わが歴史グッズの話(18)「その時」の新聞を読んで  2006年1月16日

ンターネットの発達で、新聞社のサイトからたくさんの情報を得ることができる。私は毎朝、北海道や沖縄をはじめ、各地のブロック紙や地方紙を読みながら、ドイツの5紙と英米の各1紙、韓国の2紙をチェックしている。同時に、朝毎読と東京新聞の4紙を実物で読んでいる。ネットで読むことができても、やはり新聞は紙の感触とインクの匂いを感じながら読むのがいい。大事件が起きて、PCのディスプレイに比較的大きな活字の見出しが出ても、新聞の一面トップの巨大見出しの迫力にはかなわない。新聞の一面トップ記事だけを眺めているだけで、その時代を感じることができるし、大きな事件が生々しく蘇ってもくる。大学の講義で使うのは、重要な判決が出た日の夕刊の記事である。各紙の東京本社版の場合、4版締め切りは12時30分だから、午前10時半からの判決公判ならば、その日の夕刊一面トップを飾ることができる。見出しは「○○に違憲判決」という形になる。この新聞記事はそのまま保存しておけば(大きな事件では、翌日朝刊の社説なども一緒に)、あとで当該事件を調べるときに有益な手掛かりになるだろう。

  さて、新聞のこうした特性をいかして、歴史上の出来事を「翌日の朝刊」の形で再現する手法がいろいろと試みられている。「翌日の朝刊」ということもあって、時制は現在形であり、書かれる内容もある程度限定されるので、意外なほどの緊迫感とリアリティを出すことが可能となる。その一つの試みが『ヒロシマ新聞』である。

  多くの記者を原爆で失った中国新聞社は、1945年8月7日付の朝刊を発行することができなかった。そこで「被爆50周年」にあたる1995年、中国新聞労働組合が「1945年8月7日付」をつくった。その名も『ヒロシマ新聞』。もし当時の価値観で記事を書けば、「鬼畜米英が残虐な爆弾を投下した」というトーンになってしまうだろう。そこで、現在の価値観をもった記者がタイムマーンで8月6日の現場を取材するという設定で、現在の視点で取材・編集がなされている。広島大学時代の私の教え子も一記者として参加していた。彼女から新聞を送ってもらったとき、「その時」を伝える上で新聞の紙面というのが実に効果的であることを再確認した。なお、2005年8月6日、インターネットでも読めるようになった

  一面トップには「新型爆弾 広島壊滅」。6段見出しで「5万人以上が死亡」。「米大統領『原爆』と発表」と、トルーマン大統領の写真入り記事も。5面にはトルーマン大統領声明全文も掲載されている。当時ではあり得ないことである。総合面では被害が検証され、「防空計画役立たず」という日本側の問題点も指摘されている。国際面ではチャーチルの声明や、米国内で科学者の反対があったことなどもバランスよく報道されている。社会面は写真と記事が生々しい。「講義中に倒壊、広島文理科大の南方留学生けが」といった「その時」の「今」を伝える記事がリアルである。「帰らざる水都の夏」は「その時」の直前までの日常生活が描かれる。現在の視点でつくられているが、「その時」の翌日付の新聞ということを念頭においているので、記事の時制はあくまでも「その時」である。だからこそ、読者はまるで「昨日」起きた事件のように原爆の恐ろしさを追体験することができる。もちろん、個々に矛盾もある。現在の書籍の広告などには違和感がある。いまの視点の解説や広告などは最終ページにまとめて、もっと「その時」に徹した方がメリハリがきいたようにも思う。11年前にこの新聞が出たとき、中国新聞の求めに応じてコメントしたが、当時もそのように指摘をしたのを覚えている。

  さて、11年前の『ヒロシマ新聞』はあまり知られていないが、この手法をより徹底したのが『沖縄戦新聞』だろう。琉球新報社が沖縄戦60年に企画したもので、「当時の状況をいまの情報、視点で」という副題が付いている。現在の視点に基づく分析や解説は最終ページにまとめられ、メリハリをきかせている。2005年度の「新聞協会賞」だけでなく、第5回「石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞」(2005年)も受賞している。新聞として現物をみた方がリアルなので、箱入りで800円、琉球新報社に申し込めば入手できる。

  『沖縄戦新聞』は、第1号(1944年7月7日付)の「サイパン陥落」から、第14号(1945年9月7日付)の「日本守備軍が降伏」に至るまで、14回にわたり沖縄戦の「その日」を、60年後の朝刊特集面で再現してきたわけである。私はなぜ「サイパン陥落」から始まるのかと思ったが、読んでみてなるほどと思った。そういえば、かつて那覇の映画館でサイパン戦の映画「ウィンドトーカーズ」をみたのも何かの縁だと思った
  
