その日がきた。 1997年1月3日から始めた「直言」の毎週更新も、今回で連続500回を迎えた。年数にして9年5カ月である。2005年2月に体調を崩し、2回ほど既発表原稿UPで乗り切ったことがあるが、「直言」の更新自体は一度も休まずに継続することができた。 4代にわたるサポーターの協力と、読者の皆さんの励ましのおかげである。この機会に感謝申し上げたいと思う。
さて、 「直言」の連続更新55回の1年目では、「本音の突出」傾向を指摘して、憲法理念実現への決意を語っている。100回記念のときは特に言及しなかったが、200回記念では、ドイツ滞在中の連続更新を踏まえて、「継続は力なり」という言葉でしめた。300回記念では、このサイトが異常をきたし、一時アクセス不能になるという事態になったことを踏まえて、サイトを維持する決意を表明した。400回記念では、「視聴率から視聴質へ」という観点から、アクセス数よりも「アクセス質」を重視しつつ、「権利感覚」について指摘した。そして、今回、500回連続更新を迎えて思うことは二つである。
その一つは、 200回連続更新のときと同様、シンプルな表現ではあるが、「継続は力なり」ということを改めて確認したい。「生命は力なり、力は声なり、声はことばなり、新しきことばは即ち新しき生涯なり」(島崎藤村)を再び引いて、「言葉を紡ぎ続けること」が私自身の励みにもなり、苦しいけれども楽しい、つらいけれどもうれしいという、いまの心のありようを伝えたいと思う。
早稲田にきて10年。この「平和憲法のメッセージ」も来年1月で10年を迎える。早稲田で初めて卒業を見送ったゼミ生が、全国各地、さまざまな分野でがんばっている。彼らはもう30歳になる。こうした区切りにおいて、人から聞いた「人生のVSOP」という言葉を紹介しておきたい。
20代はヴァイタリティ(vitality)、30代はスペシャリティ(speciality)、40代はオリジナリティ(originality)、そして50歳以上はパーソナリティ(personality)が軸になるというものである。
力にまかせて、無理を重ねても仕事ができた20代。しかし、30歳になる前に悩むことが多い。30代は今までの自分になかった能力を身につけるとか、資格をとるとか、新しい課題にチャレンジするとか、「これだ」と思ったテーマを深く掘り、まさに自分だけのスペシャルを身につける10年となる。そのスペシャリティを活かして、40代には自分のオリジナルな仕事をして、それが評価される。50代以降は、どんなに焦っても20代の体力はないし、30代のチャレンジはできないから、40代で確立した評価を基礎に、後進を育成する視点を加えていく。自分に出来なくても、自分より若い者たちにやらせて、成果をあげていく。「この人のもとで仕事をしよう」という人間的魅力が、50代以降の軸となる。ただ、これらはあくまでも、その年代の特徴と言っていいだろう。50代以上でも第一線に立ち、常にヴァイタリティとスペシャリティ、オリジナリティは忘れないでいたい。
上記「VSOP」を「直言」の更新に引きつけて言うと、200回まではヴァイタリティできたけれど、300回あたりから、私のスペシャリティが出てきた。400回以降はオリジナリティをいろいろと出して、あちこちで言及・引用されるようにもなった。この頃から、一回の文章がやたら長くなったのが特徴である。
今回から、つまり500回目からは、パーソナリティということを重視したい。そのために、「私」なりの生き方や考え方を自然に出していきたいと思う。たまたま『憲法「私」論――みんなで考える前に ひとりひとりが考えよう』(小学館)という本を出版して、改憲状況のなかで「一人ひとりの私」に届く言葉を模索したこともあって、500回目からは特にこの点を意識していきたいと思う。
なお、このホームページについて、筆者の私よりも詳しく読み込んでおられる方があちこちにいて、私がある発言をすると、「先生、直言ではこう言っておられましたよ」とすかさず訂正してくれる。私の記憶力の劣化は、「直言」がネット上の日記のように存在するおかげで、幸いにもカバーされている。今後は、一本の長さを抑えながらも(必要に応じて長くはなる)、淡々と「続けること」に徹したい。
500回を機会に述べておきたいもう一つの点は、「知のモラル」ということである。拙著『憲法「私」論』の全体に「通奏低音」のように貫流させたテーマでもある。そこでは、樋口陽一氏(憲法学者、東大名誉教授)が指摘されてきたことを私なりに受けとめ、時代の空気や気分を踏まえつつ展開したつもりである。
現状に批判的で、反対・抵抗を行う「批判」の学は古くなった。これからは、有効・有用な対案を出して、政策の形に練り上げ、制度として具体化する「建設」の学たるべしという議論が有力になっている。樋口氏は、戦後立憲主義憲法学は、一貫して、もっぱら批判理論として存在したがゆえに、明文改憲を阻止し、集団的自衛権行使の違憲解釈を維持し得たとする。「もし、憲法学の主力がはじめから『建設的』役まわりをひきうけていたら、これまで見られたほどの世論の抑止力も、働いてこなかったのではないだろうか」と指摘する。また、批判的「知」の側は、「あえて知の世界での常識をくりかえすという凡庸さに耐えることによってこそ、批判的であれという要請にこたえることができる。当たり前のことをだれも言わなくなったとき、その当たり前のことを語りつづけることこそが、批判的かどうかの試金石となるだろう」とも書いている(樋口陽一『憲法 近代知の復権へ』東大出版会、2002年)。
このホームページでも、憲法や法律の問題に限らず、さまざまな社会的、政治的な問題について、ときには文化的な問題(「食」や個人的趣味に関わること)についても、毎週一回の限られた時間とスペースではあるが、今後とも淡々と発信を続けていきたいと思う。500回を機会に、読者の皆さんに、日頃の励ましや感想、コメント、ご批判について、心からお礼申し上げたい。
1000回記念もがんばるつもりだが、今後は、単に回数のみを追求するというのではなく、自由に、楽しく、のびのびと書きつづけた結果として、1000回を迎えられたらと考えている。読者の皆さん。次の10年に向けて、「直言」をどうぞよろしくお願いします。