ドイツで一つの法律が、施行後わずか1年で違憲・無効とされた。前々回の「直言」の末尾で予告したように、「航空安全法」に関する連邦憲法裁判所の判決が、2月15日(水)に出された。昨年11月に開かれた口頭弁論の報道から、違憲判決の可能性を予測してはいたものの、ここまで明快かつ徹底したものになるとは思わなかった。しかも、一法律が違憲・無効になっただけでなく、軍隊の国内出動に対する歯止めともなりうる影響力の大きい判決といえる。
ハイジャックされた民間航空機が高層ビル街に向かう。「9.11」への対応という面だけではない。ドイツにはもう一つの「トラウマ」がある。それは2003年1月5日、乗っ取られたセスナ機がフランクフルト中心街に向かい、戦闘機が緊急発進するという事態に発展した。これについては、軍隊の国内出動の問題としても触れた。連邦国防大臣が、ハイジャックされた民間航空機を撃墜する権限をもつ法律改正が行われたのは2004年9月だった(直言「あのエアバスを撃墜せよ!」)。この法案には連邦参議院が異議を唱え、これを連邦議会が加重された多数決で再可決して、かろうじて成立したものである。だが、法律公布にあたり、連邦大統領が、違憲の疑いを示唆しつつ署名するという異例の展開となった(直言「大統領の抵抗」)。
このいわくつきの法律が、先週15日、連邦憲法裁判所で違憲・無効とされたわけである。翌16日付のドイツ各紙は解説・評論付きで大きく扱った。上の写真は、ドイツのtaz紙の16日付一面である。日本の新聞の反応は鈍く、『読売』16日付が国際面6段を使ったのが最大で、『朝日』はベタ扱いだった(『毎日』『東京』はなし)。外報(国際)面の紙面構成は、多数の特電や外電のなかから瞬間的な取捨選択が行われるので、ある意味ではやむを得ないだろう。ただ、この判決が及ぼす影響は、一国の裁判所の一判決にとどまらないものがある。前記『読売』6段の細長い記事は、「独憲法裁」「乗っ取り機撃墜容認『違憲』」「航空保安法破棄へ」「テロ対策巡り議論再燃も」という大小四つの見出しを工夫して、判決のポイントと影響を伝えた。この判決を外信(国際)面にきちんと「記録」したことは評価に値する。
判決は連邦憲法裁判所第一法廷(H-J・パーピア裁判長〔連邦憲法裁判所長官〕)のものである。憲法異議(訴願)(Verfassungsbeschwerde) の事件。異議申立人は、野党の自由民主党(FDP) のG・バウム氏(スピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」の舞台となった70年代「テロの時代」の連邦内務大臣(1978~82年)、73歳)、B・ヒルシュ氏(元連邦議会副議長、75歳)ら6人。盗聴を可能にする基本法(憲法)改正に反対して法務大臣(コール政権)の職を辞したS・ロイトホイザー・シュナレンベルガー氏も関わっている。もともとこの法律は、社会民主党(SPD) と「緑の党」の連立政権によって制定された。昨年秋の大連立政権に入らずに野党にとどまったFDPの往年の幹部たちによって起こされた訴訟で、プラクティカルな中堅・若手の現役幹部が距離を置いていたのが印象的だった。
連邦憲法裁判所第一法廷は、パーピア長官を含む8人の裁判官全員一致で、この憲法異議に理由があるとして認容した。判決は、2005年1月11日の航空安全法14条3項が、基本法〔憲法〕87a条2項〔防衛目的以外の軍隊の使用には基本法上明文の規定を必要とする〕、および、同35条2項〔連邦・州の職務共助、軍隊の災害出動〕、同3項〔二つ以上の州にまたがる広域的災害出動〕、ならびに、1条1項〔人間の尊厳〕と結びついた、2条2項1文〔生命への権利〕に適合せず、無効であるという明快な結論を出した。判決全文は、同裁判所のホームページですぐに(日本時間16日午前)UPされた。判決要旨は次の3点である。
判決の主な論点は二つある。「人間の尊厳」と「生命への権利」を侵害するという基本権侵害の論点と、軍隊の国内出動に関する憲法上の根拠に関わる論点である。
まず、判決は、航空安全法14条3項所定の要件のもとで航空機に武力を用いることは、「人間の尊厳」と「生命への権利」に適合せず、無効であるとする。基本法2条2項1文は「生命への権利」を自由権として保障する。いかなる人間の生物学的・物理的生存も、その出生から死亡の時点まで、国家の侵害に対して保護される。いかなる人間の生命も、それ自体、等しく価値の重いものである。だが、航空安全法の当該規定は、撃墜される航空機に搭乗する乗客の生命権の保護領域を侵害する。撃墜されれば確実に、全乗客の生命を無に帰す、死がもたらされる。このような侵害を憲法上正当化することはできない、と。
