06年最後の「直言」になった。今日はクリスマスである。私は特定の宗教を持たない人間だが、仏教からキリスト教まで、さまざまな宗派・教団から講演依頼がくる。お寺の本堂や、教会のミサの前に、憲法や平和の講演をしたことも何度かある。たくさんの人と出会い、そして別れも体験してきた。この年になって、とりわけ人の運命のようなものを感じるようになった。10年間の「直言」のなかだけでも、たくさんの出会いと別れがあった。大学院時代にご指導をいただいた沼田稲次郎先生(東京都立大学元総長)は、「水島君、わしは運命論者だよ」と語ったことがあった。父の葬儀で流した合唱曲「心の四季」がご縁となってお会いした高田三郎氏(作曲家)、30代の私に、研究者として、また人間として大きな影響を与えた久田栄正先生(北海道教育大学名誉教授)、ブルックナーの世界で私に喜びを与えてくれた朝比奈隆氏(指揮者)、長崎合宿でゼミ生に感動を与えてくださった鎌田定夫先生(長崎平和研究所所長)、「ベルリン・ヒロシマ通り」の生みの親で、12年間、毎月一回、ベルリンの新聞切り抜きを送り続けてくれたハインツ・シュミット氏、易の世界に懐疑的な私を変え、さまざまな言葉と指針を与えてくれた土路部茂(巽風嘉齎)氏。これらの人々が私のなかに残していったものは、それぞれに非常に大きい。
さて、私のモットーの一つは、「出会いの最大瞬間風速」である。一度しか会えなくても、一生分の出会いをしてまうことがある。高田三郎氏との出会いがそうだった。父が急逝して10年目の年に、『朝日新聞』から夕刊エッセー「一語一会」の原稿を依頼された。掲載されたのはドイツでの在外研究に出発する2カ月前の1999年1月12日付夕刊だった(拙著『憲法「私」論』あとがきにも所収)。それを読んだ方からファックスが届いたのは、2日後の1月14日。高田三郎氏の合唱曲を年に一度演奏している「リヒトクライス」というグループがあって、そのコンサート用パンフレットに、私のエッセーを使いたいということだった。大変名誉なことなので、快諾した。すぐにコンサートのチケットが2枚送られてきた。母と二人で学習院記念会館で開催されたコンサートにでかけた。やはり「心の四季」が心に響いた。終演後のレセプションで挨拶を頼まれた。父親の縁でこういう場に参加できたことに感謝をした。高田三郎氏が私のあとに立って、こう挨拶した。「よい演奏会には三つのことが必要です。よい作曲家とよい演奏者、そしてよい聴衆です。あなたのお父さん、今日ここに来ておられましたよ」と。そこへ、高田氏を専門に撮影しているという女性カメラマンが近づいてきて、氏と私とのツーショットを撮影してくれた。しばらくしてモノクロのすばらしい写真が郵送されてきた。それを額縁に入れて研究室に飾り、私はドイツに旅立った。1年後に帰国。研究室の写真と再会してしばらくすると、新聞に高田三郎氏死去の訃報が載った。「一語一会」が生んだ「一期一会」となった。父がFMから録音した高田氏の合唱曲のテープやレコードを、いまも聴くことがある。99年1月24日の「出会いの最大瞬間風速」の影響は、いまも私のなかで続いている。
私の人生のさまざまな場面でお世話になった方々が、今年、相次いで亡くなった。渡辺洋三先生(東京大学名誉教授)もその一人である。大学院生時代から、鋭い問題意識と、エネルギッシュな語りに、私はいつも引き込まれた。私が広島大学に勤務していた頃、ある会合で先生は、「水島君、40代は大事だよ。学者は40代で決まるんだよ。がんばりなさい」と肩をボンと叩かれた。当時39歳だった。先生の言葉を胸にしまった。早稲田に戻ってからお会いしたとき、先生は、「うちのが君のラジオのファンでね」と笑いながらおっしゃった。奥様がNHKラジオ第一放送「新聞を読んで」を欠かさずお聞きになっているというのだ。その渡辺先生が、今年11月8日に84歳で亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。
