10年一昔(ひとむかし)、5年半昔(はんむかし)と言われる。でも、「5年一昔」と言えるほどに、「9.11」の後から、世界も日本もさまざまに変わったことは確かだろう。「9.11」で検索をかけてみると、英語で750万件、日本語で160万件ヒットした。国、団体、個人のページに至るまで、無数の関連サイトがある。問題の広がりと大きさを感じた。
米独韓の雑誌や新聞特集を見ていたら、「世界を震撼させた日」「世界を変えた日」というタイトルが目立った。「あれから5年」(Fünf Jahre danach)という視点で、さまざまな角度から 「9.11」を総括している。面白そうな論稿をプリントアウトしていたら、かなりの分量になってしまった。まる一日、ずっと読みふけっていた。というわけで、引用の多い、長文の、読みづらい文章になってしまったが、ご容赦願いたいと思う。
個人的は話から始めよう。5年前、長崎でのゼミ合宿を終えて、「その日」の前々日から大阪に滞在していた。事件が起こると、毎日放送のラジオの生番組(「イブニングレーダー」9月13日17時40分)に急きょ出演依頼された。「テロ」の背景や、日本はいかに対応したらいいかという質問に答え、そのなかで日本は「ブッシュの戦争に参加するな」と訴えた。局には、「テロリストの側に立つのか」といった非難の電話があったという。「あれから6日」の時点で、「最悪の行為に最悪の対応」という「直言」を出した。ブッシュの乱暴な「対テロ戦争」への追随が始まった「あれから10日」の時点では、「『ブッシュの戦争』に参加してはならない」という論稿を発表した。「ブッシュの戦争」という言葉を使った最初、または、かなり初期の例になるのではないかと思う。
実はこの論稿には思い出がある。ピッツバーク市郊外に墜落(撃墜?)したUA93便には、ボストン稲門会(早大OBの会)に参加する5人の仲間と別れて、単身サンフランシスコに向かった早大理工学部物質開発工学科2年の久下季哉君が乗っていたのだ。好奇心あふれる前途ある学生の命を奪ったものへの怒りとともに、それを利用する政治力学が動きだしていたことに対して、憤懣やるかたない思いで一気に書き上げたのを覚えている。「あれから2カ月」の時点では、NHKラジオ(11月11日放送)で語り、「あれから1年」を前に「『法による平和』の危機」を訴えた。「あれから2年」では、「世界貿易センター爆破事件から10年」という別の切り口で書いてみた。
「あれから4年」にあたる昨年は、この国の憲法政治の仕組み(とりわけ参議院のありよう)を大きく傷つけ、自民党を全半壊させた「9.11総選挙」について書いた。「あれから1年」。この国の政治も社会も経済もアジア関係も大きく変わったが、これについては別の機会に述べよう。
さて、「あれから5年」(Fünf Jahre danach)。何が、どのように変わったのだろうか。ドイツの有力紙である『フランクフルター・ルントシャウ』紙が「あれから5年」という見出しで報じた記事では、映画「ワールド・トレード・センター」(本年10月上旬公開)のオリバー・ストーン監督へのインタビューが面白かった(FR.vom 10.9.2006)。「米国は、いや全世界が『陰鬱に』なってしまった」。その責任の大部分をブッシュ大統領の政府が負っていることは疑いない。「ブッシュは、歴史上、間違った時代の間違った男だ」。オリバー・ストーン監督は、政府がこの事件を侵略的な世界政策のために濫用したことを批判しつつ、イラク戦争前には、最終的に、政府上層部に陰謀が存在したと断言。戦争を遂行した20人あまりを追及する。監督の総括はこうである。「9.11とその結果を、歴史的脈絡のなかに置いてみなければならない。そうすれば、アメリカはこの攻撃のあと、正気を失っていたことを確認するだろう」と。
「米国同時テロ」では世界貿易センタービルやハイジャック機乗客、国防総省関係者、救出にあたった消防隊員らを含めて2973人が死亡したとされる(06年9月現在)。どの命もかけがえのないものである。だが、「あれから」ブッシュ政権が始めた「アフガン戦争」や「イラク戦争」で、どれだけの犠牲者が出たか。
