「発砲禁止」。山のなかを散歩しているとき、ある標識の前で思わず立ち止まった。あまりにもストレートな表現だった。これは一般の通行人に向けたものではなく、明らかにハンターに対するものだろうが、近所に住宅もあり、かなり違和感があった。しばらく歩くと、今度は「狩猟禁止区域」という看板を見つけた。「人家集中区域のため発砲を禁止します」とある。冒頭の看板の直接的表現に比べれば「穏和」だが、あまりいい感じはしない。その先には、「銃猟禁止区域」の看板があった。銃以外の手段による「狩猟」はいいのだろうか。さらに行くと「鳥獣保護区」の看板。車の通る県道には、「発砲禁止」から「銃猟禁止」に差し替えたと思われる電信柱を見つけた。やはり「発砲禁止」は生々しすぎるという配慮だろうか。
この標識のある地域では、朝の7時前なのに、防災放送が大音響で、「本日午前○時より有害鳥獣の駆除を行いますので、森や林のなかには入らないでください」というアナウンスを流すことがある。「有害鳥獣」とは何だろう。松林のなかにリスやサルがいるのをみたことがある。シカの群れにも出会った。人間の生命・身体への危険という「有害性」の観点でいえば、クマやイノシシを想定するのがふつうだが、人里に降りてきて農作物を食い荒らすという経済的「有害性」からみれば、シカも「駆除」の対象となるのだろうか。「ゴミを捨てた人は死刑です」という看板を出す人もいる。不法投棄に怒ってズドンということはないと信じたいが、電車のなかでも、ちょっと体が触れただけで、ものすごいリアクションをする人が増えてきたこのご時世では、それもわからないところが怖い。人が暴力を使うことへの敷居はだいぶ低くなってきたように思う。例えば、猟銃をもつ人が、冷静に自分をコントロールできない場合、刃物などに比べ、広範囲に被害を及ぼす。山道で猟銃をもつ人と出くわしたとき、その人が常に紳士・淑女(まだ会ったことはないが)であるという保証はない。
昨年12月14日、 長崎県佐世保市のスポーツクラブで男が散弾銃を乱射して、2人が死亡、子どもなど6人が負傷した。長崎といえば、昨年4月17日の 長崎市長射殺事件が鮮烈な記憶として残っている。実は市長射殺事件の前日、米国のバージニア工科大学で、32人が射殺される大惨事が起きていた。翌日のドイツ紙(die tageszeitung vom 18.4.2007)の一面トップは、全米ライフル協会(NRA)の文書の前で少女たちがライフルを携えている写真だった。
今年に入っても、米国では銃による事件はあとを絶たない。特に先月は、銃犯罪が際立って多かった。2月7日、ミズーリ州カークウッドで、市議会に男が侵入して銃を乱射し、5人が死亡した。同じ日、オハイオ州ポーツマスでは、女性教師の夫が教室に侵入。児童の目の前で妻(教師)を銃で撃った(『朝日新聞』2008年2月8日付夕刊)。翌8日にはルイジアナ工科大学の教室内で、女子学生が他の2人の女子学生を射殺して、自殺した。14日にはノーザン・イリノイ大学で、元大学院生が授業中の大教室に乱入し、学生5人を射殺した(cnn.com)。その直後に記者が、大学のキャンパスで銃規制強化について取材したところ、「銃の取得を困難にすべきだ」「(憲法上の)武器保有の権利も結構だが、犠牲が大き過ぎる」といった声があがる一方で、「犯行の決意が固ければどこかで手に入れて使う。規制による防止は困難だ」といった意見が出たという(『読売新聞』2月19日付)。
銃を犯罪に用いる人をなくすために、包括的な銃規制法を制定し、銃の製造、販売、譲渡、輸出、所有、所持、使用などを禁止するのが一番効果的である。1993年のブレディ法(銃販売における審査機関の設置、登録制度)、1994年「攻撃用銃器規制法」がそれぞれ制定されたが、全米ライフル協会の反対で廃止されてしまった。