私が獣医師にならないで、社会科学の道に向かう上で決定的ともいえる影響を与えた小学校の先生も、今年8月に亡くなっていた。中島進先生である。つい最近、喪中の葉書がご家族から届いて、その死を知った。「小学校の先生のこと」という「直言」がUPされる2日前に、先生は88歳で亡くなっていたことになる。この「直言」は結果的に弔文になってしまった。5月に拙著『憲法「私」論』をお送りしたとき、震えるような字の礼状を頂戴したのが最後になった。中島先生と出会わなければ、東京競馬場が目黒にあった時から競馬場獣医だった本家のあとを継いで、私は「獣医の4代目」になっていたことだろう。何かの運命を感じる。
そして最近、再び、「出会いの最大瞬間風速」を感じる体験をした。それが、石黒寅亀牧師との出会いと別れである。
先月23日、日本基督教団の関東教区群馬地区大会で講演した。会場は高崎市の新島学園短期大学である。質疑の時間に手を挙げて質問されたのが、石黒牧師だった。質問は、憲法前文の意義についてだった。 会場を出る時間が迫っていたので、私はその時、憲法前文について、ごく一般的なことをお答えするにとどまった。終了後、主催者の小野團三牧師から、石黒牧師がいま99歳、12月に100歳になるということをお聞きし、大変驚いた。車に乗る直前にロビーでご挨拶して、記念撮影をした。その間、数分というわずかな出会いであった。 石黒牧師は私の手を握りながら、「今日はとてもよいお話をありがとうございました。とても元気がでました。これからもがんばりましょう」といわれた。手がとても温かく、大きくはないが、何か包み込むような柔らかさを持っていたのが印象的だった。高崎の滞在時間はわずか3時間。でも、これが石黒氏との「出会いの最大瞬間風速」となった。
一昨日、小野牧師からメールが届いた。石黒牧師が12月11日に100歳の誕生日を迎えたものの、その9日後の12月20日正午すぎにこの世を去ったというのである。添付されていたのが、この写真である。私は驚かなかった。なぜかというと、記念写真を撮るとき、ふと8年ほど前の高田三郎氏との記念撮影を思い出したからである。きっと再び生きて会えることはないだろう。直観的にそう思った。カメラに向かって一緒に並びながら、思わず深呼吸したのを覚えている。
石黒寅亀氏は、1906年(明治39年)、高知県に生まれた。17歳でキリスト教に入信。神戸中央神学校卒。74年間、牧師をされた。戦争中、ビルマ戦線に5年間従軍した。戦後、原水爆禁止運動に参加。『わが昭和始末書――一人のオールド・リベラリストその個人史』(あさを社、1992年)という著書で石黒氏は、歴史学者A・トインビーの言葉、「人が生きるということは、自分の生きるその歴史に責任を負うこと」を引用しつつ、「あの時お前はどこにいた、単なる場所ではない、どう生きた、正に歴史を生きる人間の在り方」を問い、つらい時代の自分と誠実に向き合う。戦争中、日本の教会は、「〔戦争国家への〕協力、便乗、面従腹背、傍観、抵抗その何れなりしか、少なくとも僕と教会はその最後の選択肢『抵抗』を放棄し協力から便乗。面従腹背まで文字通りこの悲しいペテロの裏切りを主の前で犯しました」。こう述べて、石黒氏は、地獄のインパール作戦が行われたビルマ戦線から生還。1946年5月9日、広島県大竹港に着いた復員船から降りてから、こう悩む。「我れ生きてありしか、教会と家族に会う歓びと、しかし、今此処にあるわが生とは何、あの聖書のことば、“人、全世界をもうくとも己が生命を損せば何の得となり得よう”…」と。石黒氏は、教会と自らの戦争責任の問題を問いつづける。その後、原水禁運動に関わり、また群馬県平和憲法を守る会会長として、憲法運動の中軸となっていくのも、この復員時の決意が原点になったのだろう。
久田栄正氏がフィリピン・ルソン島の戦場から生還し、憲法学者の道に歩みだすときの思いとも重なり、時代を生き抜いた方の知的誠実性を石黒氏にも強く感じた。
小野牧師によると、石黒牧師は、ケアハウスの部屋の壁に、日本国憲法前文を刷り込んだ大きな風呂敷を貼っていて、死んだ時はそれを体に巻いて葬ってほしいと言い残していたそうである。尊い天寿を全うされたことに、深い感動を覚える。
石黒牧師の告別式は、今日(12月25日)午後1時から高崎教会で行われる。石黒さん、どうかゆっくりお眠りください、というにしては、怪しげな「美しい国」の香り漂うこの国は、あまりにも危なすぎる。どうかしっかり見守っていてください。