7月7日は日中全面戦争の発端となった「盧溝橋事件」70周年だった。私は、その5日前の7月2日にも注目した。ドイツの「フランクフルター・ルントシャウ」紙が掲載した「スターリン的過去」と向き合う「メモリアル」という団体の文書を読んだからである。この団体は1988年に旧ソ連の改革派運動の一つとして誕生し、1992年から国際協会となり、ドイツにも支部がある。全体主義とたたかい、歴史的真実の追求や、テロ犠牲者の名誉回復などを目的としている。同紙が資料として公表したのは、この協会がスターリン粛清の頂点1937年から70周年の時点で発表した文書である。それは、1992年に初めて明るみに出た「00447命令」、ソ連共産党政治局7月2日決定から70年がたったということである。
ロシアの人々の間では、「ザ・37年」("Das Jahr 37") として、「大テロ」「大粛清」は記憶されている。もちろん1937年の前から、そしてその後も、旧ソ連はずっと共産党独裁体制だったわけであり、その本質に変化はない。だが、旧ソ連を生きた人々の記憶のなかで、「ザ・37年」は特別な意味をもつ。「国家権力が組織し、遂行した大量殺戮システムの災いに満ちた象徴」として。
「ザ・37年」は、旧ソ連の全地域で、国の最高指導部から農民や労働者に至るまで、例外なくすべての社会階層を把捉する途方もない抑圧であった。1937/38年で、170万人が政治的な訴追により拘束され、シベリア追放の犠牲者、「社会的に有害な要素」と判断された人々は200万以上に達した。そのうち、70万人以上が処刑されたという。もちろん、こうした数字はきわめて流動的で、諸説がある。ボン滞在中に読んだ『共産主義黒書』(翻訳も出ている)によれば、スターリンの「大粛清」を含めて、前世紀に地球規模で行われた「粛清の思想」の全犠牲者は1億人にのぼる。
旧ソ連の場合、「粛清」を担当したのは内務人民委員部(NKVD)、後のKGBである。共産党の中央幹部や軍の将校たちの粛清もすさまじかった。1934年1月の第17回党大会で選ばれた中央委員140人のうち、生き残ったのはわずか15人だったという。「血の粛清」で、赤軍の将校クラスの大半が粛清された。「ザ・37年」は、あらゆる伝統的な属性(遠隔判決、似非裁判手続、弁護人抜き、予審判事、検察官、裁判官、死刑執行人の役割が事実上たった一つの官庁〔NKVD〕に統合されている等々)を伴う「中世的異端審問規範の20世紀におけるルネッサンス」ということになる。
6年前に「直言」のカンボジア・レポートのなかで触れたように、「階級敵」「人民の敵」の抹殺をはかる「粛清」は、ジェノサイド(民族皆殺)と区別され、同一民族内における系統的殺戮という意味で「ソシオサイド」とも呼ばれている。また、R. J. ランメルによれば、政府による政策的殺人は「デモサイド」と呼ばれ、その犠牲者は、旧ソ連では革命から1987年までの70年間で5476万人にのぼるという。「現存の敵の根絶が完成し、『客観的』な敵の探索がはじまった後にこそ、テロは全体主義体制の実際の中身となる」(ハンナ・アーレント)。ソルジェニーツイン『収容所群島』に出てくるNKVDの「32種類の拷問」も、その後の全体主義体制に活用されている。北朝鮮では、もっと陰湿な方法が加わり、人々を苦しめているのである。
「国民社会主義」(ナチス)と並んで、20世紀にロシアで生まれ、いまも各地に存在する「国家社会主義」の体制については、この直言においてもさまざまな形で触れてきた。旧東ドイツについても、中国についても、上記のカンボジアのポルポト政権についても、朝鮮半島北半部に存在する「朝鮮君主主義臣民共和国」についても、厳しい指摘を行ってきた。旧東のシュタージ監視国家のおぞましい姿や、「6.17事件」50周年において、「ドイツ民主共和国」なるものが、その誕生の数年後に労働者・市民から不信任され、ソ連の戦車で押しつけられた体制であることも語った。それらは最初はよかったが、途中から「変質」したのではない。その出発の最初から労働者や市民にとって敵対的矛盾として存在したのである。国家社会主義に対する私の立場は明確である。
ところが、最近、私のことを「金正日サポーター」の一人として批判する本が出版された。『金正日と日本の知識人』(講談社現代新書)。著者は川人博弁護士。過労死問題をはじめ多くの実績がある。私も氏の著作を学生に推薦したこともある。「人権派弁護士」として知られる川人氏によって、なぜ「金正日サポーター」と非難されなければならないのか。あまりにも唐突な非難に驚いた次第である。
