「居留民の仕末」から「集団自決」へ  2007年12月24日

12月3日、東京・九段会館で開かれた「沖縄戦 教科書検定意見撤回を求める全国集会」で発言を依頼された。主催者から与えられた時間は10分だった。

  基調講演は、渡嘉敷島「集団自決」で生き残った金城重明さん(沖縄キリスト教短大名誉教授)。当時16歳だった金城さんの話は衝撃的だった。
   3月27日に米軍が上陸し、その翌日に集団死が発生した事実に、金城さんは着目する。住民を夜間、集落から7キロも離れた日本軍陣地近くまで移動させる命令が出て、そこで集団死が発生する。もしも自発的な死だったら、自分の家や代々の墓の前で死ぬはずだというのだ。すでに軍は、十数名の島の男に手榴弾を2個ずつ配布して、「一つは攻撃用、一つは自決用」と説明していた。天皇から与えられた貴重な兵器を民間人に渡すこと自体が尋常ではない。軍の陣地近くに集結した住民。「命令が出ましたよ」という報告に、村長は「天皇陛下万歳」を三唱。これをきっかけに集団死が始まる。この言葉は「玉砕」の際に発する言葉であり、村長の叫びは「自決」への号令となったという。手榴弾は不発が多く、これで死んだ人は多くはなかった。自決の失敗で、住民は混乱状態に。
   大人たちがどのようにするかを見極めるため、金城さんは高いところにのぼり、周囲を観察する。区長が木をへし折り、妻子をめった打ちにしはじめた。これが「自決」のお手本になり、金城さんも母親と妹、弟を直接手にかける。母親の頭を最後に石で叩いて殺害した。同級生の女の子に頼まれて手にかけたが、手加減してしまい彼女は生き残った。米軍に捕まれば女は凌辱されると信じていたから、愛する家族に対して、愛情あるが故に確実に命を奪った。金城さんは、死ぬ恐怖よりも、「生き残ることへの恐怖」に陥り、それまでの米軍への敵愾心が自分に向かう、集団死の心理状態を描写していく。
   兄と二人でどちらが先に死ぬかの順番を相談していたところに、同年輩の少年が「米軍に斬り込んで死のう」とやってくる。小学生の女の子が二人ついてきた。途中で日本軍に出会う。「どうして皇軍は生きているのか」と恨み骨髄に達したという。あれほど恐れた米軍よりも日本軍の方が怖くなって、その後、死ぬチャンスを逸してしまう。
   軍による命令や強制について両論があるから、「強制」という記述を削除せよと検定意見はいうが、これは言葉の遊びである。日本軍がいた島だけで集団死が発生したこと、その背景に「軍官民共生共死」が教育により刷り込まれていたことがある。これが軍による強制の何よりの証拠だ、と金城さんは強調した。

  鮮烈な体験を語った基調講演に続いて、教科書検定に関係する当事者たちの発言が続いた。そのなかで、憲法再生フォーラムのメンバーでもある暉峻淑子さん(埼玉大学名誉教授)の、教科書をめぐる粘り強いたたかいの話には感銘を受けた。
   続いて壇上にあがった私は、教科書検定制度そのものの問題性と、「集団自決」(強制集団死)に至る、軍部内の議論の紹介の2点にしぼって話をした。前者(教科書検定)については、すでにこの直言でも書いたので省略する。後者については、私の研究室に保存してある防衛庁・自衛隊の沖縄戦関係資料のなかから、部内資料『国土防衛における住民避難――太平洋戦争に見るその実態』(防衛庁防衛研究所・研究資料87RO-11H、1987年)を持参し、そのなかで「住民避難施策の原型」と位置づけられているサイパン戦についての軍内部の議論を紹介した。

  1944年6月25日から7月7日まで、大本営ではサイパン残留邦人24000人の「措置」をめぐって議論が続く。防衛研究所の担当者は、「ここに、本研究命題の『原型』を見る思いがする」と書いて、陸軍省医事課長・大塚文郎大佐の『備忘録』(昭和19年、防衛研究所図書館史料庫所蔵)を参考に、陸軍省局長会報〔会議〕の様子を記述している。以下、『備忘録』からの引用である。


 「6月28日 局長会報〔会議〕 (以下、秘)
 軍務局長(佐藤賢了少将) サイパン島住民日本人2万人有り、どうする。その 他土民有り。研究中なり。
 次官(富永恭次中将)小笠原の硫黄島、沖縄、大東島、石垣島住民を引揚げる様 にして居る。問題があるから外へ漏れぬ様にせり」。

