六十九歳の老教授・久田栄正は黙って目の前の寿司を見つめたまま、箸をつけようとしなかった。第二次大戦の末期、飢餓のフィリピンで「寿司が食べたい」と言い残して死んだ部下を思い出したのだ。非人間的な軍隊で「個人の尊厳」を貫こうとした体験から絞り出すように生まれた「平和的生活権」の発想を、いつもは寡黙な久田が「新しい命が吹き込まれたように」話し始めた。博士課程を終え助教授として札幌の大学に着任したばかりの三十一歳の水島朝穂は身を乗り出して「先生、本にしましょう」と叫んだ。
以後の一年間に水島が久田から聞き取ったテープは三十本を超す。裏付けのため二百五十点を超す戦史など文献を読み、防衛庁防衛研究所の図書館を訪ねて資料をあさり、戦時中の久田の同僚や遺族を捜して九州まで会いに行った。半年で二百字詰め三千枚を書き上げたのが『戦争とたたかう』(一九八七年、日本評論社)だ。「このやり方、これをやったことが私の原点となりました」。それから二十年、水島の研究はこれに立脚し、これを発展させ、実現可能な平和主義を提案した。
今でこそ平和憲法の論客として鳴らすが、研究の出発点は「限りなく憲法九条から遠い所」だった。もともとはドイツの選挙制度や政党法が専門だ。早稲田大学の大学院生時代に早くも頭角を現し、二十五歳で書いた西ドイツ政党禁止法制に関する論文は学術賞を受賞した。冷戦さなかの一九七九年に「これからは戦争でなくテロの時代だ」と今日を予見し、西ドイツ緊急事態法制の論文でテロと市民的自由を論じた。大学院時代の七年は、高校の同級生だった妻典子が小学校教師として「食わせてくれた」し、赤ん坊のおしめを取り換えながらの学究生活だった。
札幌のあとは広島の大学に赴任し、やがて古巣の早稲田に戻る。この間に久田は病死し、遺族の手で墓に『戦争とたたかう』が副葬された。水島は、ドイツ統一直後の東ベルリンに半年あまり住み、大量失業などで揺れる体制転換の現場を体感した。世紀末にはボン大学で一年間在外研究をして、アデナウアーらドイツの政治家が「したたかでしなやかな交渉」で米国を相手に戦後ドイツを構築したことを知った。その後も「良質な社民主義、平等と連帯にこだわる欧州」を学び、ここから日本の憲法論議を読み直した。
「憲法も歴史の中で発展する。だから僕は絶対に憲法を変えてはならないという立場ではない。世界はゆっくりと軍縮の方向に向かっています。いま憲法九条を変えるなら世界史のマイナスだ。平和のテクノロジーに徹すると武力より九条の方が優位性を持っています。今後の平和をいかに構築するか。それは『平和を愛する諸国民(ピープルズ)』(憲法前文)の連携と連帯がカギになります」
語りが熱っぽく、しゃべり出したら止まらない。「水島と会えば最初の二時間は機関銃のような語りを聞くだけ」と友人たちは苦笑する。妻によると「家でも朝起きてから昨日の続きをしゃべっている」のだ。「端的に言うと…が口癖。でも、その後が長い」と学生たちはノートを取るのに必死だ。それでもわかりやすい授業に学生の人気は高く、十一月には学生の投票で法学部のベストティーチャーに選ばれた。水島のゼミ生で法学部三年の小山結貴は「アサホ先生は切り口が斬新で独自。学生を育てたいという熱意がすごい」と言う。「早稲田用語辞典」の「朝穂」の項には「授業熱心で知的好奇心をそそる講義をする。たまに戦争グッズを持ってくる。この前は銃弾に貫かれたナチス兵のヘルメットだった」とある。
水島の授業は「モノ語り」で始まる。新潟県中越地震の直後には消防レスキュー隊のオレンジ色のロープと手袋を示し、自衛隊を国際救助隊にする「サンダーバード構想」を語った。研究室はさながら軍事博物館である。ヘルメットだけで二十個。ガスマスクは十四種類。ロケット砲から手榴弾、地雷まである。銃弾が蜂の巣状に貫通した人の形の標的はドイツの演習場から持ち帰った。実物だけに迫力があるし、軍事知識を背景に語る平和の構想は説得力を持つ。
