済州島「4・3事件」の現場へ  2006年11月27日

学研究費補助金の日韓共同研究のため、10月13日から15日まで韓国・済州島(チェジュド)に滞在した。第3期第4回の研究テーマは「韓国の過去清算法と過去清算運動」である(済州市ヨルリン情報センター6階)。私はシンポジウムのオープニング・セッション「過去清算の普遍性と東アジア」で、ソウル大学法科大学の韓寅變教授ら3人の報告に対する総括的コメントを行った。戦後補償や韓国における「過去清算」問題の専門家も多数報告した。済州市や済州大学や済州教育大学の協力を得たため、市長や行政関係の人も参加していた(地元『済州新報』2006年10月14日付9面に写真入りで報道)。植民地問題や戦後補償問題ならば、これまでも各種企画に参加したことがあるが、今回、韓国の「過去清算」というテーマに初めて、正面から向き合うことになった。しかも、済州島の現地で。私にとっては鮮烈な体験となった。政府による自国民の政策的殺人は「デモサイド」(Democide)と呼ばれ、拉致問題と関連させて一度書いたことがある。韓国の「4・3事件」の問題は今回が初めてである。重く、暗く、むずかしい問題なので、文章も重くて暗くて長いものになった。ご了承いただきたいと思う。

  済州島は350以上のオルム(寄生火山)があり、美しい海に四方を囲まれた島。風光明媚で気候温暖な観光の島というイメージが強く、韓国のハワイあるいは沖縄のような存在として、日本からも観光客がたくさん訪れる。魚介類がとても美味しい。韓国で唯一、みかんがとれる。柑橘類のお土産も多い。済州島産の黒豚はとてもおいしく、済州教育大学長主催の夕食会で出された焼き肉は、私がこれまで食べた豚肉のなかで一番おいしかった。港近くで食べたタチウオも美味だった。

  だが、この島には悲しい歴史がある。金石範『火山島』(文藝春秋社)で知られるようになった「4・3事件」である。私の誕生日は4月3日だが、この日付については、聖徳太子「17条憲法」の604年4月3日や、ドイツのH・コール元首相の誕生日ということくらいの認識だった。韓国では「4月3日」という日付が特別に暗く、重い響きをもつことを今回改めて認識した。7年前のドイツ滞在中に書いた「4月3日は『危険な日』」というタイトルは、韓国では冗談にならない。

  1987年の韓国民主化までの40年近く、済州島は「4・3事件」で「パルゲンイ(“アカ”)の島」というレッテルを貼られてきた。諸説あるが、だいたい25000人から30000人が殺害されたとみられている。島民の9人に1人。それほどの大量虐殺事件にもかかわらず、ごく最近まで、この事件に触れることは、韓国では「タブー」だった。

  「どうして済州島の4 月は悲しいのか。君のこの問いに明快な言葉で短く答えてあげることはできそうにない。…この島の人々がなぜ、時代に立ち向かって生きなければいけなかったのか、どうしてすべて言葉にすることができようか。…この島の出身なら誰でもいいから訊ねてみるといい。かならず家族のうちのだれか一人が、そうでなければ、従兄弟までのあいだのだれか一人、その騒動のさなかに死んだのだと答えるだろう」(玄基栄〔金石範訳〕『順伊おばさん』新幹社より。一部簡略化)。

  この『順伊おばさん』が1979年に出版されると、韓国社会に衝撃を与えた。この本は、1949年1月、済州島朝天邑 北村里(プクチョルリ)で500人あまりの住民が軍人に殺害された際の生き残りの話がもとになっている。
  一体、なぜ、済州島で大量殺戮が起きたのか。もとはといえば、日本の植民地統治が8月15日終わり、米国と、金日成を正面に押し立てたソ連とが、38度線をはさんだ南北朝鮮を分割占領したことに始まる。許榮善『済州四・三』(済州四・三研究所編、及川・小原共訳、韓国公共法人「民主化運動記念事業会」〔ソウル〕、2006年)を参考に流れを追ってみよう。

