テレビを見つめる家族の目が輝く。懐かしい風景である。サッカー・ワールドカップ〔WC, W杯〕2006ドイツ大会に参加する日本代表のキャンプ先が、ライン河畔のボンとなり、彼らの動きを伝える映像の向こうに、私と家族が1999年から 2000年まで1年間あまり住んだボンの風景が次々と出てきたからである。ドイツ語ではFussball Weltmeisterschaftなので、WCではなくWMが略称だ。滞在中に生活情報を得たボンの地元紙のホームページを久しぶりにのぞく。「YOKOSO, JAPAN」(ようこそ、ニッポン)の見出し。日本代表がボンのヒルトンホテルに到着したときの様子などを伝える。このホテルはライン川の際にあり、ボン滞在中によくコンサートに通ったベートーヴェン・ハレ(ホール)にも近い。すでにボン駅や旧市街のあちこちには、「SAMURAI BLUE 2006」という標識が掲げられている。日本サッカー協会の情報発信拠点 (G-JAMPS) に日本人サポーターを誘導するためのものだそうだ。人口35万人。かつて「連邦村」と言われ、1999年夏まで連邦議会があり、ドイツの首都だったボンには、いま100人を超える日本人報道陣が押しかけ、サポーターや観光客で賑わいを見せつつある。よく買い物に行ったBonngasse(小路)のみやげ物店の主人のコメントも地元紙に載っていた。
いま、そのドイツがW杯開催を前に緊張している。二つの方向からの「暴力」のおそれである。一つは、旧東独地域を中心に、ネオナチや極右グループの動きが目立ち、外国人排斥や襲撃が増加している。連邦憲法擁護庁(日本の公安調査庁のような機関)報告書(2005年度)によると、ネオナチは4100人(04年比で400人増)、極右グループは1万400人(04年比400人増)である。彼らによる暴力・襲撃事件は958件(04年比182件増)である。外国人排斥の暴力事件も322件ある。アジアやアフリカ、中東を含め、世界各国からドイツに100万人近い人々がやってくる。W杯の期間中、外国人排斥を軸に、フーリガンとの関係でもネオナチ・極右の動きが活発化していくだろう。特に6月21日のイラン対アンゴラ戦が、この方向からの暴力においては焦点となると見込まれている。
もう一つの方向はテロの可能性である。 5月の連邦刑事警察庁 (BKA) の情勢報告書によれば、W杯の64試合中の21試合が「高度の危険」状態にあるというのである (Berliner Zeitung vom 18.5.06) 。攻撃主体としてイスラム過激派が想定されている。特に6月9日の開会式(ミュンヒェン)と7月9日の閉会式(ベルリン)が一番危ないという。この警告には、警察労働組合 (GdP) のK. Freiberg委員長も同調しつつ、しかし各スタジアムは十分に統制され、安全を保たれているともいう。連邦刑事警察庁の報告書で最高度に危険とされているのは、やはり米国と英国が参加する試合である。ドイツもアフガンで軍を送り、イラクで警察官の訓練を行っているので、ドイツ大会に参加するすべての参加者はテロリストの目標の内にあるとも。イラク戦争に参加したスペイン、ポーランド、オーストラリア、韓国の試合が危ないとしている。さらなる「爆弾」は、イラン大統領が自国代表応援のために来独する可能性があることだという。
2年前のアテネ五輪のときは、ハイジャックされた民間航空機を撃墜するため、主要スタジム周辺にパトリオット(地対空)ミサイルが配備されたのは記憶に新しい。今回は、NATO軍の空中警戒管制機(AWACS) がW杯の試合会場上空を旋回して、不審な航空機等の接近をキャッチするとともに、連邦空軍機が警戒飛行をする。AWACSは、ノルトライン・ヴェストファーレン州アーヘンに近いガイレンキルヒェン基地に18機常駐している。ただ、ハイジャック機の撃墜権限を連邦国防相に与える「航空安全法」に憲法違反という判決が出ているので、連邦軍の活動範囲はいまのところ後方支援に限定されている。
実は、W杯を前にして、ドイツでは、連邦軍(特に陸軍)を本格的な警備出動させるかどうか、その法的根拠をどうするかをめぐって議論されていた。 3年前に、軍隊の国内出動については論じたことがある。こうした議論とは別に、すでに連邦軍は2000人規模で、W杯の後方支援業務に従事することになっている。 ABC防御部隊も、化学兵器使用に対応するために複数の州の要請で、出動態勢をとっている。
ドイツ基本法は、軍隊について、防衛目的の出動と、国内出動を厳格に分離し、武力をもってする国内出動をきわめて厳格に制限している。基本法上、軍が国内出動できるのは、87a条4項の事態、すなわち「連邦または州の存立またはその自由な民主主義的基本秩序(FDGO)に対する差し迫った危険を防御するために、連邦政府は、民間の物件を保護するに際して、および、組織されかつ軍事的に武装した反乱者を鎮圧するに際し、第91条2項の要件が現に存在し、かつ、警察力および連邦国境警備隊(連邦警察)では十分ではない場合には、警察および連邦国境警備隊(同)を支援するために、軍隊を出動させることができる」という事態である。妙に長い条文だが、警察力では抑えられないような内乱ないしそれに準じた大暴動を想定していることは明らかである。武装した軍隊が出動するという事態は、警察などでは不十分と認められる場合に限られる。警察で対応可能な場合には、軍の先行的な出動は認められない。テロリストによるテロ行為もこれに含まれない。