  「7月2日 臨時会報
  軍務局長 大臣より次の事を徹底せしめよ。サイパンの居留民の仕末〔…〕」

  「居留民の仕末」という言葉はすごい。漢字としては「始末」になるだろうが、原文のまま引用することにしたい。
   なお、この資料で、陸軍次官・富永恭次中将の名前と再会することになった。私は、33歳の時の作品『戦争とたたかう――一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年、絶版)のなかで、富永を厳しく糾弾した。対談者の久田栄正氏(陸軍主計少尉・野戦重砲兵第12連隊)は、富永の名前を口にするたびに怒りの表情を露にしたのを記憶している。
   富永はサイパン「失陥」で東條内閣が総辞職すると同時に陸軍次官を更迭され、フィリピンの第4航空軍司令官となった。彼は特攻機が飛び立つたびに、「最後の1機には予が乗っていく」と勇ましく訓示していたが、米軍がルソン島に上陸する直前、ただ一人、99式襲撃機で台湾に逃亡してしまった。軍人の「敵前逃亡」は死刑、無期、5年以上の懲役・禁錮だが(陸軍刑法75条)、司令官の敵前逃亡は「司令官逃避罪」として、死刑だけが法定されている(同42条)。だが、富永は軍法会議にもかけられることなく、軍はこの大スキャンダルを隠蔽。富永は予備役に編入され、戦後も生き続け、余生を全うした。私は富永と安倍晋三がだぶる。安倍も「司令官逃避」として「死刑」(政治的死としての議員辞職)にならず、恥ずかしげもなく議員を続けているからである。
   富永の名前を発見したため正気を失い、思わず横道にそれてしまった。本論に戻ろう。以下、大塚大佐の『備忘録』から引用する。

 「陸軍内部にも意見あり。特に参本〔参謀本部〕では、女子供玉砕してもらい度しとの考えが良いとの意見があり。之を全部玉砕せしむ如く指導するについては、将来離島は勿論、戦禍が本土に及ぶ場合の前例ともなるので、大和民族の指導上重要で、事務的の処理でなく政府連絡会議のお決めを願度して上奏し、大御心の如何にして副うかを考えたしと、連絡会議で意見も出すが、自分は今迄の研究の結果は、女子供自発的意志において皇軍とともに戦い生死苦楽を共にするになれば、誠に大和民族の気魂は世界及び歴史に示されることが願わしいが、之を政府特に命令において死ねと言うのは如何なるものか。死ねと言っても心身疲労し、此大人数ができるか。皇軍の手にかけねばならぬ。
 (原文中略)
  之は果して大義か、大御心に副い奉れるか。と言って敵軍に渡すか、之も不可。一兵の存する限り背後にある大和民族は最後まで守る。一兵まで尽きた、玉砕した、即戦力が零になった、非戦闘員が自害してくれればよいが、已むを得ず敵手に落ちることあるも、已むを得ないではないかと、自分は幹事として考えり。この主旨で、御決定を願った。翌日大臣は上奏、非常に御心配になられた。
  (中略)
  この事に関しては、直接の課員までとす。政府と大本営との連絡会議で以上の如く決定したるも、個人又は陸軍の意見の如く流布するは不可。〔・・・〕」

  「即ち、陸軍省軍務局長佐藤賢了少将は、“居留邦人に自害を強要することなく軍とともに最後まで闘い、そして敵手に落ちる場合があってもやむを得ない”との主旨で、大本営・政府連絡会議の幹事として、会議決定ののち大臣から上奏して貰い、天皇の認可を得て処置したのであった。その根本は、将来予想される国土決戦における住民取扱いを念頭に、国民の士気を考えてのことであった。〔・・・〕」

  軍の議論の仕方は、女子供が自発的に自害するように指導したいが、本土決戦になったときの前例になるので慎重に扱う。命令で死ねといっても、大人数なので難しいが、軍が手にかけるのもまずい。自害してくれればよいが、敵の手に落ちるのも已むを得まい。こういう発想である。だが、「大和民族の気魂」を強調していることからも明らかなように、住民は敵の手に落ちるよりは死を選ぶことを内心は期待していることが十分うかがえる。ただ、「個人又は軍の意見の如く流布するは不可」とあるように、この動きはすべて秘密にされていた。
   以上は、サイパン戦における住民避難に関する軍内部の議論であるが、そこには沖縄についての、このような文章もあった。

 「7月7日 課長会報 軍務(課長二宮義清大佐)沖縄軍司令官より国民引揚げの具申あり。本日の閣議で認可するならん」

 「7月8日 局長会報  小笠原、沖縄住民は、希望者のみ引揚げしむ。軍に指示済み」

  沖縄住民は「希望者のみ」という言葉が象徴的である。この防衛庁防衛研究所の部内資料『国土防衛における住民避難』は、その第4章で「沖縄県民の避難」についても詳述しているが、それは学童疎開施策が中心である。「立退き者数調べ」では、県外への引揚げ者数は3万5000人弱にすぎない。25万人以上が残留したわけである。「希望者のみ」という方針が反映していたのだろう。
   第5章では「本土の沿岸地域住民の避難施策」の分析も行っている。それによると、本土決戦を前に、内務省の避難施策のなかで、避難の本基準は「待避、緊急避難、避難、退去」の4点である。すなわち「非警備能力者を敵の上陸切迫以前から計画的に安全地帯へ移すのを“退去”とした。しかし、原則として認めず、情勢推移上必要時には別示とされた。そして、上陸切迫に伴い非警備能力者を安全地域に移すのを“避難”とした。更に、砲爆撃発生に伴い、非警備能力者のみならず予定者を安全地域に誘導するを“緊急避難”とし、近傍の壕、地形に身を寄せるのを“待避”とした」。内務省の基準なので、老人・女性・子どもは「非警備能力者」という名称で呼ばれていた。

