体験的「米軍再編」私論(その2・完)  2006年5月8日

まれたとき、そこに基地があった。星条旗と「背の高い男たち」は、幼い記憶のなかでは「異質な他者」というよりも、「異物」に近い存在だった。5歳頃だったと思う。「甲州街道の向こうは日本でないから、一人で行ってはいけないよ」と母に言われ、それでも「月光仮面」の恰好をして友だち数人と繰り出した。「平和通り」は毒々しい看板と横文字。化粧の濃い女性たちが立っていた。今回は、「これが『同盟』なのか?(その1)」の後編を、体験的「米軍再編」私論として掲載することにしたい。

  私の自宅の塀には、米空軍戦闘機P51ムスタングの12.7ミリ機関銃弾の貫通痕があり、幼少の頃からこの穴を見て育った。同じ多摩地区の八王子や立川、三鷹などがB29の空襲を受けたことは、立川で空襲体験をした母から聞かされていた。なぜ府中は爆撃を受けなかったのか。米軍が散発的な機銃掃射にとどめた理由は、旧陸軍燃料廠の跡地を占領後、すぐに司令部として使う予定だったからだという。事実、戦後、ここにアジア・太平洋の広大な地域を担任する第5空軍司令部が置かれた。

  ベトナム戦争の頃、座間(米陸軍第9軍団司令部)や横須賀(米海軍司令部)との間を行き交う、連絡用ヘリコプターの音がうるさかったのを覚えている。空軍司令部ということもあって、陸軍や海兵隊の基地のような騒音被害や米兵犯罪などは多くはなかった。それでも、小学校1、2年のとき、「パンパン」(米兵相手の娼婦)に部屋を貸している隣家で、深夜、傷害事件が起きた。「背の高い男」が塀を乗り越え、私の家の勝手口の前を通って道路に出たという。刑事が母に、「足音を聞かなかったか」と質問して、庭に足跡が残っていないか調べていったという。日米安保条約が改定されて間もない頃だった。
  
私にとっての「基地」は、幼少期の記憶では間違いなく「異物」だった。だから、中学校の英語の時間、幼少期に聞いた「米語」(特にaとeの中間の音)を生理的に受け付けないので困った。当時、テレビでやっていた「ギャラントメン」(「コンバット」より少し前に放映された戦争ドラマ)を観ながら、ドイツ兵のドイツ語の響きに親近感をもつという「危ない少年」だった。最新刊『憲法「私」論』4章にそのあたりのことが書いてある

  私が中学3年だった1968年12月、第9回日米安保協議委員会で、米軍施設のうち50施設の返還が決まり、さらに1973年1月の第14回安保協議委員会で、関東平野にある米空軍施設を横田基地に統合するという「関東計画」が策定され、実施された。この計画により、第5空軍司令部は横田飛行場に移った。府中には、航空自衛隊総隊司令部と、気象隊などの若干の付属部隊が残った。米兵が闊歩した「平和通り」の横文字は消え、米兵相手の飲食店もなくなった。米軍府中基地は一部の通信施設を除いて返還された。
  
基地跡地の計画については、当初、府中市は「平和の森基本構想」を打ち出し、自衛隊基地も含めて全体を公園化して、博物館や美術館、学校などを建設する計画だった。しかし、1976年に国の側で、「3分割有償払い下げ」方式が打ち出された。国と地元との間で紆余曲折があり、最終的に「府中の森芸術劇場」や市民斎場、公園などが、自衛隊基地の横につくられた
  
基地跡地につくられた「生涯学習センター」横のわずかな隙間に、まだ米軍施設が残っている。刑事特別法により立ち入りを禁ずる看板がいまもある。ゲート横の狭い路地を行くと、突然、住宅地の間に巨大な電波塔とパラボナ・アンテナが見える。このアンテナがある地域が、いまだに返還されていない米軍施設の本体である。錆びついており、かなり古くなっていることがわかる