何が変わったかと言えば、「あれから」人々の「戦争」についての感覚が鈍感になってしまったのではないかということだ。まず、「戦争」という言葉の使い方がきわめて乱暴になったことである。ブッシュ大統領の口から放出される言葉は、即座に全世界を駆けめぐる。特に「十字軍」と「限りなき正義」は最悪だった。最近の「イスラム・ファシズム(ファシスト)」もそうだ。しかし、何よりも「対テロ戦争」(War on Terror; Krieg gegen den Terror[Terrorismus])という言葉が、世界平和に与えた負の影響の大きさと持続力という点で、最も悪質だろう。メディアもこの言葉を無批判に使い、人々の心の深部に刷り込まれていったからである。
ブッシュ大統領は、「9.11」直後、「これは戦争だ」(厳密に言うとThe Art of War)と叫んだ。そもそも非国家的主体(「テロリスト」)による攻撃に対して、それがどんなに規模が大きくても、これを「戦争」と呼び、軍隊を他国への攻撃に投入したのは重大な誤りだった。あの時、国際刑事警察機構などとともに、全世界の警察組織が連携して、容疑者を追及すれば、少なくとも「テロとのたたかい」はアラブ世界にも支持を広げられたに違いない。ブッシュのやったことは、「世紀的な誤り」と言ってもいいだろう。
メディアでもさかんに、「非対称的戦争」ということが言われたが、戦争が、「国家意思を他国に強制するために国家間で行われる正規軍を使った武力の応酬」と定義すれば、「対テロ戦争」という概念は成り立たない。「戦争」概念の内包をゆるめ、外延を広げていくことで、いつの間に、「テロそのもの、テロリスト(単複)、テロリズムに対する戦争」、略して「テロとの戦争」という概念がひねり出されたのである。
1945年の国連憲章によって、武力行使や武力による威嚇に対する厳しい規制の枠組が作られたのであるが、それは、自衛権観念の恣意的な拡張や、「事態の累積理論」などを通じて徐々に崩されていった。「対テロ戦争」により、軍事力行使への「規制緩和」がはかられたわけである。
ブッシュの「対テロ戦争」は失敗だったと、あるドイツ紙の国際記者は書き、この「戦争」は、結果的に、中国の興隆と米国の衰退を加速しただけと結論づけている(以下、Vgl. A. Zumach, Kooperation statt Krieg, in: die taz vom 9.9)、と。すなわち、「対テロ戦争」は、2001年9月12日、国連安保理の1263号決議によって始まった。この安保理決議は、1945年の国連発足以来の国連憲章解釈が根本的なところで変更された。初めて、非国家的集団の犯罪行為が、安保理によって「平和と国際の安全の脅威」と宣言された。同時に、安保理は、米国の「自衛権」を憲章51条に基づいて根拠づけてしまった。自衛権は、もっぱら他国による武力攻撃に対するもののはずであった。この決議は、今日まで、「対テロ戦争」の国際法上の基礎として役立っている。さらに、国連憲章と根拠づけられる国際法と同様に、19世紀末以来発展してきた国際人道法の規定(ハーグ陸戦法規、及び、ジュネーヴ条約等)、並びに、1945年以降の国際人権法の規範が「対テロ戦争」の脈絡で弱められ、あるいは事実上(de facto)完全に失効させられた。その責任は米国にあるとともに、EU諸国やロシアにも重大な共同責任がある、というわけである。
他方、この国際記者は、21世紀初頭以来、世界の舞台における中国の新しい役割に注目する。詳しい紹介は略すが、世界貿易機関(WTO)での役割の増大をはじめ、「あれから5年」、いまや化石となった民主集中制(とてつもない形容矛盾!)を含むマルクス・レーニン主義をなお維持する中国共産党の一党独裁体制のもとにありつつも、中国の国際的影響力は確実に拡大している。特に2004年以降の国連安保理における中国の積極的動きは際立っている。石油や天然ガスをめぐる分配闘争のなかで、米国のみならず、欧州諸国も軍事力に依存するようになってきたことも問題だ。「対テロ戦争」によって、「あれから5年」における無秩序〔ブッシュ父の1991年「新世界秩序」に比べれは、まさに「新世界無秩序」〕はなお一層拡大された。今後、世界政治の中期的発展にとって本質的に重要なのは、ブッシュ政権が残された任期の26カ月間に対イラン戦争を行うか否かにある、と。
この5年間、「対テロ戦争」という曖昧な概念のおかげで、軍事支出は増大し、冷戦終結でお払い箱になりかかった2隻のトライデント型ミサイル原潜までが、「対テロ戦争」用に模様替えした。リストラされかかった原潜部隊は生き残り、軍需産業も潤った。軍人と軍需産業にとって、「対テロ戦争」は「うちでの小槌」というところだろう。