次に、判決は、航空安全法の当該規定には、連邦の立法権限が欠けている点にも言及する。当該規定は、武力をもって航空機に直接作用を及ぼすことを軍隊に授権しているが、これは、基本法の諸規定と適合しない。まず、基本法35条2項2文は、州の災害事態の場合にこのような作用を排除している。軍隊は、あくまでも自然災害や「重大な災厄事故」の場合の州や警察などの「支援」の任務に限定されている。しかも、35条は、災害などに対処する際に、軍事的な武器を用いた戦闘出動を許していないから、航空安全法14条3項に基づき、軍隊が、航空機に対して直接武力をもってする措置は、基本法35条2項2文の枠内にはない。また、2以上の州にまたがる自然災害事態に関する基本法35条3項1文の規定にも適合しない、と。
さらに判決は、航空安全法の当該規定は、基本法1条1項の「人間の尊厳」の観点から、実質的には基本法2条2項1文と適合しないと明言している。人間の生命は、基本的な構成原理および最高の憲法価値としての「人間の尊厳」のきわめて重要な基礎である。いかなる人間も、(その属性、身体的または精神的状態、能力、および、社会的地位にかかわらず)人格として、この尊厳を保持する。基本法1条1項は、第三者または国家それ自体による侮辱、烙印、迫害、排斥および同様の行為から個々の人間を保護するだけではない。むしろ、「人間の尊厳」の尊重と保護への義務づけは、人間を国家の単なる客体とすることを、一般的に排除する。この基準から見れば、航空安全法の当該規定は、航空機撃墜により、〔ハイジャックに〕無関係な乗員・乗客にも及ぶという限りで、基本法1条1項、2条2項1文と適合しない、というわけである。
判決は、口頭弁論における操縦士会(コックピット)や客室乗務員団体の関係者の証言も採用しており、現場の視点を踏まえた生々しい理由づけは注目される。例えば、航空安全法13条1項にいう重大な航空事件が起きており、かつそれが重大な災厄事故の危険を根拠づけるという確認は、その時々の事情により、非常に不確実であること、事態の評価に際してやっかいな点は、当該飛行機の乗員が航空機のハイジャックの試みあるいは成否を、地上にどの程度報告することができるかということである。それが成功しなければ、事態の基礎は、はじめから誤った解釈の欠陥を伴うことになる、と。
具体的にみると、判決は、現場の大要次のような証言を紹介する。すなわち、ハイジャック機では、客席乗務員と操縦席との間で連絡が十分にできないし、また操縦席と地上の決定権者〔国防大臣、空軍総監〕との間でも同様な状況にあり、航空機の状況は分単位、あるいは秒単位で変化しうる以上、極端な時間的圧力のもとで地上で決断をしなければならない者にとって、航空安全法14条3項の撃墜要件が具備されているのかどうかを確実に評価することは、実際上不可能である、と。判決は、航空安全法による撃墜命令までにとられる前段階措置やそれぞれの段階の関係者の多さなどを指摘して、こうした判断を的確になすことは不可能という航空関係者の証言を「説得力がある」と評価している。
判決はまた、ハイジャック機の乗客の「人間の尊厳」との関連でもさまざまな指摘をしている。例えば、航空安全法14条3項にいう航空機を、他の人間〔目標となる高層ビル街にいる人々など〕の生命に対する凶器にしようとする人々〔ハイジャッカー〕の暴力で機内に拘束されている者は、それ自体、この凶器の一部であり、そういうものとして扱わねばならないとする想定を退ける。そうした想定は、犠牲者を人間としてではなく、物として見ており、自由ななかで自己決定することを意図され、かつ国家行為の純粋な客体とされてはならない本質としての人間の観念(基本法の人間像)と適合しえない、と。
他方、判決は、航空安全法の当該規定は、凶器とされた航空機が突入することで生命を脅かされる人々〔高層ビル街の人々など〕のための国家の保護義務によっても正当化できないと指摘する。国家からの自由を本質とする防御権と並んで、基本権の客観的内容から出てくる国家の保護義務の議論が、近年ドイツでは盛んである。判決は、この議論と従来の判例を引照しつつ、保護義務達成手段の選択可能性を特定の手段の選択〔撃墜〕に狭めるとしつつ、憲法に適合している手段のみが選択されることを求める。