  ここで、少し「観光案内」をしておこう。京王線東府中駅北口に出て、甲州街道を渡ると、そこが「平和通り」である。かつて米兵相手の飲食店が立ち並んだ飲食街の面影は皆無である。散歩をする人や芸術劇場に向かう人々の列が続く。「平和通り」のつきあたりには、航空総隊司令部の白い建物が見える。その前には芸術劇場への案内板がある。ここでスクランブル発進など、全国の航空部隊の指揮をとっていることを知る人は少ない。少し歩くと「平和通り」の終点に出る。その前に自衛官官舎がある。駐車場に並ぶ車のナンバープレートには、札幌、八戸、所沢、浜松、北九州といった遠方のものが目立つ。EUのナンバープレートを飾りに付けている車が一台あった。ヨーロッパのどこかの国の防衛駐在官(駐在武官)を経験した幹部自衛官(一佐クラス)のものだろう。私もドイツで使っていたナンバープレートを記念に持ちかえったので、何となく気持ちは理解できる。
  官舎前の通りを公園を左に見ながら歩くと、米軍時代の廃墟がある。基地返還後に、関東財務局立川出張所が管理している国有地だが、米軍基地時代の建物が無残な形で放置されている。周囲の森は誰も立ち入らないので、ウグイスのさえずりも聞こえる。「タヌキに注意!」の表示を出すほどに、貴重な自然が保存されている。

  先週の「直言」をUPした日(5月1日)の深夜(ワシントン時間で1日午前)、日米安保協議委員会(2プラス2)で、米軍再編の最終報告「再編実施のための日米のロードマップ」が発表された。その基本的ポイントは、先週の「直言」でも簡単にコメントした。普天間基地移設とグァム移転などを、2014年までに完了させるという具体的数字が打ち出された。「ロードマップ」という言葉が使われていたが、違和感があった。少なくとも8年間、日本の予算のなかに、米軍のため、従来の「思いやり予算」に加えて、「思い入れ予算」とでもいえるような大量の支出が見込まれることが確実となった。ここまで多額の支出についても、国会で十分な議論はない。国民への説明もない。あるのは、ここで米側に「恩」を売り、とにかく米軍再編に協力しておくという一部政治家や外務・防衛官僚たちの「思い入れ」と「思い込み」だけである。

  『最終報告』の「日米の共通戦略目標」を見ると、グローバルな課題に日米が軍事的に共同対処することが明確に打ち出されている。特に、人権や民主主義などの基本的価値の推進からエネルギー供給の安定性の維持・向上に至る「世界の戦略目標」のために、米軍再編に伴う、自衛隊と米軍の一体化を実施するのは、従来の日米安保条約の枠組みを大きく踏み出すものだろう。
  ラムズフェルド国防長官は、5月4日の講演のなかで、第2次世界大戦後の在日米軍の最大の再編であり、「歴史的合意」であると自画自賛した。費用負担からいっても、米側にとっては美味しい「合意」である。3兆円という金額をぶちあげ、日本側が値切りつつ、3分の2くらいの金額は負担することになることは「想定の範囲内」なのだろう。

  そもそも米軍基地は何のためにあるのか。それは「直言」でも何度か書いてきた米軍基地のマッチに象徴されるように、米軍はグローバル展開を前提としており、組織、機能、運用などをその方向でバージョンアップしたいわけである。そのための費用をなぜ日本国民の税金で負担するのか。『最終報告』はまったく説明になっていない。
  特に注目されるのは、米軍と自衛隊の一体化である。もともと海上自衛隊は、その立ち上がりからして米海軍と一体だったし、司令部も横須賀にあった。他方、陸と空はそれなりに区別されていた。しかしながら、陸自の初の海外緊急展開部隊である「中央即応集団」司令部を米軍のキャンプ座間に置くのは、第一軍団司令部のもとで海外展開を円滑に実施するためだろう。
  
私の地元にある航空総隊司令部を横田飛行場に移駐する計画は重大である。かつて府中に第5空軍と航空総隊の司令部があり、30年以上「別居」したが、今度、横田でまた「再婚」するというわけでもあるまい。

  『最終報告』によると、空自総隊司令部の横田移駐は2010年度に実施される。ここに設けられる「共同統合運用調整所」がくせものである。「防空及びミサイル防衛に関する調整を併置して行う機能を含む」とある。『中間報告』では、横田にできる「共同統合運用調整所」により、自衛隊と在日米軍の間の連接性、調整および相互運用が不断に確保されるとされる。情報の共有化が一段と進み、この「調整所」を通じて関連する「センサー情報が共有」されるという。この点は重要である。
  
なお、昭島市は騒音被害などの観点から、この計画に反対を表明。国に対して質問状を提出した。1月30日に回答がなされたが、それは昭島市のHPで読むことができる。回答は、移駐の規模についてまだ確定していないとしながらも、航空総隊司令部とあわせて横田に置かれるのは、航空総隊隷下の作戦情報隊、防空指揮群であると明記している。府中の航空総隊司令部とこれら部隊の人員は600名という。なお、防空指揮群は、群本部、指揮所運用隊、通信電子隊および基地業務隊の四つの部隊から構成(約320人)される。航空総隊には、ミサイル防衛(MD)における「統合司令部」の機能も与える計画という。「共同統合運用調整所」は、「情報共有などを通じて自衛隊と米軍との司令部間の連携向上を図ることを目的としているが、その具体的な組織、人員等については、今後日米間の調整を加速化していく考えである」とも書いている。

