雑談(54)学生たちへの言葉(その2・完)  2006年10月9日

忙期につき、先週と同様、学生が作った論集に寄せた「巻頭言」を掲載する。

  安倍内閣が成立し、国会での答弁などを通じてその本質と問題性が見えてきた。北朝鮮の核実験問題はこの直言がUPされる頃には、展開がみられるかもしれない。「瀬戸際外交」ならぬ「瀬戸際金策」と私が呼ぶ北朝鮮の愚かな「つっぱり」に軍事的リアクションはさらに愚かである。安倍内閣のもと、集団的自衛権「行使」から憲法9条改正に向かう勢いが強まるだろう。もし核実験を行えば、それは「ヒロシマ・ナガサキ」に最も近い場所での核実験となる。しかも、北朝鮮で最も貧しい、餓死者が大量に出ている差別された地域での核実験。地下水などが汚染され、住民の生命・健康の問題、さらには周辺地域への汚染の問題もある。市民の観点からも、この実験は非難されるべきであるが、かといってブッシュ政権や安倍内閣の軍拡政策に「悪乗り」すべきではない。こういう重要な局面であるが、詳しく論ずるのは少し時間をいただきたい。

  というわけで、直言では今週は大学院生が作った論集に載せたものを掲載する。 今週は大学院生が作った論集に載せたものを掲載する。最初のものは、在外研究中にボンで書いたもので、後者は、帰国した年に作った論集の巻頭言である。いずれも5年以上も前のものである。その時の出来事や雰囲気をそのまま反映しており、いまの時点で修正することはしなかった。また、先週の学部生向けのものとは異なり、院生向けのやや硬い文章であることをお許しいただきたい。前回と同様、関連する直言のリンクを張った。初めての読者の方は、この機会にご覧いただければ幸いである。

 

転換期に研究者は

水島 朝穂(在ボン)

  いま、ボンの書斎でこの原稿を書いている。ついちょっと前に、ミレニアムというお祭騒ぎを世界中がした。これとて、アフリカの奥地でキリスト教とは無縁、西暦も使わずに生活しているという人々にとっては、実に奇妙なことだったろう。日本でも、国旗・国歌・元号を国民に押しつけた「思いっきりナショナル」な人々のなかで、元号だけしか使わないという人が何人いるか。こういう人々は、ミレニアムを一緒に騒いでも矛盾を感じないのだろうか。

  とはいえ、人間は何事も「変わり目」にわくわくするものである。何かが変わる。これは「そのまんま」の状態でいるよりは、確かに面白いし、興奮することも多い。とくにマスコミ人は「事件」には本能的に体が動く。だから、変わり目、転換期は、人々の腰は浮いた状態になりがちになる。しばらくして落ちつきを取り戻したときは、騒ぎを起こした側は首尾よく目的を達成していたということが結構多い。湾岸戦争しかり、コソボ戦争しかり、である

  コソボ戦争のときに、アルバニア系住民の惨殺死体を前に涙を浮かべて激情的に空爆を正当化したシャーピング国防相 (SPD) 。彼は、あの写真がいつ、どこで撮られたものかを隠していた。それでも、映像のインパクトは強烈で、視聴者の心情を「空爆やむなし」に傾かせるには十分だったその写真のトリックが明らかになったのは、かなりあとのことだった


  何ごとも、「現在進行形」になってしまったとき、その流れに逆らうのには結構エネルギーを使う。感情に流され、人々が総立ちになったとき、「ちょっと待って、もう少し考えよう」と訴えることがどんなに大変か。

  研究者というのは、どんな時にでも、冷静さと理性をもって物事と向き合い、「お祭騒ぎ」を一緒にしない「腰の座った構え」が求められる。とくに憲法研究者は、市民の多数が人権侵害的な議論に乗ってしまったときも、これと学問的に向き合い、冷静な議論を展開するのが仕事となる。オウム事件などは、憲法のみならず、法律学を専攻する者のありようが鋭く問われた。こういう時、「世論」の波にのって、おかしなコメントを出すような人は、過去にどんな学問的業績があっても、私は信用しない。


  いま、日本は憲法改正の動きが急である。「あなたの○○はもう古いタイプ。今なら3割引き。さあ買い換えのチャンスです。下取り価格も今ならお得」。こういう甘い宣伝文句に誘われて、不必要なものをどれだけ買ってきたことか。しかし、これを憲法について言うことは、さすがに出来ないと思いきや、私が日本にいない間に、どうもそうではなくなったようだ。この国は、国会に憲法調査会を設置して、本腰を入れて憲法の「買い換え」をやろうとしている。


  「古いものは新しく…」。中身抜きのムード的改憲論ほど危ないものはない。私はいまの状況では、 この鳩山由紀夫氏の議論は危ないと思っている。こうした物言いが、存外、若者や30代前後の人々に改憲ムードを加速するおそれがあるからだ。

  どんなテーマを研究していても、これからは憲法研究者として、憲法改正問題と学問的に向き合わざるを得ないだろう。

  憲法学が対象とする問題も、学説・判例を少し調べればそこそこの答えが得られるという時代ではなくなった。とくに外国人、情報、メディア、生命、家族、マイノリティ、地方自治、平和などの分野では、日々新しい問題が生まれている。そういう時に、憲法学という学問に挑戦しようという諸君には、広い視野と鋭い問題意識が求められている。

(2000年2月10日稿)

 

