壁 に走る真っ黒な影。 沖縄国際大学1号館の壁についた、米海兵隊輸送ヘリ墜落の生々しい傷痕である 。鳩山首相の記者会見(5月28日)は、沖縄の人々の心に、このような深く暗い「影」をつけた。
この記者会見は、9時のNHKニュースの生中継でみた。翌朝、新聞に掲載された会見要旨を横に置いてYouTubeで再度みたが、10分ほどでやめてしまった。すべての言葉が宙に浮いた印象で、空虚かつ空疎に響くのである。「地元、連立[与党]、米国、この3者の理解を得て、それぞれがこれでいこう、という気持ちになることをこの5 月末に目指してきました」と首相はいう。 「三兎を追った」わけである。だが、誰が考えても、3者が「よし、これでいこう」というような解決はもともと無理だった。首相によれば、オバマ大統領とは当日朝に電話で話し、歓迎されたそうだが、おそらく米国政府もこの解決を心底評価しているわけではないだろう。結局、「よし、これでいこう」と思った人は誰もいなかったのではないか。これは「一兎も得ず」の状態に近い。
首相会見で最も違和感があったのは、謝罪の言葉が「結果的に」という言葉とセットで使われていたことだろう。 「沖縄の皆様方を結果的に傷つけてしまうことになったことに対して心よりおわび申し上げる」「結果として、福島大臣を罷免せざるを得ない事態に立ち至った…ことは誠に申し訳ない思いでいっぱいである」等々。自分としては不本意だが、流れのなかで仕方なしに傷つけた、あるいは罷免したのだと言いたいのだろう。ここには、首相としての責任や主体性はまったく感じられない。
昨年7月、首相は「最低でも県外」と発言した。これは文字通り、「県内」は含まれないというのが常識的理解である。今年4月25日には、「辺野古の海が埋め立てられることの自然への冒涜を大変強く感じた」「現行案が受け入れられる話は、あってはならない」とも語った。現地では、これで辺野古はないと受けとられた。現行案にもどることが「あってはならない」という言葉には、強い意志が感じられた。これらの言葉はすべて翻訳され、その都度、米国側はそのように理解してきたに違いない。
だが、これらの言葉によって醸しだされた期待は、首相の沖縄訪問(5月4日)の際にいとも簡単にひっくり返されてしまった。 私は 「『抑止力』を疑え-鳩山首相の最後のチャンス」 を出して、5月末決着までに「最低でも県外」を果たすべく努力すべきことを求めた。
それから3週間あまりで、「日米共同声明」(日米安保協議委員会の外務・防衛担当閣僚[2プラス2]の声明)が出されるに至った。 そこには、1800メートル滑走路を持つ代替施設を「辺野古崎地区とこれに隣接する水域に設置する」と明記され、滑走路の場所や工法(埋め立てか桟橋か)の詳細は8 月末までに決めるとされていた。 また、「環境影響評価手続き及び建設が著しい遅延がなく完了できるようにする」という点が合意事項に含まれている。 となると、新たな環境評価の必要な桟橋方式はあり得ないことになる。 鳩山首相が「自然への冒涜」と言った埋め立て方式にならざるを得ない 。 また、鹿児島県徳之島などに訓練を一部移転することも明記され、米国にはほとんど譲歩を求めることなく、他県への負担が求められている。「最低でも県外」どころか、「最初から県内、可能なら県外」というスタンスだったのではないか。
看過できないのは、 日米共同声明の英文を見ると 、「1800メートルの長さの滑走路(複数)」(the runway portion(s) of the facility to be 1800 meters long)とある。 括弧で“s” がついている以上、1800メートル滑走路は1 本にとどまらない可能性がある。これは自民党政権下のV字型の当初案にもどったのだろうか。岡田外相は、複数の滑走路を造る可能性が「排除されていない」と説明するが、政府高官によると、米側からX字形の滑走路との要望もあったという(『朝日新聞』5月29日付)。 足元を見られたものである。普天間飛行場の「代替」施設といいながら、 その本質は、冷戦後初の新基地の建設である。それは普天間のヘリ部隊の移駐にとどまらない。 MV-22B高速強襲輸送機 が配備される可能性が高い。X滑走路というのは、このオスプレイの運用構想と無関係ではあるまい。
オスプレイは大型双発ティルトローター機。 離着陸時はヘリコプターになり、上空に行くと、機体の上部を向いていたプロペラが水平になって、プロペラ機のように高速で水平移動する。オスプレイが常駐する名護の新基地は、中東に向かう空母部隊と一体で運用されるだろうから、文字通り、極東における「殴り込み」部隊の重要拠点となり得る。これは、沖縄や日本の「防衛」という建前に立ったとしても、「過剰」になるのではないだろうか。
さすがに5月29日付の新聞各紙には怒りの社説が並んだ。 特に地元『沖縄タイムス』は「首相の退陣を求める 沖縄を再び切り捨てた」というタイトルで、「沖縄を再び切り捨てるこの国のあり方には寒気がするほどの不安を感じる」 「沖縄の過重負担を前提にした差別構造の中で続く日米同盟の正体が透かし絵のように浮かび上がってくる」と激しいトーンで批判する。『毎日新聞』は、「沖縄差別」という言葉を社会面トップの大見出しに使った。『朝日新聞』も一面の政治部長解説の「日米同盟」一辺倒の偏った論調とは対照的に、第二社会面に那覇総局長名の長文解説を置いて、「この13年、今ほど『差別』という言葉を突きつけられたことはなかった」「日米合意を優先し、沖縄との約束を捨て去った首相への不信は深い」と、現地の怒りを伝えてバランスをとっている。