  実は、関東計画で第5空軍司令部が横田に移る前、この府中の司令部地下の防空指揮所では、米軍と自衛隊の当直将校がボートの前の椅子に座り、国籍不明機の接近などに対応していた。横田にできる「日米共同統合運用調整所」はこれをさらに進めたもので、まさに「統合航空司令部」ということになるのだろうか。この場合、空自が、米空軍の任務・行動の必要性とそのミッションに密接に関わって行動することになり、それは日本防衛という枠を超えて、日本が、「米軍再編」の最終目的であるグローバル展開に能動的にコミットすることを意味する。それは、政府が従来から違憲としてきた集団的自衛権の行使そのものだろう。

  1969年に起きた「EC121型機事件」のときの米空軍と空自の動きを見れば、すでに日米はそうした態勢をとってきたことがわかる。1973年9月7日、長沼ナイキ基地訴訟において札幌地裁は、自衛隊を、装備、編成などからして憲法9条2項の禁止する戦力に該当するとして、違憲判断を下したが、その審理過程で原告側が提出した最終準備書面のなかで、この「EC121型機事件」が取り上げられている。
  
準備書面の第3章「本件保安林指定解除処分の憲法9条違反ないし森林法26条2項違反」第3節「本件長沼ミサイル基地設置計画の違憲性」第一の二「安保条約下の自衛隊の対米従属性と攻撃性」のなかで、1969年4月15日のEC121機撃墜事件」のときの自衛隊の動きを示す一連の「時間的経過」が表にされている。この事件は、北朝鮮が米軍の偵察機ロッキードEC121型機を撃墜したとき、日米が早いタイミングで共同行動に入っていた。準備書面に示された表は、下記の通りである。

   EC121機撃墜事件発生              1時50分

   自衛隊(航空総隊)に米空軍より連絡      3時

   外務省に米大使館より連絡            5時

   海上保安庁に米96機動部隊司令官より連絡  5時25分

   国民がNHKニュース速報で知る          7時50分

  事件発生後、米軍は直ちに軍事行動を起こした。それを空自(航空総隊)に連絡してきたのは、発生から1時間10分後である。空自の当直将校が、全国の方面航空隊に連絡をとり、警戒態勢に入ったとき、まだ政府はキャッチしていなかった。外務省に米大使館から連絡が入ったのは5時である。海上保安庁への連絡は乗員の救助協力に関するものである。国民が7時50分にニュース速報で知ったとき、空自が行動を起こしてから4時間以上が経過している。
  
準備書面はいう。「政府も国民も知らぬまに、自衛隊が米軍と共同行動をとるという危険さえ、つねにはらまれている。〔…〕航空自衛隊(航空総隊)も、事件発生後1時間10分ばかりの間は、情報がない状態に置かれていた」と。
  
ちなみに、長沼事件の札幌地裁判決は、自衛隊に対する詳細な実態審理を行った上で、自衛隊違憲の判断を下した。判決理由のなかで、この「時間的経緯」にも注目して、米国に対する自衛隊の対米従属性に言及している。

  長沼事件一審判決から今年で33年。そこで指摘されていた自衛隊の「対米従属性」は、いま、単に「従属」という程度を超えて、まさに「一体化」の道を辿っている。「金出し、人出し、血も流す」という対米「思い入れ」姿勢をベースに、日本国自衛隊は、米国のNational Guard(州兵)になろうというのだろうか。「米軍再編」への過剰なコミットは、日本の納税者に損害を与えるだけでなく、日本の平和と安全を著しく損ない、アジアの平和と安全にとってもマイナスを与える「世紀の愚行」ではないか。このあまりに一方的で、かつ全面的な対米肩入れがこのまま実施されるならば、合衆国の51番目の州としての地位や権限もないのに、お金や負担だけは州以上に課せられるという、異常な事態に至るだろう。「ロードマップ」まで作って見切り発射を狙う政府に対して、ここは当面、現状凍結で待ったをかけ、根本的な見直しを行わせるべきだろう。「歴史的な合意」というラムズフェルド国防長官の高笑いは、日本やアジアにとっては大きな不幸の始まりである。

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