アーレントとガンジー

水島 朝穂

  ドイツ連邦議会副議長も務めたA・フォルマー女史。学者出身で、「緑の党」幹部でもある彼女の書いた『熱い平和――暴力、マハト、そして文明の秘密に関して』 (A. Vollmer, Heisser Frieden : über Gewalt, Macht und das Geheimnis der Zivilisation, 1995) を読んだ。そこでフォルマーがこだわったのは、どのようにして暴力の連鎖を断ち切るかということである。暴力には暴力をもって、これは最悪の選択である。では、どうするか。フォルマーはいう。

  「内戦 (Bürgerkrieg) は兄弟戦 (Brüderkrieg) がある。兄弟戦は目には目を、歯には歯をという血讐の法則に従ってなされる」「すべての内戦は、没落した旧ソ連でも、旧ユーゴでも、アフガンでも、アルジェリア、シェラ・レオネでも、どこでも、民間人の包括的な自己武装で始まった。それゆえ、自分を守るためには武装がいいと思っている人々に対して、何と言うべきだろうか。この問題への啓蒙の回答は、理性(ヘーゲル)であり、社会契約(ルソー)あるいは定言命法(カント)であり、人類の教育(レッシュング)である」。そもそも、人々の自己武装を禁止し、暴力の独占が行われたことは、それ自体は一つの進歩と言える。


   平和と国家の暴力独占を確立するための最も確実な保証は、フォルマーによれば、まず第1に、長くかつ凄まじい戦争体験である。膨大な犠牲の上に、国家のみが主権をもち、国家のみが戦争の主体となりうるという原則が生まれた。その転換点が、1648年のウェストファリア講和条約である

  暴力独占に到達しうる第2の条件は、国家権力によって望まれる社会態度に一定の受容を与える社会的規範化のシステムである。第3の条件は、中央権力への集中が現実に遂行されるという事実である。そして、第4の条件は、後期絶対主義において初めて達成されたこと、すなわち、法制度と司法制度である。「法による平和」の萌芽はこうして生まれ、長期にわたる「戦争の惨禍」の繰り返しを経由して、ようやく戦争・武力行使の違法化が規範レベルで定着したのである。


  だが、現実は厳しい。冷戦後、再び、民間人の武装化による悲劇が続出している。そうした冷戦後の世界を読み解くため、フォルマーは二人の思想家を登場させる。その一人が、ハンナ・アーレントである。

  アーレントはマハト (Macht) と暴力 (Gewalt) とを区別する。すなわち、マハトは新たな正当化を必要とせず、それは人間が共同で行為するときに常に生ずる。マハトの要求は過去を引き合いに出して正当化されるが、手段の正当化は未来に存する目的によって生ずる。他方、暴力は正当ではあり得ない。マハトは、それを通じて形成される社会のプロセスの前にも外にも存在せず、そうしたプロセスそのものであって、すべての成員の原則的同意を通じての共通なるものの構成にほかならない (Vgl. H. Arendt, Macht und Gewalt, 8.Aulf., 1993) 。

  アーレントはまた、potestasviolentiaという二つの概念を区別する。正当でかつ法律的に担保された国家権力の権威は、ポジティヴな意味で、potestasである。つまりはこれはマハトである。次に、ネガティヴな意味で、violentiaとしての暴力がある。人間に対する物理的・心理的強制として、他人を侵害する意志と行為である。

  威厳や気高さ、何よりも確固たる姿勢などによって隙を与えない。あえて言えば、「気」のパワーが「マハト」であるとも言える。世界平和のためのマハトとは何か。非暴力介入の場合、とくにこのマハトの問題に関心は向かう。


  この点でフォルマーが注目するもう一人の人物がマハトマ・ガンジーである。フォルマーは、とりわけガンジーの唱える「非暴力の力(マハト)」に注目する。ガンジーによれば、平和主義は、人間が平和的かつ非暴力に生きるということである。平和主義の方法によって、ガンジーは、自ら暴力を適用することなしに、暴力を克服する道を再発見したと信じている。非暴力は彼にとって、全宗教の最も内的な心理である。非暴力は、彼にとって、力の問題を成功裏に設定しうる、社会内的対立における方法である。それは、実践のなかで基礎づけられた、非正当なマハトを終わらせ、正当なマハトを新たに打ち立てるための希望である、と。


  ガンジーによれば、最も単純な基本準則は、暴力を用いようとしない者は、それを使う用意のある相手方よりも3倍賢くなければならない、ということである。「賢く」とはこの場合、相手を正確に知らねばならない。軍事戦略を知るだけでなく、相手がよってたつ基盤や雰囲気、相手が従うルール、モラル、名誉、怒り、トラウマなどさまざまなことを知らねばならない、ということである。

  第2の準則は、回避された戦場はすべて勝利であり、どんな迂回路も明確な対立よりもよいし、いかなる妥協も、あれか、これか決断よりも真理に近づく、ということである。 暴力を用いない者は、暴力以外のあらゆる手段を徹底的に開発・発見しなければならない。また、相手や周囲の状況について、誰よりも情報を持っていなくてはならない。そして、妥協や迂回路の開拓の能力に秀でていなくてはならない。これはイギリスの戦略思想家リデル・ハートの「間接アプローチ」にも通ずる思考である。

  日本国憲法第9条の思想は、ガンジーのいう二つの準則を含んでいる。この憲法の無軍備平和主義は無抵抗・非力では断じてない。軍隊がなくても、すぐれた外交能力や交渉力、周到で、きめ細かい情報収集能力を発揮して、市民の安全を確保する。そして、万万万が一の事態に直面しても、軍事力以外の方法で(したがって、「自衛隊活用」などあり得ぬ選択肢)、侵攻してきた者に対し毅然たる態度をとること。そういうことを可能にする市民的アンガージュマン(非暴力抵抗、市民的不服従)である。総じて、気迫に満ちた「マハト」の研磨こそ求められているのである。

(2001年2月23日稿)

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