先週の今日は、「2.26事件」の71周年だった。研究室の奥には、関連ファイルが積んである。これらは、かつて古書店で一括入手した「その時」の号外や新聞、3月4日の緊急勅令による特設軍法会議の経過を伝える号外の一部である。岡田首相が死亡したとの知らせに、元老西園寺が動き、後藤臨時内閣誕生へ。その直後に「岡田首相生存」の号外。「後藤内閣総理大臣臨時代理被免」の見出しは、歴史年表にもない「歴史のトリビア」である。小渕首相が死亡し、「森首相」が誕生するとき、「内閣総理大臣が欠けたとき」(日本国憲法70条)が問題になったことを想起させる。
さて、「わが歴史グッズ」シリーズの第22回は、5.15事件から衰退し、2.26事件「後」に決定的となった政党政治終焉の、最終ステージともいえる「大政翼賛会」に関連した「グッズ」を紹介しよう。
先月、同じ人からメールが続けて2通届いた。2通目は「お詫び」となっていた。何だろうと開けてみると、「さきほど、阿部内閣と書いてしまいました。お恥ずかしい限りです。訂正します」とあった。それだけのメールだったのだが、そこでハッと気づいた。内閣史上、「アベ内閣」が二つあったということを。
一つは、「小泉ブーム」の勢いで政権が転がり込み、「チーム安倍」と調子に乗っていたら、大臣と税調会長が辞任、「不祥事時限爆弾」大臣を複数を抱えて、満身創痍で迷走中の、恥ずかしい(shame)「シェーム安倍」内閣である。もう一つは、1939年8月30日に発足し、1940年1月14日に総辞職した阿部信行内閣である。予備役陸軍大将の阿部は、金沢出身。旧制四高中退で陸軍士官学校卒(9期)の経歴である。首相に就任したとき、閣僚に同郷出身者を多く採用したため、「阿部一族」あるいは「石川内閣」と呼ばれたそうだ。その点に関していえば、山口出身の「昭和の妖怪」(岸信介元首相)の血筋と、「仲良し」ばかりで固めた安倍内閣とも似ている。
松本清張『史観宰相論』(文春文庫)では、明治期から吉田茂まで「宰相の資格と条件を問う」という形で、清張の首相論が展開されている。さまざまな首相たちの人物と時代が描かれているが、阿部信行内閣とその前後の内閣については、「それぞれの宰相論をここで書く気がしないし、またその紙幅の余裕もない」と冷やかである。清張に「書く気がしない」といわしめた阿部内閣は、実際、130日+1週間しかもたなかった。
気の合う石川県人ばかり登用した「チーム阿部」は、なぜ崩壊したのか。阿部内閣発足の翌日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まった。阿部内閣は、日本とドイツの同盟締結は、米英との対立を激化するおそれがあるとして消極的な態度をとり、大戦への不介入方針をとった。だが、軍部、とくに陸軍はこれに強く反発。阿部内閣は総辞職に追い込まれた。
阿部信行の名前は、首相時代よりも、日本の政党政治を葬った組織の長として、歴史に残ることになった。1942年2月23日、「翼賛政治体制協議会」(翼協)が発足。会長に、阿部元首相が就任した。これは、1942年の「翼協」が街頭に出て運動をするときに付けた腕章である。大変珍しいものである。政府は、「官製選挙」という批判をかわすために、「翼協」を隠れ蓑として利用した。
阿部は政府と連携をとりながら、推薦候補の人選を行った。2カ月後の4月30日、総選挙(翼賛選挙)が実施された。写真は、この時の「投票済証」である。「翼協」は衆議院の定数466いっぱいまで推薦候補を立てた。非推薦の候補者は645人。合計1079人の候補者で選挙が戦われたが、結果は、当選者の81%にあたる381人が「翼協」推薦候補になった。
「翼協」支部の推薦活動には、内務省と各地の警察が全面的に介入した。東京では、警視庁が推薦候補の適格性を判断し、「翼協」推薦リストの半数にあたる16名を占めたという(粟屋憲太郎『昭和の歴史⑥昭和の政党』小学館)。