一面トップの縦7段見出しは、「邦人1万人が犠牲 県出身者は6千人」。7月7日未明から3000人の日本軍将兵が最後の総攻撃を行い壊滅したが、その際、1万人の民間人が犠牲になった。その6割が沖縄出身だったのである。多数の民間人が断崖から身を投げて命を絶った北端のマッピ岬には、昨年、天皇夫妻が慰霊に訪れている。第1号がなぜサイパン戦から始めたかといえば、まさに沖縄戦末期の状況はここから始まっていたからだろう。
  
総攻撃に先立つ6日午前、中部太平洋方面艦隊司令長官の南雲忠一中将は、全将兵に対して「玉砕」を命じて自決した。日本軍が組織的戦闘を終えた後に、非戦闘員は悲惨な状況に陥れられた。歴史の教科書などでは、軍司令官などが自決して「玉砕」したとサラッと書いてあるが、民間人の悲劇は「玉砕」命令を出した司令官らが「潔く」(換言すれば、民間人を放置して無責任に)自決したところから始まっているのである。私も知らなかったさまざまな脈絡が、第1号から無限に引き出されてくる。単なる事実の羅列でなく、「その日の新聞」という形をとることで、一つひとつの記事から読者のさまざまな着想や思いが引き出されてくる。この第1号の一面には、「米軍の沖縄上陸必至か」という予測の見出し、そして「7月中にも県外疎開――老幼婦女子10万人規模か 政府、県に通達」という大見出しの記事が載っている。ベタ記事も面白い。大本営陸軍部が疎開研究で長勇少将を沖縄に派遣したとある。長少将は関東軍参謀付からサイパン奪回軍参謀長就任予定だったが、サイパン陥落で沖縄に向かったものだ。長少将は、若き頃、青年将校の桜会メンバーで10月事件(クーデタ未遂事件)の首謀者の一人である。そして、1945年6月23日に牛島第32軍司令官とともに自決。民間人を巻き込む悲惨な状況を生み出した張本人でもある。このほかにも、紙面構成には、味のある工夫が随所にみられる。

  第2号は1944年8月22日付で「対馬丸が沈没」。米潜水艦の魚雷を受け、学童775人を含む1418人が犠牲になった。膨大な犠牲者のリスト。「死にたくない 父、母の名 呼ぶ声響き」「力尽き次々姿消す」といった見出しで、「現場」の状況が生存者の言葉などで再現されていく。まるで大事故の翌日の新聞のように現在進行形で、胸に迫る。どんなにたくさんの子どもたちが亡くなったのかが、大事故の翌日の新聞のような書き方をとることで、実にリアルに伝わってくる。軍・警察が生存者に対して「箝口令」をしいたことや、沖縄近海で58隻沈没という記事には、「国際法違反の無制限攻撃」という見出しで、ロンドン海軍軍縮条約で禁じられた商船への無制限攻撃にあたるという指摘もあり、興味は尽きない。

  3号は1944年10月10日のいわゆる「10・10空襲」である。「米軍が無差別空爆」「沖縄全域に延べ1400機 民間人含む668人死亡 那覇の9割焼失」の見出し。「空爆」という表現にオッと思った。最近はやりの「空爆」という言葉を使っているが、私がこだわる「空襲」と「空爆」の違いを自覚していたのだろうか。なお、この日の記事のベタ記事が面白かった。「第32軍は10日から3日間の日程で予定していた参謀長主催の兵棋演習(戦術研究)を中止した」。前日に各地の兵団長や幕僚たちが那覇入り。「同日夜から牛島軍司令官主催の宴会が沖縄ホテルで行われていた」とある。飲めや歌えでごきげんのところに米軍が大空襲を行ったわけである。
  
なお、第3号の欄外に編集部の「断り書き」がある。「日付は本来ならば10・10空襲翌日の10月11日とすべきですが、爆撃された当日を再現するために10日付としました」。沖縄の人々なら忘れない「10・10空襲」という言葉を明確にする配慮だろう。

  第4号は地元紙ならではの視点で、「軍が北部疎開要求」の大見出しの1944年12月14日付だ。第32軍が那覇市内のホテルで、「総動員警備協議会」(県、市町村など)との協議を行い、「南西諸島警備要領」を策定した。そこで中南部地域の老人・女性を北部に疎開させ、戦闘能力ある男子はすべて防衛隊員に動員することなどが決まった。法的根拠のない学徒隊も「志願」の形で編成された。2、3面の大見出しは「犠牲覚悟 住民を総動員」「有事体制」。長勇参謀長(先に指摘した「10月事件」の首謀者の一人)と対立した泉守紀沖縄県知事は、「大の虫のために小の虫を殺す」という言葉を漏らして、苦悩を県幹部に伝えたという。第5号は1945年2月10日付で、「北部へ10万人疎開」を伝える。