「あれから1年」の2002年9月に出された「ブッシュ・ドクトリン」(国家安全保障戦略)は、ドイツのある新聞に「防衛としての攻撃」(Angriff als Verteidigung)という逆説的な見出しが付けられたように、「疑わしきは叩く」を原則とする先制攻撃戦略だった(Der Tagespiegel vom 6.9.2002)。その後、「イラク戦争」に行き詰まったブッシュ政権は、2005年、この戦略に微調整をほどこしたものの、「先制攻撃」の基本方針は維持した。ブッシュ政権はいま、全世界の米軍の組織、編成、装備などをそれに適応したコンパクトで柔軟かつ機動力あるものに転換するため、小泉首相の破格の協力で、日本の納税者の税金をふんだんに使いながら、米軍再編を進めようとしている。
なお、先月末(8月31日)にブッシュは、「対テロ戦争」を「21世紀のイデオロギーの戦いだ」として、「テロリストはファシスト、ナチ、共産主義者や全体主義者の後継者だ」と述べたという(『朝日新聞』9月1日付夕刊)。「ナチ」という言葉を使うことが、どれだけ問題をこじれさせるか。「味方にできなくても敵にしない」どころか、「味方にできるものまで敵にする」無策に加えて、「敵の敵まですべて敵にする」八方破れの愚策である。そこに外交はない。これと関連して、ノーム・チョムスキーと対談集を出したジルベール・アシュカールは、ブッシュ大統領の「カウボーイ外交」(Cowboy-Diplomatie)に加えて、ライス国務長官の外交を「カウガール外交」(Cowgirl-Diplomatie)と揶揄しているが、言いえて妙であろう(die taz vom 9.8.06)。
ジャン・ボードリヤールは、「9.11」後に、米国が行ったアフガニスタン攻撃を、「政治の不在の、他の手段による継続としての戦争」と呼ぶ(塚原史訳『パワー・インフェルノ』NTT出版)。これは、「戦争とは、別の手段による政治の継続である」というクラウゼヴィッツ『戦争論』の定義を逆転させたものである。「対テロ戦争」もイラク戦争も、すべて外交や国際政治の不在がもたらしたものということになろう。しかし、あえて言えば、軍事力(費)の突出のため、外交や政治の意識的な放棄がなされたと言えなくもない。これは、「あれから5年」で変わったというよりも、むしろ、ずっと以前から行われてきたことである。「9.11」は、軍と軍需産業と関連産業にとって、最も露骨な「有効需要」の創出・拡大というところだろうか。「対テロ戦争」に味をしめて、わずか1年半で「イラク戦争」を起こすことができたのも、「あれから」以降の「戦争の規制緩和」のおかげだろう。それはまず「言葉」の濫用から始まり、メディアがそれを広め、人々の批判力を弱めていき、最終的に法の枠組みを崩していくことで実現していったことを忘れてはならないだろう。
実は「9.11」の前に、米軍は冷戦終結対応型に転換を始めていたことも指摘しておかねばならない。それをある安全保障専門家は、米軍が、冷戦後の脅威に対して、一方で核兵器から通常兵器への重点移行で、他方において、「即応グローバル攻撃」“ Prompt Global Strikes ”という二重の仕方で対応しようとしていると見る。後者は、短期間(数分から数時間の範囲で)に地球のいかなる目標(大量破壊兵器の生産施設、ミサイル基地、司令部、テロリストの司令施設ないし訓練施設)をも破壊しうる能力である。この戦略は、冷戦時代の抑止論が、核兵器の破壊による多大の損害の威嚇からくる抑止効果を念頭においたものであったのに対して、この論理の修正を意味する。核報復の選択肢は残しつつも、通常兵器の助けによる攻勢的「挫折」の要素によって補完していくわけである(K. -H. Kamp, Gefährlcher Waffenmix, in: FR vom 22.8.2006)。
さて、次に、「あれから5年」で変わったものは何か。世界各国で、市民的自由を制限する法律がたいした抵抗もなく通過するようになり、「安全」のために市民が「自由」を投げ出す悲しむべき現実が日常化したことだろう。この点で、「まったくノーマルな非常事態」という論文は面白い(A. v. Lucke, Der ganz normale Ausnahmezustand : Bürger oder Feind?, in: Freitag vom 8.9)。「あれから5年」の間に、「〔生存〕配慮国家・福祉国家から緊急国家・安全国家への転換」が起きた。「9.11」により、国際政治でも国内政治でも「友敵思考のルネッサンス」が訪れ、まさにカール・シュミットの出番とされた。ドイツ基本法(憲法)の大前提だった「人間の尊厳」についても、「対テロ戦争」でその「例外」を認める余地が生まれた。刑法理論の世界でも「敵対刑法」理論が勢いを見せ、憲法学では、「拷問」を例外的に認める議論まで出てきた。このあたりの問題については、すでに書いたことがあるので省略するが、こうした流れのなかで確認できることは、「不安」が主要なモティーフになっていることだろう。
