1997年4月からNHKラジオ第一放送「新聞を読んで」のレギュラーをしている。今年4月25日の放送で、ちょうど12年になった。この番組は、1953年4月に始まった長寿番組である。私はその年の4月3日生まれだから、この番組は私の人生と完全に重なることになる。早朝の時間帯に、1週間分の新聞について語るという地味な番組だが、12分30秒(この4月から8分に短縮)が自由に使える。コメント8秒ないし15秒、あわただしいテレビの世界とは大きな違いである。
NHKのラジオスタジオは小さい。机と椅子、マイクと古びたカウント装置だけ。ガラス越しに、調整室のディレクターからの合図を待つ。
この番組は、10人の大学教授、作家、ジャーナリストなどが、ほぼ3カ月に1回のペースでまわしている。何を、どのような切り口で語ろうとも自由。毎回、私が「直観」で選んだ出来事を語るので、事件が起きた「その時」の雰囲気や、その事件が問題にされたときの「気分」をそのまま伝えている。そうやって、3カ月に一度、いわば新聞紙面の「定時観測」をしているわけである。
毎日のように、全国紙3 紙と東京新聞を読んでいる。自衛隊の準機関紙(『朝雲』)やドイツの週刊誌(シュピーゲル)など数誌を定期講読している。また、地方紙やブロック紙、米・独・中・韓4カ国の新聞各紙も、インターネットで毎日チェックしている。全国紙の場合、本社(東京、大阪、西部)ごとに記事の扱い(見出しや分量、切り口など)が異なるときは、必要に応じ、各本社版の記事を、知り合いの記者に、メールやファックスで送ってもらったこともある。また、インターネットがまだ十分に発達していない頃は、地方の新聞社に電話をかけて、記事をファックスしてもらったことも。
放送で話す内容は、収録の直前に決めることにしている。何日も前から準備していると新鮮さが失われるからである。切り抜きの山のなかから、収録当日に選定したものを素材に、原稿化していく。なかなかまとまらず、脂汗を流しながら執筆したこともある。収録時間ギリギリまで推敲して、スタジオに駆け込む。この緊張感がいつの間にか、「快感」になっていた。
長くやっていると、いろいろな思い出がある。体調不良で声が出ないときもあった。韓国での仕事を終えた直後にスタジオ入りしたときは、ディレクターの指示で、「韓国での新聞を読んで」として語ったこともある。また長崎で台風にあい、暴風雨のなか、ホテルの部屋で、手書き原稿を準備したことも。
土曜夜(「ラジオ深夜便」の枠)と日曜早朝の2 回放送していた頃は、担当ディレクターに、「こんばんは」を使わないように言われた。参議院選挙の投票日の朝に、私の話が放送されたこともある。
早朝にもかかわらずさまざまな方が聴いておられるようで、意外な方から「ファンです」といわれ驚くことがある。総じてリスナーの年齢は高い。若者は早起きが苦手だから、私のゼミ学生ですらほとんど聴いていない。
1998年に「周辺事態法案」について語ったときは、防衛事務次官のA氏がたまたま自宅で聴いていたようで、部下2人を「ご説明」に私のもとによこしてきた。「直言」をプリントアウトして分厚い束にして持参したのには驚いた。いろいろ話をしたが結局、「まだ残念ながらご理解をいただけなかった」というところに落ちつかせようとする。決して「見解の相違」にしないのが官僚の特徴である。なかなか面白い体験だった。
「沖縄からの新聞を読んで」という形で語ったこともある。2004年8月13日、沖縄国際大学(宜野湾市)に、米軍普天間基地所属の輸送ヘリコプターが墜落・炎上した。各紙東京本社版の扱いは小さく、事件後に沖縄入りした私は地元紙との違いに驚いた。東京に戻ってすぐに収録だったので、かなり熱く語った。