当時、この「翼協」については、「国民公選の憲法の精神」に反するとの批判があがった。大日本帝国憲法35条は「衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス」と定めていた。自由な選挙の前提となるのは、①立候補の自由、②選挙運動の自由、③投票の自由である。どれ一つ欠けても、まともな選挙にはならない。「翼協」推薦制によって、実質的には①が、内務省・警察の選挙干渉により②が著しく侵害された。結果的に、③の自由も、政府推薦候補が有力という状況のなかで空洞化していった。
翼賛選挙の時代、この写真のように、「選挙粛正」が叫ばれた。「選挙粛正絵ばなし」を見ると、天皇国家、「神の国」の選挙の姿が浮き彫りになってくる。選挙運動に対する厳しい規制は、「翼協」推薦候補以外の候補にとって不利に働いた。まさに「現職有利」の仕組みである。警察も中立ではなく、隣組や町内会は、防空法制の基本単位としてのみならず、翼賛選挙の推進母体ともなった。警察も「選挙取締り」の観点から、選挙違反事犯を捜査したが、もっぱら「翼協」推薦を得られない候補者に向けられたようである。
総選挙が終わると、東条内閣は基盤強化のために、政治上の結社として、「翼賛政治会」(翼政会)の設立に動いた(発足は1942年5月20日)。総裁はまたもや阿部元首相だった。政党政治家たちは、何の見識もなしに、一段と軍部寄りの政治に傾いていった。
そうしたなかで、院内交渉団体「同交会」を軸として活動する40名ほどの政治家がいた。翼賛政治に対する尾崎行雄、鳩山一郎、芦田均、片山哲らのギリギリの抵抗については、楠精一郎『大政翼賛会に抗した40人』(朝日新聞社)が詳しい。
アベ現首相と、アベ元首相。時代の転換期において、声の大きな、力の強い人々(昔は参謀本部などの幕僚)が主導権をとる。それを抑えきれずに流される点でも、二人はよく似ている。
アベ現首相は、まずは教育基本法に手をつけ、「防衛」部門に対する戦後的抑制を解除して、「防衛省」と自衛隊の海外出動本来任務化を実現した。そして、参議院選挙に向けて、経済、財政、雇用、年金といった国民の切実な課題を脇に置いたままで、「戦後レジームからの脱却」とか「憲法改正」といった「争点」で参院選を戦おうとしている。その結果、敗北を目の前にしてもなお、「私はやるべきことはやった」」とすっきりした顔をするかもしれない。これは「自爆的行為」であり、与党関係者が青ざめる場面も出てくるだろう。参院選前の首相交代の可能性も皆無ではない。それは、第2次世界大戦開始直後に、阿部内閣が軍部の突き上げで瓦解したのと何か因縁がありそうである。
小泉政権の5年間に、「昭和10年代」との類似性を診る向きがある。作家の保阪正康氏が精力的に書いているので、詳しくはそれに譲る。最近のものでは、『昭和史の教訓』(朝日新書、07年2月28日刊)が明快に問題の所在を明らかにしている。帯には「昭和10年代を蘇らせるな」とある。歴史における偽りを見抜く努力を通じて、自省をもとに史実を捉えていく、氏の「自省史観」には共感できるところが多い。「亡国」の時代、昭和10年代は、自己陶酔と感情で動く中堅幕僚たちの主張に軍上層部がひきづられ、そうした「異様な空気」のなか、それを何とも思わない感覚が日本社会に広がっていった。この時期は、①国定教科書による国家統制、②情報発信の一元化、③暴力装置の発動、④弾圧立法の徹底化という「四つの枠組み」で囲まれた時代空間だった。保阪氏の指摘にならえば、現在も、①´「新教育基本法」の制定による教育の国家統制の進行、②´タウンミーティングの「やらせ」で世論誘導する手法、③´集団的自衛権「行使」を可能にして、海外での武力行使の道へ、そして、④´共謀罪法案から微罪逮捕の運用まで、まさにこの「四つの枠組」がすべてあてはまっているとはいえまいか。
戦争体験も挫折体験もない、「無邪気ゆえに危ういエリートたち」が、かつての陸軍省や参謀本部にいたエリート中堅幕僚とダブってみえてくる。