『朝日新聞』社会面に「青鉛筆」というコラムがある。以前、「おでん憲章」について紹介されたこともある。そこに昨年の暮れ、「ぎそうストア」という看板の写真が掲載された(『朝日新聞』2007年12月29日付。文・写真ともに秋田総局・矢島大輔)。秋田県潟上市にある商店の話。店主の祖父は佐藤義相(ぎそう)という。それにあやかって30年前につけられたものだが、昨年以来の食品偽装問題で客が「偽装」を連想したらしく、売り上げが減ったという。とんだとばっちりである。
なお、この新聞には、投書欄に「かたえくぼ」というコーナーがある。昨年の12月16日付(東京本社版)には、「『偽・欺・疑・犠』 日本列島が軋みだした――鯰(町田・マグマ)」とあった。
その「ギギギギッ」という軋みが聞こえるような昨年の大晦日、「『偽』の年から『技』の年へ」という直言を出した。すでにお読みの方も多いと思う。その4日前、12月27日のNHKラジオ第一放送「朝いちばん」では、「今年1年をふりかえって」と題して8分間ほど語った。平和や安全保障の問題についても「偽装」があること、とりわけ第5世代の戦闘機「心神」の開発やミサイル防衛構想の背後にある問題についても触れた。ラジオという媒体ではギリギリの話だったが、「対テロ戦争」の背後にある問題についても言及した。そして、市民には、素朴な「疑」の心を大切にして問い続けること、「偽装」を見抜く知恵と「技」を磨くことが求められていると結んだ。「疑の技」で最も大切なことは、「忘れない」(想起する、心に刻む、erinnern)ということである。
想起されるのは、世に「よい政府」というものは決して存在しないから、「疑の一字を胸間に存し、全く政府を信ずることなきのみ」という植木枝盛の指摘である(『植木枝盛撰集』岩波文庫)。自分の支持する候補が知事や市長になったからといって、当選すれば権力者である。だから、その知事が庁舎から「憲法を活かそう」といった垂れ幕をたらしたからといって安心してはいけない。知事の許認可権は絶大である。憲法尊重擁護義務(憲法99条)を課せられた権力者である。だから、市民は、常に緊張感をもって、その言動を監視しつづけることが大切なのである。
もっとも最近では、絶大なる支持をバックに「危ない」タイプの知事が増殖中である。女性を「ババア」といい、「99条違反結構。私はあの憲法を認めません」(03年3月4日の都議会)と言い切る暴言知事、徴兵制導入を無批判に語る、支持率93.7%(08年1月現在)の県知事、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」といってのける府知事…。お祭りのような選挙のあとに何がくるのか。小泉人気を背景とした「9.11」総選挙の悪夢をもう忘れたのだろうか。
「よい政府」、つまり「よい権力者」は存在しない。アメリカ建国の父、トーマス・ジェファーソンがいうように、信頼は常に「専制の親」であるから、猜疑心を持ちつづけることが求められるのである。逆にいえば、市民の「疑いの眼差し」にさらされている限り、政治権力は暴走と堕落を免れる可能性をもつ。つまり「よい政府」は存在しないが、それに接近することはできる。そのための最良の方法は、権力者が市民の猜疑心に晒され続ける仕組みである。
その点では、ジャーナリストの役割は決定的に重要なのである。ジャーナリストは権力(国家、地方を問わない)と距離を保ち、それを監視・批判・チェックすることを使命とする。市民にとって大事なことは、ジャーナリズムによる情報を参考にしながら(「大連立」を仕掛けて、政権いじりで権力そのものになろうとする大新聞トップもいるから、怪しいのだが)、権力者のやってきたことについて、「忘れない」ということである。
とはいえ、人間は年齢とともに記憶力が落ちてくる。50代半ばになって、私自身も、視力の極度の衰えとともに、記憶力の低下・鈍化・劣化を日々実感している。「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい」。これは、独裁者アドルフ・ヒトラーの『わが闘争』にある文章である(平野一郎・将積茂訳〔角川文庫〕上巻238頁)。「忘却力」は原文(Adolf Hitler, Mein Kampf, 246./247.Aufl., München 1937, S. 198)では“Vergesslichkeit”となっている。辞書には「健忘(症)」「忘れっぽさ」とある。ちなみに、この下りは「宣伝」(プロパガンダ)の意義と手法を説いた第6章にある。宣伝は「主観的一方的な態度」に徹し、「ドイツ人の客観性ぐるい」を打ち破ろうというのである。ヒトラーのような「宣伝」に乗せられないために、「忘れない」ということに特別の努力が求められる所以である。