生まれたのは東京都府中市だ。「稲穂のようにスクスクと育ってほしい」と数学教師だった父が名づけた。近くに米第五空軍の基地があり、朝鮮戦争の最中で近くの道路を米軍車両が走っていた。初めて覚えた英語が「ハマチ(ハウ・マッチ)」。米兵相手のパンパン(街娼)が使う言葉だった。フェンスの向こうの米軍宿舎には芝生とプールがあり、母からは「甲州街道の向こうは日本じゃない」と聞かされた。
五歳のときに月光仮面ごっこをしていたら黒人兵が酔って店を壊すのを見た。呼んで連れてきた警官は米兵を遠くから見てたじろぐだけだ。この瞬間に占領の力関係を悟った。「僕の軍事基地への違和感はこの幼児体験が大きい。沖縄の人々の気持ちもストンと腑に落ちる。平和志向は頭で考えたものでなく体に染みついたものだ」と言う。
母の秀子が思い起こす水島少年は「声が大きいガキ大将」だ。自宅の物置には獣医だった曽祖父の医療器具があふれていた。馬用の注射器を水鉄砲にし、荷車を消防車にした。面白いから近所の子が自然に集まって来る。そのつど新しい遊びを工夫した。この医療器具がモノへのこだわりの原点だ。
グッズ集めと軍事への関心の原点は小学三年生のプラモデル作りである。あらゆる型の零戦など数々の戦闘機や戦車を作り、これで軍の編成を覚えた。同じころテレビの時代劇で剣豪が刀を抜かずに相手を負かす「活人剣」を知った。のちにこれが、平和憲法をベースにした気迫ある国づくりという持論に結びついた。合戦の歴史をつぶさに調べたが、信長や秀吉、家康よりも長曽我部元親などマイナーな地方大名の戦略に興味を持った。この「どこかでへそ曲がりな僕の美学」が今も続いている。
論文は小学生のころから書いていた。小学六年のとき常備軍の兵力など含む世界各国のデータを長さ二十五メートルの巻物に仕立てた。自由研究が好きで、中学二年の夏には人魂の研究をし、人魂を見たという十人の証言を集め寺に張り込んで写真を撮った。「面白いと思ったらとことん探らないと気が済まない。ワクワクしないと気が済まない」のだ。
こうした少年時代の性格や考え方がそのまま今につながっている。酒を飲まないのにみんなとワイワイ騒ぐのが好きな情熱家で学生とのコンパでは最後に月光仮面の歌をドイツ語で歌う。初めて会う人にも早口でまくし立てるのは、照れ屋でシャイな性格がなせるわざなのだろう。
「飽くなき探求心と好奇心」を唱え、研究室から飛び出て現場に行かなければ気が収まらない。現場で新聞記者といっしょになることもたびたびだ。そんなときは記者よりも水島の方がより熱心に取材する。「フットワークが軽くアクティヴ」と記者たちに定評がある。
しかも取材したことを発信する。インターネットの水島のホームページは、表紙に「平和憲法のメッセージ」を掲げ一九九七年からほぼ毎週、四百回を超す「今週の直言」を発信してきた。米軍ヘリ沖縄国際大墜落事件や米大統領選など、そのときどきの話題を論じたものだ。NGOなど市民力を日本に根づかせたいとの思いがこもる。
札幌の大学時代から二十年以上の親友である『法律時報』編集長の串崎浩は「友人として」と断りながら水島を「今のスタンスは二十年前に出会ったときと変わっていない。根底に妥協のない平和主義がある。新しがり屋のように見えるが、筋を曲げない古典的なリベラリスト」と見る。憲法学界における水島の位置については「ベトナム戦争を体感している第三世代の法学者のリーダー的存在。この十年以内に憲法学界をどちらに向かせるかを決めるキーパーソン」と評価する。では、十年後の水島はどのような位置にいるのだろうか。「学界の重鎮になってもいい能力があるが、むしろ、必要な場面で的確な言葉を発する、賞味期限が永遠に続くスパイスであって欲しい」と串崎は言う。野球の選手にたとえると水島はだれか……「イチローですね」と串崎と記者は声を合わせた。
疾走する「憲法界のイチロー」が、ヒットを飛ばすだけでなく、護憲派という「チーム」を勝たせることができるか。彼に期待する目は学界以上に一般社会に多い。