  防衛庁資料は、「おわりに」において、将来の自衛隊による防衛作戦への教訓がいろいろと引き出されている。軍や政府の「決断の遅れ」「その措置の不徹底」などが批判されている。そして、「沖縄の第32軍司令官から、中央への戦果報告の特命を帯びて上京した神直道少佐の記録にも見られるように、『余り景気の良いことを言って、戦いが事実上不利になる場合は、反軍的になる』に言い尽くされていると思われる」と総括し、「わが国の防衛を考えるに、いささかの参考になれば、幸いである」と結んでいる。この防衛庁の研究は、旧軍の住民避難対策のお粗末さを分析して、そこから教訓を引き出し、将来の自衛隊の作戦に役立てようというものである。
   序文を寄せた防研戦史部長は、「本施策〔住民避難〕は各自の人生観にまで及ぶ問題であり、かつ軍の戦力化と相剋する難問である。しかしながら、国の防衛を考えるに際し、その礎石の一つとして、敢えて関係方面の参考の用に供しようとするものである」と書いている(1987年7月)。

  渡嘉敷島の「集団自決」で生き残った金城さんの話にもあるように、住民は村長の号令で死地に向かって驀進した。家族への愛が深い分、傷口は深くなり、生き残って米軍に凌辱されないように確実に殺害していった。住民に自害するように仕向ければ、軍の命令を絶対と信じている住民は、死ぬ以外の選択肢がなくなる。「愛する者は、自ら手にかけることがせめてもの情け」となる。それをすべて予測して、軍の責任が問われない形で、住民に死を自発的に選ばせるのが望ましいという発想があったことは否めない。そうした構造のなかで、「集団自決」は起こったのである。
   軍による強制や命令の外見や形式にのみ着目して、軍の責任を相対化するあらゆる試みは、歴史への誠実な態度とはいえない。サイパン島「居留民の仕〔始〕末」に関する軍内部の議論は、後の沖縄戦における「住民仕〔始〕末」へと反映させられていく。

  ところで、軍の命令はあったのか、なかったのか。安倍内閣のときの教科書検定で、突如としてそんな「そもそも論」が登場し、検定意見で「バランス」をとって、軍の強制を薄める意見がついた。だが、軍の強制性については、実は10年前の最高裁判所の家永教科書訴訟第3次訴訟(国賠)判決のなかで明確に認定されていたのである。最高裁第3小法廷判決(1997年8月29日、判時1623号49頁)である。
   家永氏の国家賠償請求は否定されたが、教科書検定の修正意見に「裁量権の範囲を逸脱した違法がある」と認定された箇所が何点かあった。そのなかで、「沖縄戦の記述に関する修正意見」については、裁量権の範囲を逸脱した違法はないとされた。家永氏が「日本軍による住民殺害」だけを書いていたので、検定意見で「集団自決の記載を欠く記述は不適切」との指摘が入ったものである。法廷では、軍による住民殺害と「集団自決」のどちらが数が多いかといった点も争点となった。最高裁は「集団自決」についての記述を加えることを求めた修正意見について、裁量権の逸脱はないとしたが、とうの「集団自決」について、こう述べている。

 「原審〔東京高裁〕が認定したところによれば、本件検定当時の学界では、沖縄戦は住民を全面的に巻き込んだ戦闘であって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したが、沖縄戦において死亡した沖縄県民の中には、日本軍によりスパイの嫌疑をかけられて処刑された者、日本軍あるいは日本軍将兵によって避難壕から追い出され攻撃軍の砲撃にさらされて死亡した者、日本軍の命令によりあるいは追い詰められた戦況の中で集団自決に追いやられた者がそれぞれ多数に上ることについてはおおむね異論がなく〔…〕、右事実に照らすと、本件検定当時の学界においては、〔…〕日本軍によって多数の県民が死に追いやられ、また、集団自決によって多数の県民が死亡したという特異な事象があり、これをもって沖縄戦の大きな特徴とするのが一般的な見解であったということができる」と。

  最高裁は、はっきりと、「日本軍の命令により…集団自決に追いやられた」と認定しているのがわかるだろう。教科書を安倍カラーに染め上げようとした教科書検定官(新しい歴史教科書をつくる会系の人物)は、10年前に最高裁が認定した事実すらも曲げて、軍の行為を相対化しようとした点において、きわめて偏向していたといわざるを得ない。そうした人物が跳梁できた安倍内閣の異様さを改めて思う。

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