一口に「不安」といっても、「不安もいろいろ」である。米国の作家T. C. ボイルは、「9.11」への米国の対応や世界から米国に向けられる憎悪などについて語るなかで、「アメリカ社会が、不安だけで動いている」と述べ、こう指摘する。「近東における無政府状態や混沌への不安。新たなテロ攻撃への不安。この不安がさらなる外国人憎悪と人種主義へと導く。そして、その不安が政治により徹底して利用されている」(die taz vom 9.9.06)と。さらに進んで、「不安の制度化」が生まれるとどうなるか。
ナチス分析の名著『ビヒモス』で有名なフランツ・ノイマンは、「不安の制度化」という視点を打ち出した(内山秀夫他訳『民主主義と権威主義国家』河手書房新社)。不安を制度化するための三つの方法とは、ノイマンによれば、①テロ、②宣伝、そして③指導者に追従する人々にとっては、一緒になって犯罪をおかすこと、である。ここでの①「テロ」には、「受け身のテロ」も含まれると考えれば、それを②メディア(宣伝)で増幅して、③他国の領土を「空爆」する違法行為を「みんな」でやれば、何のやましさもない。「一緒になって犯罪をおかすこと」という三つ目は意味が深い。
小さいところでは、「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」が挙げられよう。ビートたけしが26年前に出版した『ツービートのわッ毒ガスだ』(KKベストセラーズ、 1980 年)にあるインパクトある言葉である。違法行為だって、犯罪行為だって、「みんな」の多数派に依拠しておれば罪の意識は少なく、ハードルも低くなるという心象風景である。他方、とてつもなく大きなところでは、ヒトラーとスターリンがともに愛用した「強制収容所」(KZ、ラーゲリ)という装置がある。強制収容所で淡々と任務を果たした人々の心象風景もまた、「みんな」で悪いことをやっているうちに、悪いことだとは本気で思わなくなっている。その「日常性」は何とも恐ろしい。
「あれから5年」。「同時テロ」の原因論のところでも、多彩な議論が出ている。「陰謀説」もあとをたたないが、何よりもブッシュ政権の主張にそのまま賛成するのではなく、米国も冷静さを少しずつ取り戻しつつあるようである。
一昨日の新聞報道によれば、米国の上院の情報特別委員会は9月8日に報告書を発表。イラクのフセイン政権について、大量破壊兵器を持っていなかっただけでなく、国際テロ組織アルカイダとの関係についても証拠は見いだせなかったと断定した。ドイツの保守系紙は、「サダム・フセインに無罪判決」 (Die Welt vom 10.9) という見出しを打ち、フセイン元大統領が、「トップテロリスト」とされたザルカウイ容疑者(米軍によって殺害)の身柄拘束を望んでいたと書いている。米軍のイラク侵攻の根拠がすべて崩壊したわけで (民主主義については後述③)、イラクに自衛隊を派遣した小泉内閣の政治責任は重い。
さて、「あれから5年」でいろいろと書いてきたが、「テロとの戦争」ではなく、いかに武力を伴わず「テロとたたかうか」という重要な問題が残されている。ドイツの高級週刊紙“Die Zeit”最新号は、「あれから5年」を総括しつつ、「我々は自由をどのように守るべきか」ということを5つの軸に従って展開している。「何がテロに対して助けになるか」。①「テロに対しては助けになるのは軍か警察か?」、②「我々は自由を制限すべきか、守るべきか?」、③「我々は民主主義を強制すべきか、それとも民主主義者を支援すべきか?」、④「我々はイスラム教徒を無差別に追及すべきか、それとも彼らと対話すべきか?」、⑤「我々は石油資源を保護すべきか、それとも石油資源から自立すべきか?」、である。非常に重要なテーマであり、この間、私もこの5点については、いずれも後者の立場に徹して書いてきた。次週は、この論稿を詳しく紹介しながら、「あれから5年」を私なりに総括してみたい。(この項続く)