元旦の直言タイトルは「憲法公布60年の年頭に」だった。早いもので「その日」が来てしまった。日本国憲法公布60周年の前日には札幌で、当日は金沢で講演した。札幌弁護士会は、11月2日から始め、来年5月2日に終わる連続市民講座「憲法を考える180日」〔PDF〕を企画した。私が初日を担当した。一方、金沢では「憲法公布60年石川県民集会」ということで、「当日」に講演した。その様子を、『朝日新聞』石川県版11月4日付はトップで伝えた。
なお、札幌-小松直行便は日に一本しかなく、時間帯が遅くて使えない。連休中で、同一航空会社の乗り継ぎ便が満席というなか、札幌-羽田、羽田-小松の他社乗り継ぎという「荒技」をやった。羽田空港の第2から第1へのターミナル間移動と手荷物検査を再度やって、汗びっしょりになった。2003年5月の憲法記念日に和歌山・札幌の連続講演をやったのに続く、二度目の遠距離連続講演だった。両方とも無事に終わることができてホッとしている。関係者の皆さまにお礼申し上げたい。
さて、講演旅行の楽しみは、何といっても、「人」や「場所」との出会いだろう。「モノ」との出会いもある。それが地元古書店での歴史史料や「歴史グッズ」だったり、美味しい地元料理だったり、地方銘菓だったりする。今回の札幌では、早大を受験したいという高校生から、久田氏の最初の教え子という方(70代半ば)に至るまで、私にとって貴重な出会いと再会がたくさんあった。弁護士会が開いてくれた懇親会では、美味しい「北の幸」を満喫させていただいた。札幌で働いている水島ゼミ出身者二人も加わり、楽しい時間を過ごした。一方、金沢では、帰りの便までの間、快晴のもと、20年ぶりに兼六園を散策した。久田栄正氏ゆかりの旧制四高関係のスポットと展示(石川近代文学館内)も見学した。2泊の旅だったが、私の五感と二つの「るるぶ」(「見る、食べる、遊ぶ」+「知る、調べる、学ぶ」)をフル稼働させて、充実した時間を過ごすことができた。
ところで、旅の移動中、機内誌や新幹線の座席ポケットにある車内誌をチェックすることは、私にとって、座席について最初にやる「仕事」である。いつもはパラパラめくっておしまいだが、この8月、講演のため新幹線を利用したとき、車内誌の二本の記事を真剣に読んでしまった。そのとき残したメモに基づいて、「雑談」風に書いていこう。
新幹線の車内で熟読したのは、『ひととき』(JR東海)2006年8月号の「人に夢あり」シリーズ連載25回、「『命』の輝きを写す」という素敵なタイトルで、フォトジャーナリストの大石芳野さんについて書いたものだった(文・吉永みち子)。大石さんとは面識があるので、手にとってめくった最初のページに彼女の近影を見つけたので、読もうと思っていた本を横に置いて、じっくり読んでしまった。吉永さんの文章のおかげもあって、なかなか読みごたえがあった。
特に印象深かったのは、戦場や虐殺の「現場」をめぐるなかで、写真を撮ることを拒否されるとき、あるいは、拒否されなくてもシャッターを押せないときがあるという下りである。
「『その判断は現場で一瞬でします。現場は生き物ですから。考えているようにはならないし、後でなぜそうだったんだと考えても整理できないものもありますよね』―揺れ動きながら、人が人の心に寄り添い、人間の弱さと強さを写しだす。…戦場の衝撃的な写真は、カウンターパンチのように見る人を打ちのめすが、大石の写真はボディーブローのように深くじわじわと心に泌みこんでいく。戦禍や事故や災害は、ひとりひとりの人生に何をもたらしたのかという視点から眺めた時に、その本当の恐ろしさや愚かしさがわかるのかもしれない。2000年から大学で教鞭を執り、身体が続く限り現場に出て行きたいと語る。今、撮りたいところは?―間髪を容れずに『イラクです』という答えが返ってきた…」。
写真家はたくさんいる。ジャーナリストも多い。だが「フォトジャーナリスト」となると、私の頭のなかにインプットされた人数はさほど多くはない。「心で撮る」。大石さんの仕事がなぜ人に感動を与えるのか、よくわかった気がした。車内誌のおかげである。