なお、航空安全法の当該規定が基本法の「生命への権利」や「人間の尊厳」と適合しうる場合として、判決は二つの場合を挙げる。すなわち、武力の直接作用が、無人機に対して向けられる場合、あるいは、もっぱら、地上の人間の生命に対する凶器として航空機を突入しようとする人々〔自爆ハイジャック犯〕に向けられる場合、である。前者は明快だが、後者の場合、「のみ」(nur)ではなく、「もっぱら」(ausschliesslich)という言葉が気になる。もちろん、ausschliesslichには「のみ」という意味もある。ハイジャック犯のみが自爆覚悟で自ら操縦する航空機ならば問題は少ないだろうが、「もっぱら」という場合、ハイジャック犯に脅迫された機長と副操縦士が搭乗しているようなケースも含むのだろうか。民間航空機の場合、通常、三桁の乗客の命がかかっている。三桁の命と地上の高層ビル街の四桁に達する命の重さを「衡量」することは許されないが、しかし、ハイジャック犯に拘束された操縦士の場合は、正当化できる場合もありうるという解釈も含意されているのだろうか。
もっとも、判決は、連邦には、航空安全法の当該規定について立法権限が欠けているから、航空機に対する武力による直接作用が憲法上正当化されうるという〔上記の〕限りでも、当該規定は存続しえないと断じている。そして、「その規定は全体において違憲であり、かつその結果、連邦憲法裁判所法95条3項1文〔「法律に対する異議を認容する場合は、当該法律の無効を宣する」〕により無効である」という明快な結論を導いている。
さて、出されたばかりの判決を、入試監督・採点の合間にざっと読んだが、憲法裁判所ホームページからダウンロードした判決文は25頁もある(判決当日に配布されたプレス用は76頁)。そのすべてを紹介することはできなかった。読み落としやミスは、「新聞記事」並みの速度で書いている本「直言」ということで、お許しいただきたいと思う。少なくともここでいえることは、次の4点である。
第1に、「9.11」に対する対応の形として、ハイジャックされた民間航空機の撃墜の可能性を法制化しようとしたドイツ的試みは頓挫したという事実である。当該規定の違憲・無効は連邦官報に公布されたから、この違憲判決は拘束力をもつ。同様の法律をポーランドも制定しているが、かの国での今後の議論が注目される。米国の場合は、すでに「9.11」の段階で1機撃墜したとされており(本当に撃墜されたのかはなお疑問視されているが)、このような法律を制定して物議をかもすことは今後もないだろう。ドイツの場合は正直に「民間機撃墜」を法制化しようとしたため、このような議論に発展したわけである。異議申立人のバウム元内相やヒルシュ元連邦議会副議長は、「歴史的判決」として高く評価しているという。
第2に、今回の判決は、「人間の尊厳」を相対化する傾向に対して一定の歯止めをかけたものと評することができるだろう。判決は、これまでの「人間の尊厳」関係判例を引照しながら、「人間の尊厳」の意味と意義を改めて確認している。判決当日、パーピア連邦憲法裁判所長官が、「人間の尊厳の保護は厳格であり、かつ制限になじまない」と語ったことがDie Welt紙に紹介されているが、これも「人間の尊厳」相対化の動きと、基本法(憲法)改正の方向と内容にクギをさしたものと見ることができよう。「人間は決して目的に対する手段ではなく、常に目的それ自体としてのみある」というカントの道徳哲学以来の命題が問われた限界事例において、憲法裁判所が明確な姿勢をとったことは重要だろう。人間の命の扱いを、国家権力が恣意的な基準で操作できるような社会は健全ではない。かりに高層ビルに突入する民間機を撃墜して、高層ビルの人々の命を救ったとしても、撃墜された民間機の破片が、近くの病院に落ちたらどうなのか、と異議申立人の一人、ヒルシュ元連邦副議長は、昨年の口頭弁論を前に鋭く問いかけていたことが想起される(Die Zeit vom 3.11.2005)。
第3に、基本法(憲法)を改正して、航空安全法14条3項のような規定を憲法に盛り込み、軍隊の国内出動の機会と可能性を拡大するという主張に対しては、今回の判決によって、明確な歯止めがかけられた。民間機撃墜のように、罪のない乗客の死をもたらす権限を国家がもつためには、基本法(憲法)の改正が必要だとする議論が依然としてある。判決が、基本法35条による連邦の立法権限との関わりではあるが、自然災害や重大な災厄事故に対する軍隊の出動に、特殊な軍事的武器を使用することを否定的に評価したことは重要である。
