06年8月25日、福岡市「海の中道大橋」で、飲酒運転の車に追突されたRV車が海に転落。幼児3人が死亡するという悲惨な事故が起きた。追突した車を運転していた男性は危険運転致死傷罪で起訴され、懲役25年を求刑された。今年1月8日、その判決公判が福岡地裁であった。被告人には業務上過失致死罪と道路交通法違反で懲役7年6月が言い渡された。その夜のテレビ朝日系「報道ステーション」で、古舘伊知郎キャスターはこうコメントした。「日本は法治国家ですが、情治国家でもあるはずです」と。仕事をしながらテレビをつけていたのだが、「じょうちこっか」という言葉に、私は思わず「エッ!」という声を出した。生の欲望が支配する「情痴国家」や宗教による「上智国家」、さらには人の支配となる「人治国家」を克服して、「法治国家」となった歴史を忘れたのか。古舘キャスターの瞬間的な言葉遊びで、おそらく本人もその言葉の意味を深く考えたわけではないだろうが、遺族の怒りや悲しみの声、厳罰を求める「専門家」のコメントを聞かされたあとでは、その一言に違和感を覚えた人は多くなかったのではないか。
それにしても、大きな事件・事故が起きると、どのチャンネルも、朝、お昼、午後2時から3時台に流されるワイドショーで繰り返し取り上げる。被疑者の名前や被害者の家族構成まで、人々の頭に詳しく刷り込まれる。職場や学校での話題にものぼる。そして、ネットの掲示板では、激しい言葉が飛び交う(厳罰化が圧倒的)。
ワイドショーで、犯罪や政治的事件が「劇場型」や「激情型」の扱い方をされていることに影響されてか、この国の世論は 厳罰主義への傾きを強めている 。「9.11」の2カ月後、警察官の「拳銃取り扱い規範」(国家公安委員会規則)が改定され、 武器使用へのハードルも下げられた 。最近では、法務大臣がほぼ2カ月のおきに(従来は慣行的に回避された国会開会中においても)死刑執行命令書にサインするようになり、この国の 死刑執行は二桁台になった 。「 ベルトコンベア処刑 」を実践しているかのように。そうしたなか、「故意」と「過失」の違いを無視した乱暴な議論も、「情」に押されて広められている。
「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りではない」(刑法38条)。過失を処罰する場合には、法律に特別の規定が必要である。だから、故意犯である傷害罪や傷害致死罪のほかに、あやまって人を傷つけたり、死に至らしめた行為を処罰するために、過失傷害罪(209条)や過失致死罪(210条)が置かれ、自動車運転などによるものには、業務上過失致死傷罪(「業過」)が別個に設けられている(211条1項)。これに07年6月12日施行の「自動車運転過失致死傷罪」(211条2項)が加わった。
どんなにたくさんの命が失われても、それが交通「事故」にとどまる限り、その運転者が殺人罪に問われることはない。しかし、そうとわかっていても、可愛いわが子を奪われ、悲嘆にくれる両親が、思わず「飲酒運転の殺人者を死刑にしてほしい」と叫んだとき、誰も非難できないだろう。飲酒運転による悲惨な事故をメディアがキャンペーンするようになってからは、政治家や官僚や裁判官も、世論の 重罰感情に応えるようになってきた 。
その結果、危険運転致死傷罪(208条の2)と自動車運転過失致死傷罪(211条2項)が新設されたわけである。学説上もいろいろと議論がある。故意と過失の線引きの相対化を含むことから、特に危険運転致死傷罪の定め方は容易ではない。
危険運転致死傷罪は、01年12月25日に施行されたが、適用例は必ずしも多くはない。 六法をみれば 、その条文上の位置関係からも、立法者の「悩ましさ」が理解できるだろう。交通事故はあくまでも「過失」であり、刑法第28章の「過失傷害の罪」の章に置かれた211条が適用される。その2項は自動車運転過失致死傷罪ということで、法定刑は7 年に加重されているが、これは過失傷害罪の「特別罪」という性格をもち、「過失」の世界にまだ軸足を置いている。
これに対して、危険運転致死傷罪は、刑法第27章の「傷害の罪」の章にあり、故意犯である暴行罪(208条)の枝番として、208条の2に位置する。もちろん、新たな条文を加えるときの立法技術として、枝番というものが使われるが、一般に、 もとの条文と枝番の条文とは内容的に直接の関係がない 。しかし、故意犯である「障害の罪」の章に入れたということは、業務上過失致死傷罪とは異なり、故意の世界にある程度軸足を移すような定め方をしていることは見逃せない。だから、酒を飲んで無謀な運転をしても、「正常な運転が困難な状態」とまではいえないときは、この規定の適用はないのである。
本件で福岡地裁は、208条の2では無罪判決になる可能性が高いと踏んで、07年暮れ、211条の訴因追加を検察官に命令した。裁判所は、危険運転致死傷罪の適用には慎重だった。だが、世間は満足しない。冒頭の古舘キャスターの言葉はこういう脈絡のなかで発せられたものだった。なお、検察側は危険運転致死傷罪の適用を求めて福岡高裁に控訴。他方、被告人も量刑が重いと控訴した(本年1月22日付各紙)。
ハンドルを握ると性格が変わるといわれる人もいる。「走る凶器」に乗れば、人はきわめて「危ない存在」となる。交通事故を起こせば、刑事、民事、行政(免許証取消等)の責任に問われる。年間の交通事故のうち、75万件が「業過」で起訴されているが、危険運転致死傷罪の方は0.1%に満たない。メディアが取り上げる「有名な事故」に引きづられて、故意犯と過失犯の境目を取り払うような議論をすべきでない。同時に、被害者の生活支援や具体的な被害者「保護」の中身を充実させるべきだろう。日本国憲法が、人権条項の3分の1も割いて、刑事手続上の権利を厚く保障していることの意味は、決して過少に評価されてはならないだろう。「情治国家」から徹底して距離をとることが大切なのである。
付記:都合により、今週は、 4月13日に、 法学館「今週の一言」に執筆した「『情治国家』の危なさ」(2008年4月14日掲載)を転載する。なお、4月22日の広島高等裁判所判決(「光市母子殺害事件」差し戻し控訴審)については、NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」において詳しく述べたので参照されたい。