20 年近く前のことになる。 ドイツ統一の直後、1991年2月末から半年あまり、旧東ベルリンの中心部に住んだ 。当時、広島大学助教授で、西のベルリン自由大学の平和・紛争研究所のお世話になっていた。 住居はアレクサンダープラッツ(広場)の高層アパートの8階 。片側3車線の大通り、カール・リープクネヒト通りの9番地にあった。ブランデンブルク門とウンター・デン・リンデンに接続するメインストリートである。目の前には、旧東独の象徴、 高さ365メートルの巨大なテレビ塔(Fernsehturm)がそびえ立つ 。部屋に入ってカーテンを開けると、窓の4分の1ほどがテレビ塔の壁面で覆われる。すぐ右側には、森鴎外『舞姫』の舞台ともなったマリエン教会がある。窓からその時計が見えるので、部屋に置き時計はいらなかった。
徒歩圏内に、旧東独国家評議会(E.ホーネッカー議長がいた)、旧人民議会(「共和国宮殿」)、旧外務省、ベルリン国立歌劇場、フンボルト大学などがあった。窓から左手奥を見ると、旧東独地域の民営化を進める信託公社(トロイハント)の建物が見える。私が滞在した頃は、旧国営企業のリストラが大規模に進んでいたので、 連日、これに反対するデモ隊が押しかけていた 。「清算」(Abwicklung)や「皆伐」(Kahlschlag)といったプラカードが目立つ。統一直後の「一つの国家、二つの社会」が軋みをあげていた現場にあえて飛び込み、国家・社会・法の変動期を取材するのが滞在の狙いだった。月に一度、旧東の状況について書いた原稿を、日本に送った。まだメールが普及していなかったので、やりとりはもっぱらファックスだった。当時、歩いて10分ほどのところにあった旧東独プレスセンター3階の朝日新聞ベルリン支局(後に別の場所に移転)。当時の亘理信雄支局長の計らいで、ファックスを使わせていただいた。法学セミナー編集部からゲラが届くと、支局の助手がアパートまで電話をくれた。そうやって書いたのが、拙稿「ベルリン発・緊急レポート」(1)~(4)(『法学セミナー』1991年6~9月号連載)である。 この連載は、ベルリン「ヒロシマ通り」の話 に関する書き下し原稿も加えて、 『ベルリンヒロシマ通り――平和憲法を考える旅』(中国新聞出版部、1994年刊)として出版した 。すでに絶版だが(アマゾン古書で入手可能)、いま読んでも、統一直後のドイツの雰囲気や呼吸が伝わってくる。この20年前のベルリン生活のなかで、私の生活圏には、常に巨大なテレビ塔があった。
部屋の窓から上を見上げると、球形部の展望デッキ(地上203メートル)が迫ってくる。そこには望遠鏡があって、こちらを覗いているのではないかという危惧から、滞在を始めた当初は、窓際での読書や日向ぼっこは控えていた。でも、何となく気になるので、1週間くらいしてから展望デッキまで行って、自分の部屋を肉眼で見てみた。窓の外側がかすかに見える程度だった。望遠鏡に小銭を入れて覗こうとしたが、見事にロックされており、アパートに望遠鏡を向けることができないようになっていた。ホッとした。 少し前まで存在したシュタージ(秘密警察)監視国家 も、最小限の「プライバシー」感覚はあったようだ。以来、窓際で読書や日光浴をするようになった。 8月に日本から家族がやってきたときは、展望デッキの上にある回転レストラン(地上207メートル)で食事をした。高くてまずいのはいずこも同じ。 床がゆっくり回転し、ベルリン市内を1時間かけて360度見ることができた 。夜景もきれいだった。
旧東ベルリンは高層ビルが少なかったので、このテレビ塔はどこからでも見えた。いわゆる「ランドマーク」である。散歩に出かけ、旧東の薄暗い通りで道に迷っても、大きな通りまで出てテレビ塔を目指せば、自分の部屋に戻ることができた。その意味では便利だった。だが、「どこからもテレビ塔が見える風景」には、どこか違和感が残った。
テレビ塔は冷戦時代の1969年10月に竣工。旧社会主義圏に共通する傾向なのだが、地方や都市部の裏通りは廃墟のような建物が並んでいても、メインストリートと中心部は過剰なまでに華美で立派な建物や施設をつくる。このテレビ塔も、さまざまに揶揄された。 W.ウルブリヒト社会主義統一党(SED)第一書記が建設を推進したので 、「聖ヴァルター教会」と言われたこともある。
北朝鮮やルーマニアもそうだったが、どんなに国民が貧しくても、中心部には巨大な塔や宮殿を建てる。ピョンヤンの真ん中に立つ170メートルの「主体(チュチェ)思想塔」。金日成の70歳を祝って1982年に建てられた。 独裁者の勘違いの見本みたいな塔だが、旧東独のテレビ塔もまた、自由のない、東欧一の豊かさを偽装する旧東独を象徴するものだった 。
なお、ドイツ統一後、このテレビ塔はドイツテレコムの所有となり、高さも368.03メートルにのびた。私がいた頃は1時間で1回転だった回転レストランも、90年代の改修で速度が3倍になり、現在では20分で1回転するという。