もう一つは第35条2項、3項の事態である。「自然災害または特に重大な災厄事故の場合に救助を受けるために、州は、他の州の警察力、他の行政官庁の力と設備、ならびに、連邦国境警備隊(連邦警察)および軍隊の力と設備とを要請することができる」。これは大規模災害を想定しており、武装した軍隊の出動事態は含まないと解されている。
1791年フランス憲法以来、「公の武力は、市民の自由に対して向けられてはならない」という原則が、近代立憲主義において、軍隊の国内出動を制限し、国内には警察、国外には軍隊という「棲み分け」を定着させてきた。軍と警察、秘密機関と警察の区別が曖昧だったナチス時代への反省から、戦後もまた、軍と警察の棲み分けは厳格に行われるようになった。1994年の『防衛白書』以来、冷戦後の軍隊の権限拡大の発想が生まれたという。 連邦国防大臣の F. J. Jung(キリスト教民主同盟〔CDU〕)は、工業施設やエネルギー供給施設なども連邦軍によって警備することを考えているという。この大臣のもとでまとめられる『国防白書』は「防衛」概念の新たな意味づけを行い、軍の対内(国内)出動の機会を広げようとしている。Jung国防相のもとで出される『国防白書2006』には、テロや「資源や商品の流通の攪乱」、汚染と並んで、難民や「無統制な移民」もまた、ドイツの安全保障の脅威にカウントされるという。ドイツの「国益」には、「妨げられることのない世界貿易」までもが入っているのだ。資源、エネルギー、貿易ルートなどを、最終的に軍事力で守ることが「国益」の維持と観念されている。Jung国防相は、Schäuble内相の強い影響を受け、とにかく軍隊の国内出動を繰り返し追求しているのだろう。
Jung国防相はまた、高級新聞FAZのインタビューで、連邦軍の対外、対内出動(テロの危険に対する)の明確な正当化のため、基本法改正が必要であるとの意見を述べている (Frankfurter Allgemeine vom 2.5.06) 。国防相は、「防衛」 (Verteidigung) という概念を新たに定義し、冷戦時代のそれとは区別して、予防、前方展開、介入を軸とする柔軟なタイプに移行させようとしている。国防相は、インタビューのなかで、「自由な世界貿易と、全世界の市場と資源への
妨げられることのない接近」の維持を主張している。だが、市場や貿易の安定的な発展をも「防衛」概念に含めることは、自衛権を基礎にした「防衛」概念の際限のない拡張であり、問題であろう。
連邦内務大臣のW. Schäuble(CDU)は、 16 年前のドイツ統一時の内相として重要な役割を果たした人物だが、現在の大連立政権で再び内相を務めている。この大物内相の持論は、連邦軍の国内出動である。かなり以前から、問題が起きるたびに連邦軍の国内出動の可能性を主張してきた。同じ連立与党の社民党(SPD)の安全保障政策の専門家たちは、テロ行為は犯罪行為であり、それは侵略戦争のような国家行為と同置することには反対してきた。そこには、「国内政治の軍事化をもたらしうる国家権限の劇的な拡大」を阻止する力学も働いている。
なお、「テロと安全」「自由と安全」というテーマとの関わりで、先週、5月23日、ドイツ連邦憲法裁判所第1部(法廷)で画期的な判決が出された。「網の目状捜査」 (Rasterfahndung) によって被害を受けたとされるモロッコ人学生の憲法異議を認容して、「網の目状捜査」を定める州法が、「情報の自己決定権」を侵害し、違憲・無効とされたのである。18歳から40歳、男、子どもがいない、学生(元学生)、イスラム教というキーワードで、大学や住民登録局、外国人登録局のデータについて、何の犯罪の嫌疑もない800万人以上の個人データが徹底的に洗い出され、絞り込まれた。しかし、この判決により、16の州のうちの11で、法律改正が早急に求められるに至った。
なお、米国では、「10人の罪人を逃すとも、1人の無辜(無実の人)を処罰するなかれ」の逆をいく、まさにブッシュ式「10人の無辜を処罰しても、1人のテロリストを逃すなかれ」の暴走がまだ続いている。
「自由と安全」との関わりで、個人の「安全のための基本権」を保護するために、軍隊の国内出動はまさに当該基本権保護義務にかなうものだという議論もある。連邦軍の国内出動のルート開拓をはかる一部の軍人・政治家の動きは、W杯だけでなく、他のあらゆる問題との関連でも出ている。W杯が世界中から100万もの人がくるだけに、ここで既成事実をつくっておきたいというところだろうか。
と、ここまで書き終えて、たったいま、5月28日(日曜日)、新聞休刊日に出る数少ない全国紙Welt am Sonntag紙をチェックして驚いた。ベルリンの新しい中央駅が完成して、その記念式典が行われたのだが、その27日(土曜)夜、16歳の生徒(学校崩壊で有名になったノイ・ケルン区の本科課程校の生徒)が、ナイフで無差別に人々を刺し、28人が重軽傷を負うという事件が起きたのである。たまたま最初に刺された人がHIV感染者だった。生徒は、その血液の付いたナイフで20人以上の人々を次々に刺していった。警察は、すべての負傷者をHIV対応可能な大学病院に搬送させた。厳重な警備体制が敷かれていたのに、惨劇は起きた。Welt am Sonntag紙はこれをトップで紹介。W杯における安全対策が問題化すると書いている。
極右・ネオナチによる外国人排斥と、「イスラム系テロリスト」に加えて、少年犯罪や殺人鬼 (アモック患者、Amokläufer) 対策が言われはじめている。これは、軍隊の国内出動で対処する問題ではない。