  1945年9月7日に発表されたマッカーサー元帥の布告第1号「朝鮮人民に告ぐ」は、「本官の指揮下にある勝利に輝く軍隊は、今日、北緯38度線以南の朝鮮領土を占領した」と宣言した。米軍統治の始まりである。9月28日、済州島に米軍が初めて上陸。軍政業務を担当する米軍第59軍政中隊が済州島入りした。
  済州島では、「新しい祖国を建設しよう」と、日本への抵抗運動をしていた人々などが集まって、建国準備委員会(後に「人民委員会」と改称)ができた。飢饉やコレラが流行するなか、1947年に初めての反米デモが起きる。

  47年3月1日、デモ隊に対して警察官が発砲。死傷者が出ると、警察署襲撃事件などが起こり、全島的なゼネストに発展した。米軍政当局は、南朝鮮だけの選挙を48年5月10日に実施することを決めた。これに対して、同年3月初旬、南労党済州島委員会の強硬派が、「5.10選挙は統一を妨げるものだ」と主張。同委の秘密会議において、12対7で武装闘争への移行を決定した。かくして、48年4月3日、南労党済州島委員会の主導する武装蜂起が始まる。同党済州島委員会が山にこもり、「遊撃闘争」を展開。警察や右翼団体関係者の宿舎などを襲撃する。これに対して米軍政当局は、警察隊1700人、右翼の青年団500人を済州島に派遣した。さらに国防警備隊第9連隊に鎮圧作戦を指令した。

  済州島では、内陸部出身者に対する排他意識もあり、また、海外からの帰国者たちが多く、反米意識を持つものもいた。島では村ごとに「自衛隊」をつくり、旧日本軍に徴兵され軍事訓練を受けた若い党員を中心とした 350人(遊撃隊100、自衛隊200、特警隊20、その他30)が、 島内24カ所の警察支署のうち、12カ所を一斉に攻撃した。 済州島駐留の国防警備隊第9連隊の一部にもこれと呼応するものがあらわれたという。

  前掲『済州四・三』によれば、この武装蜂起は南労党中央の指示ではなく、同党済州島委員会で「独自に決定されたものであった」という。だが、そう断定するのは早いように思う。北の金日成が「南の武力解放」と称して南進することで始まる朝鮮戦争。それに先立つこと2年2カ月。この武装蜂起に、南労党中央や北の労働党がどこまで関わっていたのか、済州島の地方党組織の単なる「跳ね上がり」だったのかは、さらなる真相究明に待つべきだろう。島民の自発的な抵抗運動が基礎にあり、その一部が暴徒化したのに対して、政府が島民全体を敵視して、無差別かつ大規模な鎮圧作戦を実施したところに問題の基本があると思うが、「なぜ、ここまで」という疑問は依然として残る。

  そもそも「鎮圧作戦」というが、そんな生易しいものではなかった。警察や右翼青年団、第9連隊などによる討伐隊が村々を一つひとつ襲い、「焦土化作戦」を展開していったからである。昼には討伐隊による殺戮、夜になると山から南労党の武装隊がやってきて、食料を略奪。討伐隊に協力した村人を殺害した。「暴力の応酬」のなかで、中山間地帯の村々すべてが焼き払われていった。
  48年11月17日、李承晩政権は、済州島に戒厳令を布告した。討伐隊は、赤ちゃんから80歳の老人まで無差別に殺した。戸籍を調べ、家族のなかで青年が一人でも抜けていれば、「逃避者家族」(武装隊に参加した家族)ということで家族全員が殺された。これを「代殺」といったそうだ。辞書では「殺人者を死刑にする」という意味だが、済州島では「誰かの身代わりに死ぬ」という意味で使われたという。何ともおぞましいことである。
  住民は洞窟などに身を潜めたが、トトゥル洞窟、モクシムル洞窟、ペンベンティ洞窟などに隠れている住民が発見され、全員が銃殺された。最終的に、島民の9人に1人が殺害され、家屋の75%が焼失するという惨劇に発展した。

  シンポジウムの翌日、「4・3研究所」関係者の案内で、マイクロバスで島内の「4・3事件」関係のフィールドワークを行った。快晴で、空気が清々しい。
  道路を走る途中、廃屋が見えてくる。一家全滅でその後誰も住まなくなった家だという。オルムの美しい風景と、そこで起きた残虐な行為とのギャップで、私の頭は整理がつかなくなった。車は前述の「モクシムル洞窟」に向かった。48年11月12日、その周辺の村々が焼き払われたため、住民がこの洞窟に避難した。200人以上が隠れていたが、26日朝に発見され、ここで40人が殺された。周囲には家族で使った茶碗のかけらなどが散らばっている。ここで行われた惨劇を思い、背筋が寒くなった。沖縄のガマにも何度か入ったが、済州島のそれは戦争中のものではない。平時に、住民を殺す目的で山狩りが行われ、洞窟を煙でいぶされ、出てきたところを殺される。なぜ、そこまで普通の人々にできるのだろうか、と重い気分でマイクロバスに戻った。

