無邪気ゆえに危ういエリートたち  2006年9月4日

業や官庁の採用試験情報欄には、入社(省)数年の若手から中堅あたりが、就職をめざす学生たちに向けて「熱く語る」コーナーがある。経済産業省の採用情報欄にも、「先輩からのメッセージ」という欄がある。そのなかに30代半ばのキャリアが、「法務省事務官として考える経済産業省の職員に必要なこととは」という文章を書いているのをたまたま見つけた。


  私は、現在、法務省事務官として、商法の改正案を作っている。というと、皆さんは、「何で?」と疑問に思うだろうし、その疑問の中身も大抵は想像がつくのだが、それらに対する答えは、「経済産業省に入省するということはそういうことだ」ということに尽きると思う。大学で何を専門に学んだかが、経済産業省の職員としての職務を左右することは極めて少ない。最初に言っておくと、自分の持っている専門知識を仕事に活かしていきたいとか、好きな専門分野の仕事をしていきたいと思っている人は、経済産業省を就職先の選択肢に入れるのは避けた方がいい。
   …経済産業省で仕事をしていく上で何が必要か。それは、無尽蔵な好奇心と豊かな想像力、そして、いい意味での飽きっぽさだと思う。
   …私たちは、「お役人」だから、一歩先の何かをつくっても、現実には何もしない。だから、お役人がその分野の専門家になろうなどと考えると、現実には何もしない奴が、必要以上にあるべき姿を考えることになって、結果的には現実離れした役立たずの何かを作り上げてしまったりする。だからこそ、所掌範囲に際限のない経済産業省の職員になるなら、飽きっぽく、次から次へと興味の対象を移していくことも、いい仕事を楽しくやるための必要条件だったりするのではないかと思うのだ。…


  好奇心と想像力は私の口癖でもある。「いい意味での飽きっぽさ」も、ジェネラリストを目指す以上は必要な「資質」ということだろうか。かつて国家を動かしたのは「優秀なる」内務官僚だった。戦後は大蔵官僚の時代が続き、いま、米国的発想を柔軟に駆使する通産官僚(経産官僚?)の時代というわけか。なお、断っておくが、私は公務員のキャリアシステム一般を否定しているわけではない。わがゼミ・研究室からもすでに二桁のキャリアが出ており、さまざまな分野でがんばっている。だから、一人のキャリアの「メッセージ」をあえて紹介した理由は、彼が上記に続けて書いた次の文章のなかにある。


  …私は、今、商法改正に携わっているが、大学で法律の勉強をしていた訳ではなく、単に、前職のときに、ベンチャー企業の振興を考えるのなら、従来通りのお金を配る政策ではなくて、根本の会社法 (これは、本来は法務省の所掌で経済産業省の仕事ではない)から変えるべきだと思ったからに過ぎない。そして、面白半分で、現行商法の問題点を洗い出し、一昨年には、ベンチャー支援のための商法の特例の法律を作り、去年からは、調子こいて法務事務官とまでなって、改正作業をやっているというわけだ。…


  このキャリアは東大工学部卒。法学部で憲法を学び、手形・小切手法や商法総則・商行為法、会社法の単位をとって卒業したわけではない。「飽きっぽさ」を駆使して渡り歩くうちに出会ったのが、たまたま商法であったにすぎない。その彼がベンチャー支援法を作り、「調子こいて」商法改正(新会社法)に手を染めていったのである。
  今年5月1日、このキャリアが関与した新会社法が施行された。この新会社法はきわめて問題が多い。一番の問題は、全979箇条のうち、政令以下への委任が異様に多いことだろう。政令委任は21箇所、省令(法務省令)委任は301箇所(!)もある。言うまでもなく法律は国会が制定するものである。法律の委任を受け、内閣の命令である政令、各省の省令などがある。当然、政令や省令の形式的効力は、法律よりも下位にある。一般に、法律が政令や省令に委任すること自体は問題ない。問題はその量と中身である。301箇所というのはあまりにも多い。法律の中身が、実質的に法務省令という下位の規範によって決まるというのも疑問である(後述)。立法の作法としても問題があろう。

  この新会社法の登場について、早稲田大学の上村達男氏は、「改悪としか思えぬ新会社法の施行」と手厳しく批判している(『産経新聞』2006年5月31日付)。
  上村氏が指摘する問題の第一は、有限会社を廃止して株式会社に一本化した際、有限会社の方が規制が厳しかった部分までなくした結果として、「株式会社とはもっともルーズな有限会社」という逆立ちした会社法の出現を許したことである。ベンチャー企業向けの法制を一般企業にまで適用して、株式会社の基本形としたため、今日の経済社会に制御不能なほど過度な自由を与えてしまった、と。