なお、写真はこの1月にたまたま入手した、全米ライフル協会の会員バッジである。真鍮製で、裏側はかなり錆びている。この会員たちは、常に米国憲法修正2条を強調する。「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」と。あたかも信教の自由や言論の自由と並ぶ、不可侵の人権のようにも読める。実際、そのように解する説もあるが、しかし、州が独自の武装力をもつことを連邦政府に対して主張する根拠となる条文であり、個人の武装権の保障というよりも、州の権限をより明確に押し出すところに主眼があるとする説も有力である。銃によって身を護るといいながら、家族を間違えて撃ってしまったりと、銃という手段が目的を破壊する例があとを絶たない。修正2条をおおらかに解釈することはやめにするところから、「銃社会からの卒業」は始まるといえよう。
さて、日本における銃の所持者は、約15万7000人(約32万6000丁)という。長崎の事件を受けて、全国の警察本部が、銃の所持者を対象とした調査を行い、全体の41.9%にあたる6万6000人(約13万4000丁)の調査を終えた。その結果、自主返納した人が2795人(4322丁)いた。90人が「不適格」と判断され、銃所持の許可証を返納させられていたという。なかには、ストーカー行為やドメスティックバイオレンス(DV)で被害者から警察に相談を寄せられている人も含まれていたという(『読売新聞』2008年2月7日付夕刊)。
警察庁によると、2007年の1年間で、全国で起きた発砲事件による死傷者は40人。2006年の19人よりも倍増した。死者も2人から22人に急増した(同上)。警察官が、同じ交番で立て続けに拳銃自殺したり、あるいは東京駅の交番で拳銃自殺した警察官が、銃刀法の「発射罪」違反で、被疑者死亡のまま書類送検されたりしている。自殺の場に選んだところが、多数の人々が行き交う東京駅である点が考慮されたものである。
そうしたなか、本来銃を携帯してはならない民間人が、実弾入りの拳銃を携帯したまま市内を移動したことが明らかとなった。これは本土の新聞ではほとんど報じられなかった。私はこれは重大な問題だと思う。
在沖海兵隊基地では、1983年から日本の民間人である基地警備員に拳銃携帯をさせてきたという。2001年の「9.11」以降は警備は厳重になった。そしてついに、この2月11日と12日の2日間、延べ59人が実弾入り拳銃を腰に帯びて、徒歩あるいは車で、うるま市内を移動したという。沖縄県警は銃刀法違反にあたるとしている(『沖縄タイムス』2008年2月27日付)。
従来、基地間の移動の際には、日本人従業員の拳銃は米軍憲兵が預かって運び、次の基地内に入ってから再び渡していた。今回はその手間を省いたのかどうかはわからない。基地外に出てきたことが問題とされたが、そもそも民間人に拳銃を携帯させることは、基地内であっても許されない。『沖縄タイムス』2月28日付社説は、「憲兵隊司令官らが違法性を十分認識した上で基地外での拳銃傾向を命じていたとすれば由々しき問題であり、在沖米軍は憲兵隊司令官ら幹部に問いただし、厳正に対処してもらいたい」と書いている。基地警備員に始まり、次第に現金輸送車のガードマンや要人警護のガードマンなどの拳銃携帯を認める「規制緩和」に向かうのではないか。米国なみの「銃社会」への道はごめんである。
私にはたまたまテレビでみた、ある映像が目に焼きついている。銃により息子を奪われた父親が、銃の恐ろしさをきわめて具体的に説いていた。それは先月、ちょうどテレビをつけると、民放のニュース(残念ながら、どこの放送局か記憶にない)の特集をやっていた。途中からだったので、最初は何がテーマだかわからなかった。年輩の男性が若者に写真をみせて何かを説明している。男性は、遺体の射入口の写真を示し、「弾丸によって体にあいた穴は小さいが、内部はこうなっている」として、レントゲン写真をみせていた。筋肉が断裂し、骨が砕けている。男性の息子の写真だった。若者たちはショックで、顔をこわばらせている。この父親は、息子の死をきっかけに銃をなくす運動をしていて、その説明の仕方として、銃撃された人体のレントゲン写真を用いている。淡々とした説明なのだが、息子を奪われた父親の怒りと悲しみが伝わってきた。この国にも銃社会が近づいている。それを阻止するためには、さらなる銃規制の強化が求められるとともに、「力による自己実現」の風潮の克服が求められている。