  次に向かったのは、「北村里の虐殺」で知られる海沿いの場所である。 北村国民学校の横から海岸に出る。 北村 里に近づくと、研究所の方の表情もこわばり、言葉もどことなく重くなった。
  49年1月17日、この国民学校の近くで討伐隊の軍人2人が、蜂起した武装隊に殺された。それに対する報復として、軍は、北村里の家々に火を放ち、住民1000人を学校の校庭に集めた。そして、3方向に設置した重機関銃で住民を殺害していった。討伐隊の大隊長ら将校が議論をして、「わが兵士たちはまだ敵を殺したことのない者がほとんどなので、敵を射殺する訓練を兼ねて、数人単位で銃殺する」ことを決めた。その結果、学校の東側と西側一帯で、母親や子どもの区別なく、家族ごとに殺害が行われた。学校周辺だけで400人近くが殺されたという。
  この学校での虐殺事件はずっと封印されていた。1954年1月23日に、生き残った者が亡くなった住民の慰霊をしようとして、校庭で酒をささげ、わが子の名前を呼んで泣き叫ぶと、警察がこれを止めさせ、「4・3当時の死刑者を追慕した」という罪で、村の住民たちを調査して「反省文」を書かせたという。「4・3事件」は追悼も禁止されたのである。これを「アイゴー事件」という。

  海岸地域にノブンスンイというところがあり、そこは殺された子どもたちの埋葬地であるという。たくさん埋葬したのに、墓標や記念碑すらない。ただ、恐山のように石が積んである。説明によると、韓国ではずっと「4・3事件」はタブーだったので、墓標も立てられず、子を亡くした母親たちがこっそり訪れ、石を積んで慰霊していくのだという。ごく最近まで、そういう形でしか慰霊が許されないことに驚いた。この何の変哲もない海岸の石のつらなりに、この半世紀の間にどれだけの涙が流されたのだろうか。案内の4・3研究所の方は、「当時の虐殺を伝える重要な空間なので、中途半端に墓をつくったり、聖域化するよりも、現在の状態で、過去のつらい歴史を反芻する歴史教育の場として活用する方法を見つける必要がある」と語っていた。

  「4・3事件」フィールドワークでは、「済州4・3平和公園」造成地も訪れた。「4・3事件」犠牲者を慰霊し、この事件の歴史的意味を考え、犠牲者の名誉回復および平和・人権のための教育の場とするというのが、この公園造成の趣旨だという。4・3資料館などを含め、まだ完成途上にある。広さは約40万平方メートル。総事業費は592億ウォン。2008年に公開される。一部公開されている慰霊塔と慰霊祭壇を見学した。中に入って驚いた。膨大な犠牲者の名前が壁一面に掲げられていたからだ。犠牲者を出さなかった村は一つもなく、島内の全村の名前が黄色く書いてありそこに住民の名前が並んでいる一家全滅の家が多いので、子どもの名前が確認できず「子ども1」「子ども2」というものもある案内の方は、自分の親族の名前を指さして、しばし沈黙した。戦争犠牲者についての、この種のモニュメントは数多くみてきたが、平時に、しかもすべての村で虐殺が行われ、その犠牲者の数がこんなに多いことに言葉を失った。なお、この慰霊塔は、当初、もっと建物の高さがあったそうだが、それだと、家族の名前が高いところにあって、見えない。そこで、すべてが取り壊され、現在のような高さにして、すべての名前が見られるように作りなおしたという。抽象的な慰霊ではなく、村人の一人ひとりの名前のわかる「想起」が重要なのだろう。

