毎年、清水寺の森清範貫主が、特大の和紙に揮毫し、漢字1字でその年を表現している。2006年は「命」、2007年は「偽」だった。安倍晋三(当時・首相)が記者に、「今年を漢字1 字であらわすとどうなるか」と問われ、一度目は「『変化』ですね」、二度目は「『信頼』ですね」と答えて失笑をかったのは記憶に新しい。まったく偶然だが、2008年は安倍が口にした「変化」の「変」が選ばれた。世界的な金融危機、経済不況、大量失業時代の予兆も出てきた、何とも「大変」な年であった。突然の豪雨や落雷など、気象の「異変」も際立った年だった。他方、この年の11月、ブッシュ政権の停滞と破壊の8年間に終止符を打つような、巨大な変化が米国で起きた。バラク・フセイン・オバマが大統領に当選したからである。ある種の「チェンジ」(変革)が始まったことは間違いない。ただ、その方向と内容については、即断と楽観を許さない。
「変」という点でいえば、今年は「事変」につながる芽を含む年でもあった。田母神俊雄(当時・空幕長)の「論文」問題は、ペンを使った「叛乱」といえる。航空自衛隊の現職トップが、偏狭な歴史認識と論理の飛躍、無理な決めつけと断定に溢れた「乱文」を、民間企業の懸賞論文に応募して、そこで政府見解を正面から批判したということだけが問題なのではない。任命権者たる大臣の指示に従わず、国会でも公然と居直りと反抗の姿勢をとり続けたことも問題だが、何よりも統幕学校長時代から、その地位と、息のかかった部下を使って、偏狭なイデオロギー教育を幹部自衛官に施すカリキュラムを組み込むなど、系統的・組織的な行動をとってきたことが重大な問題なのである。これは教育課程に特殊なイデオロギー的時限爆弾を仕掛けたようなものである。最高幹部によるこのような動きは、自衛官にも表現の自由があるというレヴェルの議論では片づけられない。田母神の論理を突き詰めていけば、これは「クーデター」の思想につながる性質のものである。ちなみに、実際に空軍がクーデターを起こした例はユーゴ(1941年)、シリア(1970年)、ガーナ(1981年)などであり、1973年の「9.11」でアジェンデ左派政権を倒したクーデターの際、午前11時52分に真先にモネダ宮(大統領官邸)を爆撃したのは、空軍のグスタボ・レイ将軍配下のホーカーハンター戦闘機だった。そのようなことは日本ではありえないと思いたいが、経済・社会の混乱と、政治の機能不全が続くなかで、極端な使命感に燃えた者が突出してくる可能性は皆無ではないだろう。
その後、田母神の思想と行動を賛美する動きが出てきた。例えば、雑誌『Will』2009年2月号は93ページに及ぶ「総力大特集・田母神論文を殺すな!」を組んだ。漫画家・小林よしのりとの巻頭対談で田母神は、彼を批判した防衛大学校長に対してまでも、口をきわめて非難している。また、特集の読者投稿欄には、「田母神氏に三島を見た」という高校生(17歳)の文章も掲載されている。「三島が決起してから38年、日本の国体は年々、衰退の一途を辿っている」という認識のもと、「強い国のためには、自衛隊自体が軍としてしっかりとした国を愛し、守る気持ちを持つことも田母神氏は訴えたのではないだろうか。この論文で感じた日本人としての精神と誇り、過大表現かもしれないが、田母神氏の超越的な大和魂。これはまさしく、三島由紀夫に通ずるものがあるし、私は田母神氏に三島由紀夫を見た」と結ぶ。田母神は『Will』発行元の出版社から、『自らの身は顧みず』という著書を発刊し、「私は『日本が素晴らしい国だ』と言ったら解任された!」と繰り返している。昭和10年代、真崎甚三郎をはじめ、予備役編入された将軍たちの果たした役割を想起するとき、この元「空軍大将」を野に放った2008年は、やはり「事変」への芽を含む年だったといえるだろう。
田母神事件と並んで、2008年に「事変」への芽を感ずるもう一つの出来事は、埼玉と東京で連続して起きた、厚生省元次官宅襲撃事件である。これが起きたとき、メディアは「年金テロ」と報道した。私は容疑者逮捕前に執筆した「直言」で、「簡単に『テロ』と決めつけてしまわない冷静さが求められる」と書いた上で、「政策や制度の立案に関わった実務者を意識的に狙う手法」に注目して、「義侠心や歪んだ正義感、あるいは個人的な八つ当たり」など、動機は不明だが、「必殺」の決意で相手を襲う事件が発生したことの危なさを指摘した。いまも、その「空震」的波及効はさまざまな分野に及んでいるように思う。