私が注目したもう一つの記事は、『WEDGE(ウェッジ)』2006年9月号に掲載されたものである。この雑誌は毎号の巻頭論文で、「日米同盟」派の論客たちによる威勢のいい議論を展開される。今回も「北朝鮮の脅威を直視し日本自身の行動で国益を守れ」という防衛庁OBの一文である。あまり期待しないでパラパラやっていると、終わりの方の文章に目がとまった。「日本のたくらみ」連載22回。「戦力放棄の決断」とある。
筆者は、万葉集研究で著名な国文学者で、京都市 立芸術大学学長の中西進氏。連載もので、タイトルは「戦力放棄の決断」である。リード文にこうある。「原子爆弾が投下されたのち、ようやく終結した太平洋戦争。モノのすべてを奪い、つながりをなくし、命を焼き尽くした焦土の中、日本が国際社会に復帰するため準備された新しい憲法では、大戦後の世界で他に先駆けて戦力放棄がうたわれた。この条項は、勝った側も負けた側もがたどり着いた結論だった。ヒトの一番愚かな行為は何か、身をもって知った日本人が世界に発信したこの精神を、どうして今、絶やすことができようか」。
リード文にひかれて、『ウェッジ』誌を初めて真剣に読むことになった。中西氏はいう。「戦後の、いわゆる新憲法は、46年4月17日に公表された。敗戦直後である。とくに戦力の放棄を説く第九条第二項が、どのような状況の中で誕生したかを忘れては、正しい判断などありえない。今はすでに60年が経った。この近代未曾有の平和の中で考える理詰めの憲法論が、正しく当時の生なましい憲法の肉体を、捉えることができるか否か。私には疑問がある。…」
中西氏は、9条の誕生の過程を、「不戦への熱くて思慮深い胸中」という小見出しのもとに、幣原とマッカーサーのいずれが憲法9条の発案者かという周知の議論を紹介する。この二人の会見は、賀茂真淵と本居宣長の「松阪の一夜」、乃木大将とステッセルの「水師営の会見」に匹敵する緊張感のある名場面である、と中西氏はいう。ただ、会見に立ち会った第三者がいないため、長らくこれはウソであると言われてきた。憲法9条はGHQの押しつけである、と。中西氏は「虚心な読解」を展開するなかで、「幣原の胸に溢れる不戦への熱くて思慮深い思い」と結論づける。
中西氏はいう。「日本という国家は、自衛手段を失った。前代未聞の裸の国家が出現した。その時、幣原は何を思っただろう。幣原は無防備国の将来像を見定めた上で、決断していたらしいと私は思う。幣原の自伝によると、国民の一致協力こそ軍備よりも強力だと述べる。…いやそれだからこそ理想にすぎると批判されるだろうか。しかし貧弱な小国に転落した日本の生き方は、ここにしかなかったのである」と。そして、孟子を引きつつ、「軍備なき国家」の備えとはと問い、「いかに巨大な軍備をしても滅亡を防ぐ程の軍備はできない。だから、滅亡は避けられない。しかし一旦滅亡するかに見えても、国民の一人ひとりが十分に教育を受けていれば、必ず国家は再興する。反対に教育が行き亘っていなければ、ついに再興できない。だから教育こそが最強の軍備なのだと、孟子はいったのだと私は理解している」という。
この文章は、『ウェッジ』の論調とはかなり異なる。同誌には、集団的自衛権の行使が可能なように改憲すべきだという論者が多く登場するからである。同じ「中西」姓でも、核武装を説く大学教授までいるから、中西進氏のように、万葉集の専門家で、憲法9条について、このような見解をもっておられることを知ることができ、大変勉強になった。
専門外とことわりながらも、自らの人生と学問的な蓄積の上に立って、憲法について冷静な思考や発言をする人々は結構おられる。この憲法についてさまざまな批判をもっていても、あるいは改正した方がよいと考えている人でも、いま、なぜそんなに急いで変えるのかという点について、疑問をもつ人は確実にいる。