  朴正熈、全斗換の軍事独裁体制の間は、「4・3事件」について語ることも、活字にすることも大変なリスクを要求された。国家保安法違反で逮捕される作家もいた。1987年6月に全斗換体制が倒れると、光州事件の国会聴聞会などを通じて「過去清算」が始まった。全斗換、廬泰愚の二人の軍人出身大統領の処罰は、過去清算運動の一つの節目になったという。韓国では、87年からまだ19年しかたっていない。一貫して「タブー」とされてきた問題についての「過去清算」が必要とされる所以である。

  そもそも「4・3事件」の真相が覆い隠されてきたのは、冷戦の論理と南北対立が原因である。「4・3事件」の犠牲者は「アカ」として犯罪者扱いされてきた。
  朝鮮戦争のとき、「南朝鮮パルチザン」という形で抵抗を続けた南労党の武装集団があった。それが「南部軍」といわれ、最終的に、金日成の北朝鮮労働党に見捨てられ、凄惨な運命をたどる。李泰(安宇植訳)『南部軍―知られざる朝鮮戦争』(平凡社)に詳しい。こうした南に潜む「北の第五列」あるいは「北の手先」が、済州島では朝鮮戦争開始前に行動を開始したという認識だろう。南労党済州島委員会の武装蜂起決定がなければ、このような討伐作戦は起きなかった。その点からすれば、原因は南労党済州島委員会と武装隊に帰せられる。朝鮮戦争の開始前後には、日本でも共産党主流派や在日朝鮮人が軍事方針をもち、「中核自衛隊」を組織して武装闘争を展開したことは周知の通りである。済州島の武装蜂起もまた、北や南、さらに日本における一連の動きと無関係とは言えないだろう。だが、その鎮圧の目的を超えて、李承晩政権が、済州島のすべての村民を敵視して、無差別虐殺を行ったことはとうてい正当化できるものではない。「4・3事件」から1年後の49年4月1日に米軍が出した情報報告書にこうある。「第9連隊が中山間の村々の住民に対する大量虐殺の計画を採択し、1948年の1年間に1万5000人あまりの住民が犠牲となった。このうち、80%が討伐軍によって射殺された」と。他方、南労党の武装隊は、警察官や右翼団体とその家族、軍隊に協力した人々とその家族を報復殺害した。これは、全体の死亡者の10%にあたるという。政権側も武装蜂起側も、ともに島民殺害に関与していた。だが、第9連隊という国家の武装機関が住民虐殺に組織的、計画的に関与していたことは重大である。

  また、この国防警備第9連隊 (1948年12月末から韓国陸軍第2連隊) の虐殺を米軍が認識していたとすれば、韓国軍の作戦統制権を握る米軍司令官の責任の問題が生ずる。4・3研究所の前掲書によれば、48年12月の「集団殺害の防止及び処罰に関する条約」(ジェノサイド条約)は、「集団殺害…を犯す者は、憲法上の責任ある統治者であるか、公務員であるか又は私人であるかを問わず、処罰する」と定める(4条)。済州島における大量虐殺に関する作為、不作為をめぐるさまざまなレヴェルの問題がこれからも解明されていくのだろう。

  韓国政府が正式に謝罪したのは、2003年10月31日のことである。盧武鉉大統領が済州島を訪問して、「過去の国家権力の過ちに対して、大統領として、遺族と島民に心からお詫びする」と述べた。慰霊公園や医療支援金や生活支援金の支給も決まった。
  今回の日韓共同研究会シンポジウムでは、文ソンユン弁護士が、87年6月以降の民主化の過程で、「4・3事件」がようやく公に語られるようになり、金大中政権のときの2000年1月12日、「4・3事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法」(略称「4・3特別法」)が公布され、関連する施行令なども制定されたことの意義を高く評価した。この法律に基づき、「4・3事件真相究明および犠牲者名誉回復委員会」が設置された。03年10月15日には調査報告書も公表された。

  「4.3特別法」2条1号によれば、済州島4・3事件とは、「1947年3月1日を起点とし、1948年4月3日に発生した騒擾事態、および1954年9月21日まで済州島で発生した武力衝突と鎮圧過程で住民が犠牲となった事件をいう」と定義されている。この一般的表現について、文弁護士はその後の歴史調査や真相究明により、より実態に近い形で定義を改正すべきことを指摘する。なお、上記委員会の調査報告書によれば、「4・3事件」は次のように定義されている。
  「1947年3 月1 日の警察の発砲事件を起点として、警察署庁の弾圧に対する抵抗と単独選挙・単独政府反対を旗印に、1948年4月3日に南労党済州島委員会の武装隊が武装蜂起して以来、1954年9月21日に漢拏山禁足地域が全面開放されるまで、済州島で発生した武装隊と討伐隊の間の武力衝突と討伐隊の鎮圧過程で多数の住民が犠牲となった事件」。
  武力衝突の当事者と島民とを区別して、島民の名誉回復をはかるために必要な定義なのだろう。