  第6号(1945年3月26日付)、7号(4月1日付)、8号(4月21日付)はそれぞれ、慶良間諸島、沖縄本島、伊江島への米軍上陸の「その日」を伝える。共通しているのは、いずこでも住民の「集団死」が起きたことである。沖縄本島上陸作戦に先行して行われた慶良間諸島への上陸作戦では、座間味や渡嘉敷などで「集団死」が頻発した。ちなみに、第6号で編集部の「おことわり」として、従来の「集団自決」ではなく、「集団死」に用語を統一することが確認されている。「ある特定の地域共同体や家族などが、集団で『死を選択』したという意味から『集団死』と表現する」と。
  
「集団死」の最初は、3月26日に慶良間への米軍の上陸とともに始まった。「集団自決」について書いたどんな書物よりもリアルで、「新聞」の報道という形で、各地の「集団死」の状況を生々しく伝えている。最終ページの「識者の視点」では、沖縄ジェンダー史の研究者の解説で、「集団死」の犠牲者の83%が女性と子どもで、「はじめて見た『鬼畜米英』に対する座間味島住民の極度の恐怖心は、即『死』に連なった」と指摘しつつ、女性や子どもの犠牲者が多かったことについて、家父長制社会が犠牲を広げたと指摘している。「新聞」の形をとりながら、各号ともに最終ページで詳細な分析が行われている。生々しい新聞報道的な記事を見たあとだけに、解説や分析には説得力がある。 

  ここまで書いてきて気づいた。このまま14号まで紹介していくと、直言の字数の範囲を超えてしまう。そこで、とりあえず、トップ見出しだけ紹介しておこう。
  
9号(1945年5月5日付)は「日本軍の総攻撃失敗」、第10号(5月27日付)「32軍、首里司令部を放棄」と続く。第11号(6月23日付)は「沖縄戦事実上の終結」のトップ見出しで、「牛島司令官ら自決」の縦見出し。2、3面では、追い詰められ、逃げられない住民が「集団死」を選ぶケースを生々しく伝えている。第12号(7月3日付)は「八重山でマラリア拡大」「『疎開船』尖閣沖で沈没」と、組織的戦闘終了後の離島や周辺での悲惨な状況を伝えている。第13号(8月15日付)「日本が無条件降伏」「政府、ポツダム宣言受諾」、そして、第14号(9月7日付)「日本守備軍が降伏」で終わっている。14号の2、3面は、「過酷な戦後始まる」「要さい化進む沖縄」という大見出しのもとに、「米軍、13飛行場の建設計画」「普天間飛行場建設進む、土地奪われ戻れず」「米兵の女性暴行多発」「米兵用慰安所、今帰仁に設置」等々。戦後の沖縄がすでに始まっていたことがわかる。ということで、詳しくは、読者の皆さんが『琉球新報』ホームページなどで確認していただきたいと思う。
  
最後に一言だけコメントすれば、『沖縄戦新聞』のすぐれた点は、徹底して県民・民衆の視点で事実を再構成している点だろう。現在形の書き方により、リアリティが増しているだけでなく、内容的にも工夫がこらされている。「『沖縄戦新聞』終了に当たって」という編集部の文章にこうある。「沖縄戦を3カ月の地上戦に限定するのではなく、軍による住民の根こそぎ動員など、すべての県民が戦争に巻き込まれていく過程も描くことで、沖縄戦の実相に迫ろうと試みました」と。

  ところで、もし本土決戦になっていたら、『沖縄戦新聞』が伝える悲劇は、全国各地で繰り広げられていたことだろう。その点で興味深いのは、敗戦の直前に出た朝日新聞社の『朝日戦時要覧』(1945年7月1日発行。13銭、10万部印刷)である。「郷土要塞 我等の手で」というタイトルで、国民一人ひとりの「築城必携」と銘打っている。斬込隊の潜伏根拠地の作り方などが図入りで書かれていて、住民すべてを戦力化する「一億玉砕」のマニュアルであった。同じく朝日新聞社の『朝日戦時要覧』のもう一つのタイプは、「戦時家庭農園」(1945年7月25日発行。同)という実際的なもので、「市民や疎開者への手引き」と題して、庭などでの野菜の作り方を詳しく紹介している。新聞は戦意高揚だけでなく、かくも具体的な戦闘マニュアルを出して、戦争に協力していたのである。

   『沖縄戦新聞』最終号の「終了に当たって」は、こう結ばれている。「新聞は戦前、戦中の一時期、戦意高揚に加担した負の歴史を背負っています。琉球新報も例外ではありません。『戦のためにペンを執らない』。戦後60年の今、報道の現場に立つ私たちは、この企画を通してあらためて誓いたいと思います」と。

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