菅直人は「日本のヨシュカ」か? 2011年2月28日

2004 年5月に「年金未納問題」で民主党代表を辞任し、その7月、頭をまるめて四国八十八カ所巡りに出たときの「お遍路さん・菅直人」の写真である。「完歩証」を手に微笑んでいる。ドイツの一流週刊紙“Die Zeit”が菅内閣発足にあたって出した記事のなかで使われたものだ(Die Zeit vom 10.6.2010,S.7)。タイトルは「日本のヨシュカ」。 「菅直人新首相は古い政治システムとの文化的断絶を約束するが、しかし…」と続く。 記事は菅首相の経歴が、学生運動から市民運動を経て政党政治に至ったフィッシャー(Joschka Fischer、1948年生まれ)ドイツ元外相のそれと似ているとする。ただ、記事は菅内閣発足時のものなので、ドイツでもほとんど忘れられているだろう。私も忘れていた。8カ月たって、資料の山のなかにあるのを偶然見つけて読みなおし、これは違う、と思った。菅直人は「日本のヨシュカ」ではない。

私がドイツ・ボンに1年あまり滞在した際、外相はフィッシャーだった。1998年9月の総選挙で社会民主党(SPD)と「緑の党」の連立政権が誕生した。その時、 ある新聞は「68年世代の勝利」と書いた 。シュレーダー首相は学生運動華やかりし頃のJUSO・社民党青年部の全国委員長。緑の党のフィッシャー外相はAPO・環境・平和運動活動家だった。そこで 私はこう述べた。 「日本では、不用意に政権参加した結果、社民党は消滅しつつある。理念もポリシーもないままでの政権参加は政党を腐らせる。環境保護・平和・人権を掲げる『緑の党』の政権参加が、日本の旧社会党と同じ轍を踏んで、消滅への道を辿るか否か、注視したい」 と。

連立政権誕生から半年後、1999年3月23日、私はケルン・ボン空港に降り立った。 その直後、「ヨーロッパの戦争」が始まった 。98年秋から冬にかけて、コソボ紛争で国連やOSCE(欧州安保協力機構)が紛争解決に努力している時、 NATOは遮二無二に武力行使に向かった 。ドイツ連邦軍も出動した。そして、国連の決議もなく、自衛権の発動要件もクリアしないのに、ユーゴスラヴィアに対して一方的な攻撃を開始した。新政権のこの判断、これはどう正当化されたか。

フィッシャー外相は、ミロシェヴィッチ大統領をヒトラーに例え、 セルビアが作ったとされる収容所をナチスのそれと同視した 。そして、これを放置することは「道徳的に許されない」として、「モラル」を抜き身で持ち出し、武力行使を正当化した。何とも荒っぽい論法だった。後に「収容所」は誇張であることが判明し、 「空爆以外に手段がなかったのだ」というフィッシャーらの議論は破綻する 。私はこの時、彼について、 「ほんの20年前は街頭でアジテーションを行い、ほんの5年前には、党の指導者としてコール政権のボスニア派兵を憲法違反として、連邦憲法裁判所に提訴までしていたのだ。自己撞着のためか、彼らがモラルを過度に強調するときは、顔が紅潮するのが分かる」と書いている。

1999年5月13日、ドイツ北西部のビーレフェルト市で、「緑の党」の大会が開かれた。私はオランダで開かれた「ハーグ世界市民平和会議」に少し参加した後、ビーレフェルトに引き返した。この大会でNATO空爆に対する方針が決まるので、それを現地で見ておきたかったからである。 フィッシャーら執行部の決議案は444票、即時無条件の空爆停止を求める地方組織の決議案は318票だった 。そこでハプニングが起きた。NATO空爆に反対する党員が、フィッシャーに赤い液体入りのカラーボールを投げつけたのだ。彼の首筋が赤く染まった写真は、 翌日の新聞の一面を飾った 。党内のきびしい批判を一身に受けたのである。