  第二に、ベンチャー向けに時限立法として認められていた「最低資本金制度」を廃止し、資本金1円企業を一般化させたことである。株式会社について失敗と挫折の遺伝子をもたない日本では、欧州で今も維持する「最低資本金制度」を廃止する必要性も合理性もない、と上村氏はいう。私も性急な米国流の企業スタイルや方式が跋扈しはじめたことに違和感を感じてきたが、それが新会社法でここまで徹底・制度化されたことに正直驚いた。

  第三に、「新会社法は法的概念を文化的事象の表現とは考えず、さまざまな概念を構成する諸要素に因数分解し、共通項として新しい記号的な言語をあて、『共通項プラス残余』という理数的な整理を行ったことである。…新会社法に好意的な学者ですら、これを『高度化』ならぬ『コード化』と呼んでいる」という。上村氏が指摘するこの三点目は、一般にはちょっとむずかしいかもしれない。上村氏が挙げる例を一つ借りよう。「新株発行」と「新株引受権」という言葉が5月からなくなってしまった。ところが、従来の新株発行と自己株式の処分を無理に共通化しようとすると、「新株」という言葉はもはや使えないから、どちらも「募集」するとして、新法は「募集株式」というおかしな言葉で共通化すること
になる。これは、株式の発行側から見ると「募集株式の募集」ということになり、しかも、ここでの「募集」とは証券取引法の「募集」とは似ても似つかぬもので、相手が一人で足りるために私募を「募集」と呼ぶことになるという。
  上村氏の指摘から言えることは、長年にわたってこの国に定着してきた商法上の仕組み、それを説明する学説や概念などを無視して、法律を勝手に、かつ大規模にいじったために、説明のつかない弊害が生まれていることだろう。

  このような法律がなぜ出来たのか。それは、法の精神や法の実態についてあまり関心がない一方で、シャープな思考と理数的な組み立てには能力を発揮するタイプの人たちが、法律というものをデジタル世界の記号やコマンドのようなものとして作ったからではないか。法律の専門家であればあるほど、新会社法に違和感や疑問をもつ傾きが強いのも、こういう事情があるからだろう。

  昨年12月、新会社法の省令案が公表された段階で、早稲田大学の商法研究者17人(出身者を含む)が連名で、「会社法施行規則案等法務省令案に対する早稲田大学教授等意見」(2005年12月28日)を法務省に提出した。17人のなかには、高裁長官まで務めた実務家出身の教授もいる。
  私は商法・会社法の専門家ではないが、この意見書を読んで実に驚いた。意見書は、株主総会や株式会社の業務の適正を確保する体制、株式会社の監査や計算、組織再編行為等に関する法務省令案について、修正や削除を含む詳細な提言を行っているが、私が一番びっくりしたのは、新会社法は、「立法の作法」にかなっていないということである。この点に関連する部分を、意見書から抜き出してみよう。


  …省令の規定内容について、会社法が委任している事項と各省令の規定内容との関係を厳密に精査し、会社法の省令委任規定に照応しない提案を削除して、学説の動向に委ねる等の禁欲的な姿勢を保持すべきである。…
  …学説上対立のある問題について、法務省令が安易に決着を付けるという姿勢を有するべきではない。法務省令案は、従来の学説の対立を深いレベルで理解し租借した上で提案されていないのではないかと思われる点も存在する。…
  …会社法に目的規定はないのであるから、法務省令に目的規定を設ける必要はない。法務省令は会社法の特定の規定に存在する委任規定ごとに淡々と規定すれば足りるものである。…
  …法務省令案には、従来の商法・商法特例法等の規律内容から実質的に逸脱した修正・変更等が加えられている部分が少なからず見られる。また、とくに枝省令による「実質的な立法」が行われてはならないことは言うまでもないが、このたびの法務省令案にはそうした疑問を感じざるを得ない点が多々存在する。…


  抑制された筆致のなかに、深い憂慮の念がうかがえる。なぜ17人の商法研究者が意見書を出したのか、その問題意識がよく理解できた。とりわけ、省令への委任が301箇条というのをどう評価したらいいだろうか。例えば、法律に目的規定がないのに、省令で目的規定を置くなどということは、従来の立法作法からすれば考えられない。意見書は、「淡々と規定すれば足りる」と、実に抑制した批判の仕方をしているが、ことがらの性質上、問題は深刻である。枝省令で、法律の定めるべき内容に手をつけるなど、「法の世界の下克上」のようなことが行われている。学説上いろいろと対立がある点について、省令で決着をつけるようなこともやっている。新会社法を作ったのは、実際には国会議員ではない。「面白半分で」始めて、「調子こいて」具体的な改正作業にも関わった無邪気なエリートたちである。「飽きっぽさ」が基本だから、「あとは野となれ、山となれ」ということだろうか。国会で可決・成立した法律である以上、作成過程に関わった官僚に責任がおよぶことはない。だが、立法というものや、商法学の学問的蓄積に対しては、あまりに「傲慢無知と厚顔無知」に陥っているのではないか。