このように、人間は誤りをおかし、それを忘れる。そしてまた誤りを繰り返す。そうした習性は終生なくならないだろう。だから、過ちをおかしても、システムに修正がきくようにしておくこと、あるいは、できるだけ誤りをおかさないように、さまざまな工夫をすること、さらには、誤りが起きた場合への対策をシステムにあらかじめ用意しておくことなどが必要なのである。憲法というのは、そうした役回りを果たしている。
ヒトラーとスターリンの暴虐を体験した戦後(西)ドイツは、憲法(基本法という)のなかに、その教訓を徹底して(ある意味では過剰なまでに)書き込んだ(直接民主制への否定的評価、大統領の形式化、「自由の敵に自由なし」の「たたかう民主制」の採用、等々)。これは特殊ドイツ的な面だが、より一般的にいえば、「任期制」が挙げられる。大統領の任期を2期までとするという制度設計は、「なぜ3期はいけないのか」と問われれば、憲法自身は直接的な答えを用意してくれない。ただ、長期政権は腐敗するという経験値と経験知をもとに生み出された工夫といえる。「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」(アクトン卿)という言葉通り、トップの任期を定めない国の最終的な到達点は「世襲」しかない。「人気があっても任期で辞める」ことの大切さを思う。
このように、憲法というのは、誤りをおかす可能性があり、かつ「忘れる」という人間の本性を熟知した上で、さまざまな「過ち」や「誤り」を体系的に整理・分類して、権力担当者に対してそれらの「記憶」をバックに「命令」として突きつけたものといえる。市民に対しても、常に「記憶」を呼び起こすよう求めている。憲法12条が、「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と定めているのは、そのためである。憲法とは、人間の本性や習性を十分に踏まえた、「記憶引き出し装置」の役回りも演じている。そういえば、憲法はどこか道路標識と似ていないだろうか。
例えば、思想の自由や信教の自由などは、「進入禁止」の標識である。国家は思想や信仰の内容に踏み込んではならない。また、車の通行に特別の負荷をかける(「学校あり、徐行」等)。こうしたものは、憲法にはたくさんある。例えば、「3分の2」の特別多数決のハードル。定足数は総議員の3分の1以上。定足数を満たした本会議で、「出席議員の過半数」で法律は可決できる。だが、議員の除名や衆院が参院が否決した法案を再可決する場合は、「出席議員の3分の2」である。そして、憲法改正の発議は、両議院で、それぞれ「総議員の3分の2」を必要とする。このハードルが最も高い。この微妙な違いには、事故なく車が円滑に走るための道路交通の規制と同様、国政が暴走することなく、円滑に運営されていく上での知恵や工夫が込められている。
このように、憲法には、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」が埋め込まれており、そこには、かつての「過ち」や「誤り」への反省とその再発防止の決意が踏まえられている。基本的人権はもちろん、憲法を基礎づけている原理・準則はすべて、「過去幾多の試練に耐えて」、さらに「将来の国民」にバトンタッチされていくのである。それは、表現が古くなったとか、現実とのズレが生じたという程度で変えていいほどの軽いものではない。
思えば、2006年に出版した拙著『憲法「私」論』(小学館)の「はしがき」では、昨年のキーワードとなった「偽」について書いていた。自分で読みなおしてみて、あの時期、あのタイミングにおける「偽」に関する言説が、凝縮して表現されていることに気づいた。
そこで、「忘却力」に負けないために、2006年3月14日に執筆した、拙著『憲法「私」論』(小学館)の「はしがき」全文を、下記に転載することにしたい。2年前の「空気」を反映してはいるが、いまに共通する問題や視点が含まれていると考えるからである。
はしがき
ずっと信用してきたものが、音をたてて崩れていく。暗い気持ちにさせられる出来事が次から次へと起きています。