  では、今後どういう方向に進むのだろうか。ここで参考にされているのが、南アフリカ(アパルトヘイト政策で国連の制裁を受けてきた)の民主化過程でとられた「真実和解」という手法である。
  シンポジウムでは、金武勇博士(真実和解のための過去事整理委員会)の報告が勉強になった。金氏によれば、「過去清算」の意義は次の通りである。第1に、真実を語ることは、国家暴力の被害者個人にとって社会的治癒の過程である。真実を語ることは、埋もれていた過去を露にし、トラウマの記憶を回復する過程である。第2に、国家暴力と虐殺の被害者たちが自分たちを抑圧してきた暗い記憶を解体し、新たな未来の記憶を再形成する作業である。第3に、韓国社会を正常化し、「正常社会」へ復帰する出発点である。「国家暴力と虐殺が日常を支配する集団狂気の時代において、脆弱な個人がどうすることもできずに絶望し憤怒する社会は正常社会ではない」と。
  2005年5月31日に公布された「真実和解のための過去 事 整理基本法」により、「1945年8月15日から韓国戦争前後の時期に不法になされた民間人集団犠牲事件」について真相調査がなされている。「4・3事件」はその一環である。2005年12月、「真実和解のための過去事整理委員会」が発足した。

  シンポジウム第1セッションでの李載勝・全南大学法科大学教授の報告「過去清算の法哲学」も興味深かった。李教授によれば、87年の民主化以降、今日までに制定された過去清算関係の法律は16件。その際、キーワードは「国家暴力」の概念である。政府の行為による集団殺害、政治的迫害、重大な人権侵害行為が問題となる。国際法上の「人道に対する罪などと重なるが、この概念は、自国民に対するものである点に特徴がある。そこで教授が、民事処罰、民事賠償、「裁判清算」(軍事政権時代の判決の見直し)と並んで、「悪法清算」という視点を打ち出したのが興味深かった。私は、そこでの理論的枠組みとして、法哲学者G・ラートブルフの「法律的不法と超法律的法」の議論が引照されていたことに注目した。ナチスが制定した法律は法ではない。人間の尊厳という超法律的法がある。それに反する法律は法ではない。一種の自然法的な考え方が戦後再興したのも、ナチスの悲惨な体験の故である。これは、東ドイツの体制が崩れたあとにも、「二つの不法国家」という視点で再びこの議論が注目された。ただ、この議論は「生煮え」で使うことには慎重であるべきで、休憩時間に李教授と議論したが、教授も十分に自覚されていた。私自身は、いずれ北朝鮮の体制が転換したあと、朝鮮労働党政治局の秘密文書などが明らかになり、最終的に「北」の関与を含めて、「4・3事件」の全貌が明らかになるだろう、そのとき、ドイツ統一のときと同じように、この問題が理論的にもクローズアップされてくるだろうと指摘した。教授も同意見であると述べていた。この問題を書きはじめるとまた長くなるので、このあたりでやめておこう。

  シンポジウム第2セッションは、「韓国の過去清算と日本」だった。「親日行為真相究明」や強制動員真相究明問題や、日本における戦後補償裁判の問題などの報告があり、議論されたが、ここでは省略する。「4・3事件」の背後に、日本の植民地統治の問題も複雑に絡んでいる。さまざまな形で歴史に誠実に向き合っていく必要性を痛感した。
  短期間だったが、済州島での体験は、いろいろな意味で私の思考を刺激してくれた。たくさんの出会いもあった。このような機会をつくり、さらに適切にコーディネートしてくださった関係者の皆さん、とりわけ立命館大学コリア研究センターの関係者と4・3研究所の皆さんには大変お世話になった。同研究所の村上尚子さんには、フィールドワークに関連して有益な示唆をいただいた。記して謝意を表したい。