  上村氏は、「新会社法による数々の概念破壊は、官僚が鉛筆なめなめ由緒ある町の名を勝手に変えた、かつての町名変更に匹敵する蛮行のように思えてならない。近い将来、これを再び構成し、国民に分かりやすいいくつかの会社の『型』を再構築する過程が必要になってくるのだろう。そうした過程が短時間であれば、新会社法は経験不足を補う学習効果のある反面教師であったという皮肉なことになるかもしれない」と結んでいる。
  だが、これは実は大変恐ろしいことである。それまでに、この奇怪な法律を抜本的に改正して、まともな「新・新会社法」をつくることができるだろうか。ライブドアだの、村上ファンドだの、怪しげなベンチャー企業の跳梁など、不慣れなM&Aが無節操に繰り返されて、この国の経済社会はどうなっていくのだろうか。
  小泉政権5年間で、十分な議論もなしに、とりわけ関連する専門家の意見や学説なども無視して、制度の大規模な改変が進んだ。郵政民営化はその典型である。90年代後半からの「構造改革」(米国流Constitutionの押し付け)。のなかで、あらゆる分野の規制緩和が進んだ結果、いまこの国はどうなっているだろうか。
 
  「飽きっぽさ」を活かして、新しい分野をどんどん開拓していく能力がプラスに出れば、よい。だが、「自民党をぶっ壊す」といって総裁になった人物のもとで、この5年間、優秀なるキャリアは何をやったのか、と自分に問う時がくるのだろうか。小泉政権によって、たくさんの制度や仕組みなどが全半壊させられてきたが、日本の会社の仕組みを大規模に変えていく柱として、新会社法があったように思う。
  一体、この法案に賛成した国会議員のうち、これをきちんと読んで、理解した人は何人いたのだろうか。かの郵政民営化法案もかなり分厚いものだったそうだが、これを隅々まで読んで勉強した城内実氏は、総裁派閥に所属しながら、最後まで郵政民営化法案に反対を貫いた。その結果、選挙区(静岡7区)に片山さつき氏を「刺客」として立てられ、落選した。彼の敗戦の弁はふるっていた。「法案をよく勉強したので反対せざるを得なかった。勉強しなければ、いまも代議士をやっていたでしょう」。城内氏は、国会議員として誠実であったが故に、国会を追われたのである。

  さて、キャリア制度を見てくると、成績・試験優秀者が上位を占める仕組みである。その試験の多くは、記憶力を測定する程度のもので、人間としての総合判断力をチェックするものではない。かつて、内務官僚養成にあたった人物は、こう語っている。「『秀才』が国家行政の要職を占めていては、日本の行政は弱体化する。今後は、地方や民間からも、『埋もれたる真個の人材』を登用すべし」と。
  だが、竹内啓『無邪気で危険なエリートたち――技術合理性と国家』(岩波書店)によれば、優秀なる技術エリートたちが、自分らの力と論理の正しさを過信しつつ、抵抗にぶつかってフラストレーション(欲求不満)に陥るとき、そこに吹き出してくるのは大衆蔑視の考えである。この本は、無目的な「合理性」に侵された精神的空疎が、非合理な「思想性」を求めることがあり、その内的な連関と、その危険性を鋭く指摘している。技術エリートたちの怖さは、彼らが無邪気であることだ。

  同じようなことは、自民党総裁選にもいえる。この国の有権者総数のほんのわずかで、「総理・総裁」が選出される。なんとも不可思議な仕組みである。そこで、「世襲政治家3代目」が首相に就任しようとしている。小泉首相以上に、いま「総理・総裁」の最有力とされている人物には注意が必要である。靖国もワーグナーも趣味の世界だった小泉首相。彼は「国家趣味者」である。その後継者とみなされている人物は、本格的な「国家主義者」である。無邪気ゆえに危ういエリートたち。そのタイプの頂点に立ち、最高権力を握るのが、無邪気ゆえに危ないサラブレッドである。

[付記]
なお、2005年会社法について専門的な見地からの批判として、意見書を出した17人の早大商法関係者の一人、正井章筰氏の書かれたものを、お許しを得てリンクさせていただいた。参照されたい。

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