  6月になると、ボン(当時)には、オルブライト米国務長官(当時)らがやってきて、フィッシャー外相と、 NATO空爆後のコソボ問題の処理について話し合った 。そのなかで、 NATO空爆の背景事情が徐々に明らかになっていった 。ユーゴ戦争が終わってまもなく、私は 「元反戦活動家による戦争」 と題して、フィッシャー外相やシャーピング国防相についてこう書いた。 「反戦派の時代から権力志向旺盛だった人物は、転換も早い。たまたま活動の場が正反対になっただけなのか」。フィッシャーらは、空爆以外の「他に方法がなかった」を連発した。「どんな困難な状況でも、 わずかな可能性を求め、ぎりぎりの努力をするのが政治家である。『他に方法がある』のにそれを尽くさなかったのか。あるいは、『他に方法がない』と偽って戦争に向かったのか」。 反原発運動や反戦・反核・平和運動から出発し、権力者にのぼりつめるや、かつての保守派よりもアグレッシヴな現実主義者になる。「68年世代」のなかには、過去の立場に対するコンプレックスから、かつての自分の主張や理念をことさらに否定する傾向も見られる。労組委員長が後に労務担当重役になって、組合潰しに力量を発揮するというのはよく聞く話である。

 だが、フィッシャーは市民活動家の時代も、ヘッセン州環境大臣の時も、連邦政府の中枢にいる時も、話題を呼ぶ言動と政策により、しばしば週刊誌『シュピーゲル』(Der Spiegel)の表紙を飾った。それだけ注目される人物であり、またどこか愛すべきところもある。彼が運動家から政治家になった頃に履いていた古びたスニーカーが、歴史博物館に展示されたりもした。

市民運動から政権入りした点では似ていても、直人は「日本のヨシュカ」たりうるだろうか。ヨシュカは1998年から2005年まで7年間、外相兼副首相の座にあった。直人は7カ月過ぎたところで、その内閣は末期症状を呈している。私は、1999年のコソボ紛争への対応を含めて、ヨシュカを評価することはできない。しかし、7年も外相の地位にあり、その「現実主義」的な政策は、ドイツにおいて評価されている面もある。 2005年9月の総選挙で敗北するや、政界を引退した その後、「緑の党」の支持率は上昇を始め 、各地の地方選挙で軒並み勝利している。特にベルリン市での急成長が目ざましく、政権を獲得する勢いである。ヨシュカの現実路線を歩む「緑の党」は、このタイミングで支持を得ているようである。他方、日本の首相の在任期間は異様に短く、また政策や言動のぶれや迷走ぶりは目を覆うばかりである。特に菅直人の民主党はもはや政党の体をなしていない。学生・市民運動経由の政治家という点を除けば、直人は「日本のヨシュカ」ではないだろう。

 「直人」という点で言えば、今年1月から「タイガーマスク現象」が生まれた。ヒーローは「伊達直人」。ネットでは「直人評価」が盛んに行われている。例えば、こうだ。「伊達直人と菅直人。虎のマスクで顔を隠すのが伊達直人、虎の威を借りるのが菅直人」「贈与するのが伊達直人、増税するのが菅直人」「仮面を被って戦うのが伊達直人、仮免で国を動かすのが菅直人」「庶民の味方が伊達直人、庶民を偽装が菅直人」「ヒーローなのが伊達直人、非道なのが菅直人」「リングで虎をかぶるのが伊達直人、選挙で猫をかぶるのが菅直人」「名を出さずに行動するのが伊達直人、口だけ出して行動しないのが菅直人」…。このあたりでやめておこう。

 投票に行き、政権を交代させ、 「小泉改革の荒野」からの復興 を期待した人々の幻滅と失望は、絶望を経由して、今や諦観の域に達しつつあるようである。

ちなみに、冒頭のDie Zeitの記事には、「30年来、菅直人の選挙区は、多くの大学がある小市民的でリベラルな東京西部にある。かつては反原発や平和の集会が行われた。彼はよき演説者だったし、東京のインテリに好まれた。…」とある。菅直人は旧東京7 区(多摩地区)で初当選した。現在の選挙区は、武蔵野市と小金井市、私の生まれ育った府中市の東京18区である。ずっと菅が当選する無風区だったが、今度の総選挙はわからない。

 ヨシュカは総選挙で敗北し、57歳で政界を引退した。まもなくはっきりするが、この点でも、直人は「日本のヨシュカ」になりそうもない。(文中・敬称略)

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