基本法(憲法)改正については、連立与党のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU) が改正に積極的であるのに対して、社会民主党(SPD) は同党出身の国防大臣を含めて慎重である。自民党(FDP) 、緑の党、左派党は、連邦軍の任務と警察の任務との区別を侵してはならないという明確化として、判決を評価している。警察労働組合も同様の見解という(Die Welt vom 16.2) 。連邦軍の国内出動の拡大については、かねてよりW・ショイブレ内務大臣(CDU) が熱心に主張してきた。対テロ活動への軍の参加のみならず、近年では、ワールドカップの警備任務に連邦軍を参加させることを主張している。だが、今回の憲法異議申立人の一人、バウム元内相は、「ワールドカップは災厄事故〔35条2、3項〕ではない。…内相が警察的手段で安全を確保できないと判断するような場合には、ワールドカップを実施してはならない」と指摘している(Frankfurter Rundschau vom 16.2)。
また現職のB・ツィプリース法相は、判決当日の新聞インタビューに対してこう述べている。「連邦軍の〔国内〕出動の要求は、警察と軍の区別を誤認するものだ。連邦軍は重装備をもつ警察ではないし、戦争の遂行は、警察的な危険防御の比較変化形 (Steigerungsform) ではない。法と秩序の維持は警察の権限であり、軍事手段によってのみ〔対応〕可能な国というのは、内戦の前にある。だが、テロリズムやテロ対処は内戦ではない。警察と軍の間の限界を解消し、平和時に兵士を通りに送ることで、この印象〔内戦〕を呼び起こすべきではないだろう。イスラムのテロリストは犯罪者であり、かつ犯罪防止は、わが警察に信頼がおけるのだ」(FR vom 16.2) と。
第4に、「テロとのたたかい」のなかで、罪のない第三者をまきこむ事態とどう向き合うかは、依然として課題として残されている。元陸軍総監は、空からの脅威と並んで、海の脅威(客船やタンカーへの攻撃など)と核・生物・化学兵器(ABC)防御の三つを挙げ、これら三つには国家安全保障の観点から連邦軍が不可欠であると説く。ショイブレ内相が民間物件などの警備任務の拡大を主張するのに対して、この元陸軍総監は、それは警察の権限にあると明確に述べ、大使館や駅の警備を考えてはおらず、ミサイル攻撃から空港を守り、原発や産業施設などを広範囲に遮断し、鉄道線や国境線を監視することなどをテロの脅威に対する軍の役割として挙げている(Die Welt vom 16.2) 。 だが、軍が警察の領域にしゃしゃり出て、重武装で警備したからといって、テロを防げるとは限らない。むしろ、逆効果という場合も歴史的事例が教えるところである。上記映画「ミュンヘン」のなかで、ミュンヘンオリンピック(1972年) の際に、パレスチナゲリラがイスラエル選手を人質にとった実写フィルムが巧みに使われていた。そのなかのニュース映像のなかで、米国ABCのジム・マッケイが「〔後に9・11直後も冷静なキャスターであった、現場の〕ピーター・ジェニングスによれば、ドイツの軍隊は非常に複雑な法律(laws)の制約のため出動が認められません」と述べるところが出てくる(なお、法律〔laws〕と言うが憲法〔基本法〕の意である)。結局、あのあと、連邦国境警備隊が装甲車などの重装備をもち、対テロ特殊部隊(GSG9)を組織してその後のテロ対策の中心になっていった。あのとき、基本法上の制約が、連邦軍の出番がなかったことが、今日、夢よもう一度というわけだろうか。冷戦後、連邦国境警備隊はその歴史的使命を終え、2005年7月1日から「連邦警察」」(Bundespoilizei)と名称変更した。いずこでも、テロを口実に、軍隊の活動分野を広げることには慎重であるべきだろう。
最後に、「自由か安全か」というテーマについてバウム元内相は、「我々はより多くの安全のために自由を放棄しなければならないのか。…テロ事件による実際の脅威と市民的自由と憲法のラディカルな縮減といかなる関係にあるか」と問いかけ、米合衆国建国の父の一人、ベンジャミン・フランクリンの言葉を引用する。「ひとときの安全のために自由を手放すものは、自由も安全も失うことになる」(1759年)。
なお、テロとどう向き合うかというテーマを考える上で、映画「ミュンヘン」の結末における主人公のやりとりは印象的だった。