(当時)の本部長と副本部長が背任容疑で逮捕され、同本部が東京地検特捜部の捜索を受けるという事態に発展した。「防衛秘密」の壁で見通しが悪い上に、防衛装備品はきわめて高額で、しかも特注品が多く、そのほとんど独占的な価格設定のため、水増し請求など、企業との癒着を生じやすい構造がかねてより指摘されていた。この事件でも、組織ぐるみの隠蔽工作が行われ、当時、額賀氏について、この「直言」でも、「『組織防衛庁』長官は辞任すべし」と批判したことがある。その額賀氏が小泉内閣のもとで再び防衛庁長官に「返り咲き」、イラク派遣の再延長に一役かったわけである。

  額賀長官の談話でも、小泉首相での記者会見でも、イラク派遣再延長を行う理由として「現地の要請」が挙げられている。本当にイラクの人々が自衛隊の派遣延長を要求しているのだろうか。そういう声があったとしても、サマワの指導者クラスの人々が中心だろう。むしろ、長官訪問に合わせて日本を批判するデモが起こり、投石まで起きた事態は軽視できない。派遣再延長の決定の方向は世界にも流れており、「有志連合」諸国でも日本は最も忠実に米国の支援をする国というイメージが作られれば、それだけ抵抗勢力の攻撃目標としてランクアップする可能性も高い。投石によるバックミラーの破損は、今後さらなる大きな攻撃が行われるという初期微動ではないか。

  そうしたなかで、イラクでの「世論工作」が米国で暴露された。『ロサンゼルス・タイムズ』紙は、米軍がイラクの地元紙に現金を渡して、「復興」をするような記事を掲載させていると報じたのである。記事は軍の「情報作戦」部隊が執筆し、国防総省が契約する民間企業がアラビア語に翻訳し、それをイラクの新聞社に持ち込んだという(『朝日新聞』12月2日)。米軍は、イラクの新聞を買収して米軍に好意的な記事を載せることを、「広告主が広告を出すのと同じ」と述べたとも伝えられている(同12月3日付夕刊)。派遣再延長を求める「現地の要請」を単純に信じることはできない所以である。

  「12月8日」で思い出したが、北朝鮮、イラク、イランを「悪の枢軸」と名指しした2002年1月のブッシュ大統領の一般教書演説。これは、実は真珠湾攻撃直後のルーズベルト大統領が行った演説が参考にされたのだという。2003年1月7日に出版された『ザ・ライト・マン』という書物で明らかになった。著者は大統領の元スピーチライター。この回顧録は、2002年までこの職にあったデービッド・フラム氏が書いたもので、ホワイトハウス高官が、演説に米軍のイラク攻撃を正当化する表現を盛り込むように依頼。同氏は、1941年にルーズベルト大統領が宣戦布告を議会に求めた演説を参考にして、当時三国同盟を結んでいた日本、ドイツ、イタリアを指して使われた「枢軸」の表現を借り、テロを支援する国家を「憎悪の枢軸」と呼ぶことを決めたという。この表現は後に「悪の枢軸」に差し替えられた。さらに、当初の草稿はイラクだけを非難していたが、ライス大統領補佐官(現・国務長官)らの要請で、後にイランと北朝鮮を加えたという(『東京新聞』2003年1月9日付夕刊(ワシントン8日共同通信)。
  
「悪の枢軸」から「専制の拠点(前哨)」へ。ブッシュ政権は、自らの基準で勝手に「悪者」を設定して、世界のどこへでも、いつでも軍事介入して体制転覆(レジーム・チェンジ)を行う「覇権」を誇示している。小泉首相は、ブッシュ政権の「派遣(覇権)社員」のように、「不安定の弧」のどこででも協力できる態勢を作るために、「憲法9条2項の削除」でこたえようとしている。「12月8日」における派遣再延長の決定は、イラクの抵抗勢力にとっても、米国に敵対する諸国や勢力にとっても、日本が「米英軍とともに戦闘状態に入れり」という方向を明確にするメッセージとして受け取られるだろう。派遣延長後の現地の状況は一層危険なものになることが危惧される。自衛隊は速やかに撤退すべきである。