こうした事件は、「変人」による単独犯行として処理するのが楽である。だが、日本社会の変容は、このような人物を社会の奥深くで生み出しているように思う。いつ、マグマのように吹き出してくるか分からない。それを促進するのは、政治、経済、社会の不条理・不合理の蓄積である。
麻生内閣のもと、日本の政治は落ちるところまで落ちた。与党の内部も混乱し、まともな政府・与党の状態ではない。「国民的人気の麻生太郎氏が総裁に」と煽ったのはメディアである。あの時点で、彼に「国民的人気」があったのか。一番勘違いしたのは麻生本人だろう。9月24日の組閣の際、通常、閣僚名簿は官房長官によって読み上げられるのだが、麻生は首相として自ら閣僚名簿を読んだ。各閣僚への注文までつけて。俺様だけでいい、という「お一人さま内閣」状態だった。
そして9月29日、麻生首相は事務次官会議で、「麻生四訓」を示して、霞が関に号令をかけた。
(1)スピーディーを旨とせよ。
(2)悪い情報ほどすぐあげよ。
(3)省益を捨て、国益に徹せよ。
(4)「これは自分の仕事ではない」と決して言ってはいけない。むしろ、自分の仕事を探せ。
の4項目である(『朝日新聞』9月30日付)。これを記憶している官僚が何人いるだろうか。いまとなっては、「麻生四訓」というだけで、下手なジョークのように響くから不思議だ。「スピーディに決断し、スピーディに撤回せよ」(麻生流「朝令朝改」)、「よい情報ほどすぐあげよ」等々、「新・麻生四訓」をつくって皮肉る暇もないままに、ポスト麻生が話題になりつつある年の暮れである。
2008年の日本政治を総括するとき、8月に内閣改造があり、その1月後に福田内閣総辞職、麻生内閣誕生、3カ月もたたないうちに支持率が10%台に転落。政治不信を超えた政府不在。無政府状態に近いといえるだろう。
経済・社会の仕組みを大規模に変えた「構造改革」。それがもたらした惨憺たる荒野が私たちの前に広がっている。何よりも問題は、日本社会を支えていたセーフティネットがズタズタに破られ、体勢を立て直すよう余裕すら与えられずにいきなり転落するという、保障も相互扶助もない社会になったことだろう。
冒頭に紹介した清水寺・森貫主は、インタビュー「この国はどこに行こうとしているのか」『毎日新聞』2008年12月5日付夕刊特集ワイド)で、魚や虫をとる「網」のことを語っている。「網を見てください。必ず上下左右の糸を共有しているでしょ。そのつながりが網を構成しています。ひとつの糸だけでは網にはならない。利己やなしに利他の心がないと、うまくいきませんわなあ」。こう述べて、麻生首相の、「たらたら飲み食いして何もしない人のために、何で〔医療費を〕払う必要があるの」という言葉を厳しく批判している。
「派遣切り」「内定切り」など、雇用の問題が毎日のトップ記事になる日が続いている。年の瀬の寒空に、セーフティネットからこぼれ落ちた人々が放り出されている。金融・経済危機を理由として、最も弱いところにしわ寄せがきている。日本社会の寒々とした状況をどのようにして治していくか。まさに、この社会の「復興」が課題となろう。これは、また改めて論ずることにしよう。
では、2008年に希望につながる芽はあったか。一つだけ挙げれば、12月3日、ノルウェーのオスロで、日本を含む100カ国が、「クラスター弾禁止条約」(オスロ条約)に署名したことだろう。条約は来年中に発効する。昨年(2007年)12月17日付『朝日新聞』月曜コラムで私は、福田首相(当時)に「オスロ・プロセス」への参加を選択するように求めた。あれから1年、事態は大きく動いた。
毎日新聞論説委員の中井良則はこの条約の意義を、「シニシズム(冷笑主義)を破った」点に求める(『毎日新聞』12月17日付「記者の目」)。「斜に構え、世の風潮をあざ笑う。安全地帯に潜んで他者の言動をけなし、自分は動こうとしない。そんなシニシズム(冷笑主義)はどこでも幅をきかす。だが、シニシズムを破った人々がいた。この条約の意義を私はそこに見いだす」と。NGOと推進派の国が連携して、地道な努力を続けてきた。米国に追随する日本は土壇場で賛成にまわった。いやいやだったことはよくわかる。が、福田康夫が首相として行った、条約への態度変更の決断は、彼が残した「かすかな光」だった。中井はいう。「シニシズムの壁を破る一人一人の個人が歴史を動かす」と。
「一人一人の個人」が国内のセーフティネットを再建するだけでなく、グローバルな「格差社会」の現状を踏まえて、「平和を愛する諸国民」の連帯と連携のなかで、グローバルなセーフティネットを構築していくこと。これを2009年に向けた、変革への光と考えたい。
(文中・敬称略)