この間の耐震強度偽装問題、ライブドア事件、米国産牛肉(BSE)問題、そして防衛庁談合事件。巷では「4点セット」と呼ばれました。そこに共通するキーワードは「偽」です。偽装、偽計、偽牛、偽入札と表現したメディアもありました。国会での追及が本格化しようとしていた矢先、民主党の偽メール事件が起きて、問題は十分に解明されないままになっています。「偽り」の連鎖の前に、人びとの間には、無力感すら漂ってきました。一体、この国はどうなってしまったのか、と。
「4点セット」の問題には、もう一つ共通のキーワードがあります。それは「安全」です。「住」や「食」の安全から、「国家安全保障」に至るまで、「見えない相手」(地震、株価、BSE、「テロリスト」等々)への対応を少しでも間違えれば、「知らないでほうっておくと、大変なことになりますよ!」という世界です。実は、この「4点セット」問題は、日米関係の「表」と「裏」に、深いところで関わっていることにお気づきでしょうか。
80年代半ばに始まる「日米構造協議」により、長い時間をかけて築いてきたこの国の仕組みや慣行などが、急速に変えられています。例えば、民間の「指定確認検査機関」が誕生したのは、98年建築基準法改正によってですが、それは、同じ年の「日米構造協議」の中身と深く関わっています。
ライブドアだけでなく、大規模な企業買収の背後には、米国ファンドの影がちらつきます。BSE汚染牛の調査でも、人の健康より、米国との関係が重視されました。この国に「食料安全保障」はないのでしょうか。
日米安保条約の目的をはるかに超える米軍再編(トランスフォーメション)のために、在日米軍基地グァム移転費用の大半を、日本国民の税金でまかなわせる。こんな傲慢な提案に、政府部内から疑問の声すらあがらない。防衛庁談合事件は、そんな「構造問題」の氷山の一角にすぎません。
前述の「構造協議」に基づき、米国は日本に対して「年次改革要望書」なる文書を出して、さまざまな分野の「構造改革」を露骨に迫っています。まさに「構造(Constitutuion)の押しつけ」です。Constitutionは「憲法」とも訳します。日本国憲法の改正理由として「押しつけ憲法」をいう人がいまだにいます。他方で、半世紀以上にわたり、対米軍事協力をギリギリ抑制してきたのは、憲法九条でした。「憲法(構造)改革」を求める米国が最も期待するのが、その9条2項の削除です。これこそ、「新たなConstitutionの押しつけ」ではないでしょうか。「すべての道(問題)は憲法に通ずる」です。いま、この国を約60年にわたって支えてきた屋台骨、日本国憲法が、「古くなった」「現状に合わない」「『新しい人権』がないから」といった理由で変えられようとしています。
でも、少し立ちどまって考えてみましょう。人間はそもそも間違う。それを大前提にしてつくられた「憲法」というものは、ただ「古くなったから」といった理由だけで、簡単に変えてしまっていいものなのでしょうか。憲法の規範と現実のズレ(乖離)が大きい場合、規範の方を変えるのは比較的容易にみえます。でも、憲法に反する現実の方を地道に変えていく。これも憲法に基づく国のあり方としては、とりうる選択肢のはずです。
この60年間、この憲法とともに歩んできた道をしっかり見据えて、いま、ここで憲法の「構造改革」に簡単に「イエス」をいってしまっていいのかどうか。憲法をどうするかという問題は、いま、一人ひとりの「私」の問題になっているように思います。本書は、世界と日本を巡ってきた著者の旅を通じて、世界と日本の「現場」をピックアップし、そこから問題を掘り下げていきます。
旅の醍醐味は「道に迷うこと」です。うまく目的地に着けなかったばかりに、思わぬ発見をすることがあります。もちろん、その逆もある。トラベル(旅)はトラブル(問題)の宝庫です。
本書には、憲法の条文やその解釈はあまり出てきません。憲法の規範(理念)を常に念頭に置きながら、さまざまな「現場」での出会いと発見を通して、憲法をめぐる「思索の旅」に読者を誘うことが本書の目的です。
憲法改正国民投票法案が政治日程にのぼってきたいまこそ、読者の皆さん、一人ひとりが、憲法に関する「私」の見解をもつ必要があるのではないでしょうか。本書を、「思索のナビゲーター」の一つにしていただければ幸いです。(水島朝穂『憲法「私」論――みんなで考える前に ひとりひとりが考えよう』〔小学館、2006年5月10日刊〕2~5頁)
【付記】入試・学年末の繁忙期のため、ストック原稿をUPします。