いま、東京に不気味なものがつくられている。 「東京スカイツリー」 。地上デジタル放送対応を目的とした電波塔である。完成時には634メートルになり、自立式電波塔としては世界一になるという。ツリー誘致には、墨田区、足立区、台東区、豊島区、練馬区、さいたま市が名乗りをあげ、2006年3月、墨田区に決定された。東武鉄道が事業主となり、大林組が施工。2012年春には開業の予定という。周辺自治体では、スカイツリーを眺めるクルーズをやったりして、国内外の観光客を呼び込もうと懸命である。
特に墨田区押上では、商店街が町おこしに利用しようと意気込んでいる。墨田区長と足立区長が「スカイツリーこう生かす」という対談をしているのを読んだ(『東京新聞』2010年8月2日付26面)。これを下町全体の財産としていくのだという。墨田区は商業施設などを含めた周辺部への訪問者は年間2096万人以上と見積もっていて、スカイツリーの経済効果は年間800億円とされている(墨田区産業観光部新タワー調整課)。隅田川の花火とスカイツリーをセットで今から前宣伝が激しい。外側を「江戸紫」の光でライトアップして、頂上部分のみ「富士山頂の雪」を意識して白色にするという(『週刊ポスト』2010年8月20/27日号)。押上・業平橋地区の商店街では、「タワー丼」とか「タワーチキン」といったメニューを押し出して、商店街を活性化させようと意気込む。
スカイツリーの第2展望台は地上450メートルというから、旧東ベルリンのテレビ塔の展望デッキの2倍以上の高さである。眺めのよさは十分に想像できる。完成時のメディアのはしゃぎぶりは、今からでも予測がつく。最初は、メディアの空騒ぎと物珍しさも手伝って、たくさんの観光客が押しかけるだろう。エレベーター前には長い列ができるに違いない。旧東ベルリンのテレビ塔はエレベーターが2基しかなく、しかも旧東独らしく鈍速だったので、休みのときは、観光客の長い列が入口から外にあふれているのを、私の部屋からも見ることができた。そんな風景が東京下町にまもなく生まれようとしている。 私がこの東京スカイツリーに違和感をおぼえるのは、たった半年だが、旧東ベルリンのテレビ塔の間近に住んだ体験があるからだろう。こういうものを喜ぶようになった、現在の日本人の心象風景を思う。
スカイツリーができる東京下町地域は、関東大震災で大きな被害を受け、22年後の東京大空襲でも焼け野原になった。そんなところに、今度は巨大な塔が押しつけられた。震災と戦災のあとに人災、という結果にならないといいのだが。それにしても、突風や電波の影響、落下物などへの住民の不安はほとんど報道されず、最初から安全性は自明の前提となり、「景観」の宣伝だけが突出している。一体、この不自然に高い人工物が、本当に下町の人々に幸せをもたらすのだろうか。
早速、水島ゼミ出身の現役ジャーナリストに依頼して、周辺を取材してもらった。その結果、次のような問題があることがわかった。
まず、周辺は住宅が多く、観光ルートが限定されているため、踏み切り付近などで渋滞が発生しており、なかには一方通行路を逆走する車もある。観光客用のトイレが近くにあまりないので、スカイツリー周辺で用をたす観光客が多く、住民から悪臭の苦情も出ている。駐車場が足らず、現在その設置をめぐって関係者の間で検討中である。
経済効果を疑問視する声もある。観光客はスカイツリーを観にくるものの、地元の飲食店を利用する者は多くはない。スカイツリー周辺に予定されている施設は、羽田空港のような形で300店舗ほどが入る。当初、地元商店を優先して入居募集したが、家賃が高く(坪単価3~5万円。墨田区内の坪単価の平均1万円)、一軒も入らなかった。また、入居した店舗は、売り上げの何%かを東武鉄道に支払わなければならない。東武の一人勝ちではないか、という指摘もある。
環境面では、 電波(電磁波)の問題がある 。建設前の調査で、環境アセスメントの基準値以下という結果が出たことから、今後調査を行なう予定はないとされている。だが、東京タワーはオフィス街にあるが、スカイツリーは住宅街にあることから、電波(電磁波)の問題を懸念する住民もいる。
スカイツリー周辺では、すでに騒音問題が発生している。現在、400メートルを超えた段階だが、塔が風を切る音(金属製)がひどいという苦情が出ている。 なお、世界で最も高い塔ということで、テロの「象徴的な標的」となる可能性があるという指摘もある。
元ゼミ生が短期間に取材しただけでも、周辺住民との関係でさまざまな問題があることがわかった。安全性という点では、 災害対策は大丈夫なのだろうかと思う 。だが、そういう問題はほとんど報道されず、ひたすら「東京スカイツリー」の観光面や地元への経済効果が一面的に強調されている。彼女も指摘していたが、ジャーナリズムはもっと多面的に取材をして、スカイツリーという「バベルの塔」(取材した一住民の声)をかかえこむ下町の問題をきちんと伝えるべきだろう。
メディアの伝え方の一面性を含め、全体主義体制下の「どこからでも見える塔の記憶」をもつ私の違和感はつのるばかりである。
〔付記〕 冒頭の写真とリンクしてあるアパートの写真の2枚は、2005年5月、ベルリンを訪れた当時の水島ゼミ8期生が撮影したものである。私が住んでいた91年当時は旧東独裁体制下のままだったので、もっと薄汚れていた。この写真をみると、リニュアルされて随分きれいになっている。