私はこの政権が発足したとき、 批判的姿勢は崩さないと宣言した 。 そして、 「『日米同盟の深化』でいいのか」 や、 「普天間問題に発想の転換を」 を出して、鳩山政権の安全保障政策について、早い時期からその問題点を指摘するとともに、各種政策の後退( 「政見後退」 )や、 「密約」問題 での後退について批判してきた。
問われているのは、 「日米同盟」絶対の思考に陥ることなく、日米関係をまともにしていくことなのだが 、米国政府の意図を過剰に忖度して迎合していくという歴代自民党政権の体質は、 結局、鳩山政権にも引き継がれた 。鳩山首相が普天間「移設」先を「すぐに決められない」間に、 首相「腹案」の中身がいろいろ言われ、期待も抱かせた分、沖縄の失望や怒りは大きい 。だから、辺野古の新基地建設は、沖縄全体が反対でまとまった以上、不可能だろう。少なくとも、公用水面埋め立てを知事は許可しない。特別立法を制定してそれを可能にしようとしても、今度は民主党内から反発が出るだろう。
5月28日の首相会見をみてつくづく思うのは、この首相は一国の安全保障について、まともに考えたことがあるのかという疑問である。 5月4日に沖縄で、「米海兵隊の存在は、必ずしも抑止力として沖縄に存在する理由にならないと思っていた。学べば学ぶほど抑止力〔が必要と〕の思いに至った」と語って、「何をいまさら」と、日米安保賛成・反対を問わず、あらゆる立場の人々を脱力させたことは記憶に新しい。 今回の記者会見における脱力ポイントは、「大きな問題は、海兵隊の一体運用の必要性だった。 全体をひとくくりにして本土に移すという選択肢は現実にはあり得なかった。ヘリ部隊を地上部隊などと切り離し、沖縄から遠く離れた場所に移設するということもかなわなかった」という下りである。長崎県大村だの、離島だのと、40数カ所の移設の可能性を検討したそうだが、米軍側の論理からすれば、部隊の一体運用は最初から自明だったはずである。だからこそ、その一体運用の論理に乗って、一体で米国にお引き取り願うという要求を突きつけるべきだったのである。米国とはまともに交渉せず、国内を捜し回る不甲斐なさは、米国からも軽蔑されたのではないか。 実際、米政府からは、「首相特使というのが何人も来たが、すべて違う提案を持ってきた」と言われている(テレビ報道)。一体、鳩山首相は公式、非公式に、誰と誰を特使として派遣したのだろうか。この首相官邸、あるいは「政治主導」と言われる「チーム」の不具合もかなり致命的である。 米政府とは真剣に向き合わずに、沖縄や全国知事会に「お願いせざるを得ません」と頭を下げる首相の姿勢は、誰の共感も得られないだろう。
沖縄に希望を与え、それを失望に変え、絶望の淵にまで追いやった鳩山首相は確かに罪深い。しかし、逆説的ではあるが、実はそのことがもたらすわずかな「希望」がある。もし鳩山政権が昨年秋から12月までの段階で、辺野古「移設」を決断していたら、沖縄や本土の一部で反対の声はあがったと しても、ここまで一般の関心をひくには至らなかったのではないかということである。 1月の名護市長選挙で反対派市長が当選し、県民大会に県知事や保守派のすべてを勢ぞろいさせて、沖縄全体を県内移設反対にまとめ上げたのは鳩山首相の「功績」である。 これがもとに戻ることはないだろう。徳之島も、受け入れの方向に民意を分断するチャンスはあったが、平野官房長官という「役者」も得て、ことごとく失敗していった。その結果、徳之島の基地反対がゆらぐこともないだろう。つまり、この「日米共同声明」は、実行不可能なものとなったのである ( 5月28日 に奄美群島民大会が開かれ、全政党代表が参加して基地移設反対を 確認した ) 。
日米両国の声明である以上、今度は日本政府だけに目を向けるだけではすまない。6月23日の日米安保条約改定50周年を前にして、日米安保条約それ自体の問題性にも人々の関心が向かわざるを得ない。おそらく普天間「移設」問題にとどまらない、在日米軍と在日米軍基地そのものの存在根拠を問う方向に進むだろう。これが、失望と絶望のなかから生まれた「希望」の光である。首相が辺野古・現行案に対してすぐに“Yes”と言わず、「迷走」を続けたことが、平和や安全保障の問題への関心を高めることにつながったわけである。
これから本土の市民もまた、辺野古に基地を造らせないという沖縄県民の運動に連帯するとともに、まともな主権国家では考えられない不平等条約である「日米安保条約」の根本的見直しの議論に着手すべきだろう。
( 『世界』6月号特集「日米安保を根底から考え直す」 、 法律時報増刊『安保改定50年--軍事同盟のない世界へ』(日本評論社、 2010年5月30日刊) 参照)。
【付記】冒頭の写真は、沖縄海兵隊ヘリが墜落した沖縄国際大学の現場。2004年9 月撮影。