最初の放送はいまでもよく覚えている。1997年4月26日(土)。この時は、臓器移植法案の衆議院通過について語った。新聞に掲載された作家・柳田邦男氏の意見に注目し、放送で詳しく紹介した。法案に対して慎重論がかなりあったので、できあがった法律は妥協的なものとなった。それから12年が経過し、たまたま今年4月25日の放送で、臓器移植法改正をめぐる問題について扱うことになった。0歳児からでも移植ができるようにしたり、本人の同意がなくても、家族の同意で足りるとしたり、脳死を「人の死」とする方向への法改正の動きが急である。その模様を、『朝日新聞』4月22日付「時々刻々」は、「移植法改正 走る国会」という見出しで報じた。「走る」という表現が生々しい。これを、放送では次のように紹介した。
《…法案早期成立を、自らが臓器移植の経験者でもあり、今期限りで政界を引退する河野衆議院議長への『はなむけ』としたいという与党内の事情があるようです。この記事の見出しは、『移植法改正 走る国会』です。党議拘束を外して採決を急ぐ。参議院が否決すれば、またも3分の2の再可決。『人の死』を法的にどのようにするかは厳粛な問題ですが、『走る国会』という表現がされる現状に、何ともいえない違和感を覚えました》
こうして、再び臓器移植法の問題をラジオで語ることになったわけで、これも何かの縁だろう。ただ、12年前と比べると、現在は、すべてが落ち着きのない社会になったような気がする。「走る国会」という表現にも示されるように、一事が万事、あわただしい。「人の死」をめぐる重要な問題である。もっと時間をかけ、慎重の上にも慎重な審議をすべきだろう。
ちなみに、新聞との付き合いはけっこう長い。雑談の「『新聞を読んで』余滴」で「手の内」を明かしたが、私は新聞の切り抜きを高校1 年のときから、毎日欠かさず行っている。かれこれ40年は続けている。新聞をチェックしないと気分が悪いという、これはもう「体感」的なものかもしれない。だから、家をしばらく留守にしたあとは、まとめて新聞切り抜きをやることになる。かなりの量の新聞切り抜きが段ボールに入る。でも、放置すると単なるゴミの塊になる。引っ越すたびに、段ボールごと処分してきた。それでも手元に少しは残る。そうやって得た切り抜きは、真に利用価値のある資料となる。
その一例が、黄色く変色した1973年9月7日付『読売新聞』と『朝日新聞』の夕刊(「札幌地裁、自衛隊違憲判決」)である。これをプロのカメラマンが撮影して、4月に出版した福島重雄元裁判長との共著『長沼事件 平賀書簡 —— 35年目の証言』(日本評論社)の表紙と本文に使用した。新聞縮刷版と違い、時間の経過で変色した紙面は、折り目も含めてリアルだと思う。
なお、こうした新聞利用法を続けてきた者からすれば、「ヒロシマ新聞」(中国新聞社)や「沖縄戦新聞」(琉球新報社)のような、歴史上の、新聞の可能性を示唆するものとして、高く評価できる(直言「『その時』の新聞を読んで」)。
ところで、私以外にも多くの方が語っているが、いまどきの学生たちは新聞を読まない。これは困ったことである。彼らはほとんどネットから情報を得ている。確かにネットは情報の量では圧倒的に多いし、速い。だが、新聞紙面に散りばめられた事件や評論から、思考につなげていく「ムダな時間」が、ネットでは省略されてしまう。この「過剰な効率性」は、情報を読み解く能力を劣化させているのではないか。私は、どんなにネットが盛んになっても、「新聞紙」を使った情報収集の価値は失われないと考えている。これからも、「ラジオで新聞を読む」という、この地味な仕事を続けていきたいと思っている。
この12年間、ラジオの放送内容は、すぐにホームページにUPしてきた。それをまとめて、『時代を読む —— 新聞を読んで1997-2008 』(柘植(つげ)書房新社)として、この5月1日に刊行した。個々バラバラに起きている事柄が、12年の単位でみると、いろいろとつながってくるから不思議である。そして、さまざまな出来事・事件が、記者の文章の勢いや、それを紹介する私自身の気分も絡んで、「現在進行形」で叙述されている。こうやって、時代の「呼吸」や「体温」も感じ取ることができるのではないかと、内心思っている。
《付記》『国公労調査時報』553号〔2009年6月号〕「同時代を診る」連載53回「ラジオで新聞を語る」と重なる部分があることをお断りしておきたい