文藝春秋社の雑誌『諸君』で川人氏が姜尚中氏の北朝鮮に対する姿勢を批判して、双方で「論争」に発展したことは知っていた。それを本にするにあたって、「知識人の責任を問う」という章をおこして、そこで、和田春樹氏、佐高信氏と並んで、私のことを「拉致被害者を北に返せと主張した水島朝穂氏」と激しく非難している。
川人氏が問題にしているのは、2002年12月14日に行った講演記録である(『INTERJURIST』141号〔2003年3月1日〕国際法律家協会)。これは、小泉訪朝直後の刻々と動く事態のなかで語った講演のテープをおこしたもので、今の時点から見れば、若干舌足らずな表現もなくはない。
だが、私が批判したのは、当時の安倍晋三官房副長官の一面的な手法である。拉致被害者を北に返せなどと主張したものではない。北朝鮮の拉致問題については、小泉訪朝の直後に書いた「日朝首脳会談と拉致問題」で私の立場は明確にしている。
講演のなかで私がいいたかったことは、国家が、引き裂かれた家族について、ある時は冷たく突き放し、ある時は過剰に介入する。中国残留孤児訴訟に関連して、安倍氏の祖父である岸信介首相(当時)が、1959年に「未帰還者に関する特別措置法」をつくって、日米安保条約改定を前に、対米関係を重視して中国とのパイプを切断したことを問題にした。拉致問題についても、北に残された子どもたちと帰国した拉致被害者5人が新たに引き裂かれないようにすることを考えて行った発言である。金正日の「メンツ」という言葉を使ったが、それは私が金正日の側に立って使ったものでないことは、「直言」での私のこれまでの発言からも明らかだろう。
また、当時の安倍官房副長官について「駄々っ子」という表現を使ったことを、拉致被害者や川人氏の立場を「駄々っ子」といったと非難しているが、あまりにも勝手な読み込みである。北朝鮮の収容所のことを問題にしていないとか、拙著『憲法「私」論』で北朝鮮について十分に触れていないとも非難しているが、拙著は私が訪問した場所を中心に語るという本であり、まだ行ったことのない北朝鮮について書いたものを収録しなかったのは編集上の方針である。
なお、川人氏が問題にしている5年前の講演でいいたかったことは、その講演の直前に出した「拉致と放置」と重なる。そこでは、岸元首相と安倍官房副長官を重ねて批判するところに主眼があった。以下、その直言から引用する。
…(中国残留孤児に対して) 戦後日本は冷たかった。1949年の中華人民共和国成立で政府は国交を断絶。引き揚げは中断されてしまう。中国には未帰還者が数多く残された。だが、岸内閣は、1959年、「未帰還者に関する特別措置法」を国会に提出。この法律により、中国に多くの未帰還者がいるにもかかわらず、「戦時死亡宣告」を行って戸籍を抹消する措置をとった。この手続をすれば3万円の弔慰金が出る。1959年の国家公務員(一般職)の給与は20760円。遺族の足元をみるような、何とも冷たい仕打ちである。この措置により、日本人残留者1万3000人が生きながら法的に「死者」と扱われ、残留邦人の判明が著しく困難になった。
日中国交回復後も、大蔵省(当時)が戦時死亡宣告された者に対する身元調査の予算は計上できないというかたくなな姿勢を貫き、身元調査はさらに遅延することになる。訪日調査が行われたのは、国交回復から9年もたった1981年だった。紅谷さんら原告〔中国残留孤児訴訟の〕は、大本営による在留邦人の置き去りを「第1の遺棄」とすれば、この特別措置法による戸籍抹消措置を「第2の遺棄」であるという。
…法治国家と言われる日本。しかし、残留孤児の問題でも「放置国家」であり続けた。そして1959年の特別措置法こそ、「法恥国家」と呼ぶにふさわしい仕打ちである。残留孤児国賠訴訟では、この法律が当然争点となる。「国家的放置」の政策に深く関わった岸信介首相(当時)。その女婿は安倍晋太郎元外相。その息子が、拉致問題の強行策で一躍有名になった安倍晋三官房副長官であるのは何かの因縁か。
拉致問題も、国家と国家の隙間に家族が挟まれ、ある時は無視され、ある時は過剰に介入され、翻弄されている。国家がその時々の都合で個人・家族を利用し、「国策」を推進するのは、戦前も戦後も一貫している。個人の生活をこれ以上、「国策」の道具にさせてはならない。
参議院選挙を前にして、突然、安倍内閣は、中国残留孤児に対して方針を急転換させた。孤児たちに14万円が支給されることになった。安倍首相は孤児たちを官邸に呼び寄せ、一人ひとりと握手をしていた。なぜもっと早くこのような措置をとれなかったのか。選挙向けといわれても仕方ないだろう。
2002年12月講演における、私の安倍批判のなかで使った「駄々っ子」という表現が、今回突然非難されたわけだが、その後、首相になった安倍氏の対米一辺倒「駄々っ子」ぶりについては眉をひそめる人が増えている。とうの米国が北朝鮮政策を微妙に転換しつつある。