一般に人は経験を積めば積むほど、慎重になる傾きにある。誰しも自分の力を過信して突っ走った体験は大なり小なりあるだろうから、改憲が可能であっても「少し待ってみる」という慎重さが出てくるのは理解できる。 だが、安倍首相の改憲主張はあまりに軽く、経験に基づく説得力が欠けているように思う。英紙『フィナンシャル・タイムス』のインタビューで、安倍首相は、2期〔6年〕の任期中に改憲をやること、その理由として、①現行憲法が独立前に書かれたこと、②60年が経過し、時代にそぐわない条文〔9条2項のこと〕があること、③「自分たちの手で新しい憲法を書くという精神が新しい時代を切り開く」を挙げたという(『毎日新聞』11月1日付夕刊)。「占領下だから」「60年たったから」というのでは、一国の首相が説く憲法改正の主張としてはちょっとさみしい。中西進氏が孟子を引きつつ語ったことの重要性を感ずる。「自分たちの手で・・・」云々については、「あまりに情緒的な改憲論議」として、すでに2年前に、雑誌『論座』(朝日新聞社)で批判した通りである。
金沢では、「『美しい国』の『美しい憲法』の目指すもの」と題して講演したが、そのなかで、権力者が美学にこだわり、「美しきもの」を過剰に押し出す時代は、ろくなことはないと語った。「清潔さ」がユダヤの「清掃」につながったナチス・ドイツ、「人民の友」を「粛清」した旧ソ連。毛沢東の「整風文献」は、党内粛清の手段だった。日本も、権力者が「美」にこだわり、それを国民・市民に得々と説く時代になったようである。もっとも、『「美しい国」へ』だから、美学を語っているのではなく、札幌在住の中国人の方がいうように、アメリカのことを中国では「美利堅」といい、「美国」と略すので、安倍首相はすべてを「美国(アメリカ)へ」捧げようということなのかもしれない。だから、いま北朝鮮が核実験をやった、また、中国が軍事力を強化しているという事実だけで、すぐに軍備強化(究極の無駄玉である「ミサイル防衛」〔MD〕)に走るのは愚策であり、憲法改正に向かうのは具の骨頂ではないだろうか。
安倍首相は「総裁任期の期間内(6年)に憲法改正をする」と、明確に期限をきった。なぜ憲法改正を自分の「任期」と絡めるのか。小泉首相から引き継いだムード的「人気」は任期後半になるほど失せていく。これは確実である。早いうちにやってしまおう、という気持ちだろう。「人気があっても、任期でやめる」のが憲法の任期条項である(米合衆国憲法修正22条など)。「人気がなくても、任期でやめない」でいいように、憲法を改めて任期をのばそうとする権力者と同様に、安倍首相も改憲と「任期」に妙にこだわる。自分のために憲法を改めて任期を延長したのは、ペルーのフジモリ元大統領、ベラルーシのルカシェンコ大統領、アフリカ・チャドのデビ大統領がいる。ロシアのプーチン大統領も三選禁止の憲法を改定しようと狙っている。改憲と任期を関係づける権力者の顔ぶれをみて、安倍氏は何も感じないのだろうか。
過去からの教訓は、「同じ誤りは繰り返される」ということである。「ミサイル防衛」(MD)では不十分だから、日本独自の核武装へという議論を聞いたり、見たりするにつけ、人間は進歩と退歩を繰り返すのだな、とつくづく思う。過剰な「備え」をしていると、たまたま問題が起こったとき、「備え」をすぐに使いたくなるのは人間の常である。「備えあるから、憂いふえ」である。歴史をひもとけば、あとで「なぜ」と言われるような紛争も多い。フォークランド紛争もその一つ。英国とアルゼンチンであんなにたくさんの人が死ぬとは、誰も想像していなかった。一度始まると、「もうどうにもとまらない」ということが起こるのである。だからこそ、憲法は国家がやってはいけないことを明示し、その権力行使に制限を加えるのである。日本国憲法9条は、過去の巨大な失敗の上にたった、二度と「政府の行為によつて戦争の惨禍が起こ」らなくするための知恵と工夫の結晶なのである。「たかが憲法、されど憲法」である。
だから、メディアは、憲法改正に賛成か、反対かを一般的に問う世論調査はやめるべきだろう。どの条文を、どのように、なぜ変えるのかというしっかりした説明責任が、憲法を変えろと主張する側に課せられる。繰り返しになるが、「憲法とは何か」ということを踏まえた議論の必要性を再確認しておきたい。それは、普通の市民が6人で長時間討論した「国民的憲法合宿」の結果とも響きあうだろう。