3月11日、M.8.8という観測史上最大の地震、「東北地方太平洋沖地震」(「東日本大震災」、「東北関東大震災」)が起きました。被害に合われた方々には心からお見舞い申し上げます。私もその夜震度6の地震のあった長野県に近いところに滞在していたため、雪がちらつくなか15時間停電の寒くて真っ暗な夜を過ごしました。被災された地方の方々の恐怖と寒さはいかばかりかと拝察いたします。とりあえず直言更新にあわせて、一言お見舞いの言葉を申し述べます。
毎 年の正月、「松が取れる」のは1月7日。その朝、7種類の野菜の入った粥を食べる(七草がゆ)。そんな風習は、きょうびの大学人には無縁である。今年、大学は1月6日に授業が始まった。小中高校は11日スタートのため、小学校教員の妻に見送られて大学に向かった。
ここ数年、「国民の祝日」に授業をやる大学が増えている。2011年秋学期、私は開学記念日(10月21日)に授業をすることになる。「半期15回授業」を文科省が大学に求めたため、回数をこなすべく、大学の方針として、大事な休日にも授業をやることになったわけである。
本来、大学の講義は教員が自らの判断で授業を計画し、運営するものである。原則15回でも、その運用は長らく教員に委ねられてきた。なかには半期で10回未満なんて教授もいたから、文科省が15回の授業回数を一律に確保するようにと大学に求めてきたのである。ただ、回数(量)も大事だが、問題はその中身(質)である。量を増やしたからといって、必ずしも質が向上するわけではない。
授業のもち方までうるさく言われるようになったきっかけは、2008年春、文科省が大学設置基準改正により、大学に対して、教員の授業内容や方法を改善するための組織的な取り組みを求めてきたことによる。これが「ファカルティ・ディベロップメント」(FD)である。
この祝日授業はさまざまな影響を及ぼしている。例えば、ある大学教員のブログには「人文系学術論文の締切日」というタイトルで、「6月末日締切だった学術誌が近年7月末日締切に変わった。最近、どこの大学でも半期15回授業を徹底するように指導されているから、…6月末日に間に合うように論文作成はできなくなっていく…。今後8月初旬まで授業がある大学教員の投稿数が減ることになる…そうなると大学院生のデビュー雑誌に…」とある(天漢日乗」2009年7月28日付)。
この10年ほどの間、シラバス(講義要綱)、セメスター制(半期制)、アドミッション・オフィス(AO)入試、ロースクール(法科大学院)等々、米国流の方式が、横文字のまま導入されてきた。このような仕組みを採用するにあたって現場の議論は十分ではなく、いずれも「結論先にありき」の傾きをもっていた。その結果、 大学の特質である「自由であること」が、さまざまな形で損なわれるようになってきた。
加えて、2010年4月からは、シラバスの書き方が詳細を極めるようになった。成績評価についても相対評価が原則となり、評価基準として試験○%、レポート○%、平常点○%と記入することが要求された。私はそれまであえて書かないでいたら、学生から、「出席に自信がないので、あらかじめ出席の評価割合を伺いたい」というメールが届いた。昔の学生だったら、およそ口にできないような無礼な質問に属するのだが、いまはメールという「便利な」ツールと、FD思考の定着によって、どこの大学の教員でも体験する日常の風景となったようである。
今年1月下旬、こんなこともあった。秋学期の最後の講義を終えて教壇を降りようとすると、何人もの学生がやってきて、「試験問題を教えてください」と迫ってきたのだ。冗談だろう、と受け流していると、その場を立ち去らず、真顔で何度も聞いてくる。多くの教員からも、「最近の学生は変わった」ということをしばしば聞くようになった。年々、脱力するようなことが増えてきて、毎年それに慣れていく。それでも、ここまできたかという印象である。
実はこれには続きがある。最後の講義で、「今期重点を置いて講義したところから3問を出すので、そのなかから1問を選んで解答するように」と言った。これでもかなり「親切」である。3問から1問選択のため、山もかけられる。そして、「去年と同じ問題はまず出ないだろう」とも付け加えた。この一言でかなり山が絞れる。サービスのしすぎとさえ思ったが、ネット上で勝手にやっている「過去問サイト」に、たまたま2009年の私の問題が出ていなかったらしく、その夜早速メールがきた。「ネットで探したが昨年の問題が見当たらないので、何を出したか教えていただけますか」と。くだんの学生が事務所に問い合わせたところ、「先生に直接問い合わせるように」と言われてメールしたと書いてあった。その種のことは学生同士が「情報交換」として事実上やるものだろう。当の教員に聞いてどうする。安易で簡易な風潮があるとはいえ、これは度が過ぎている。厳しいメールを出したところ、私の剣幕に驚いた学生からすぐに謝罪のメールがきた。職員のアドバイスで、何の迷いもなくメールしてしまったようで、本人もびっくりしていた。
この件では事務所にも注意をした。かつて学生がこういう質問をしてきたら、職員のところで、「こういう質問をするものではないよ」と諭したものだった。最近の大学職員の研修では「カスタマー(消費者)サービス」が徹底して仕込まれるそうで、担当職員の問題ではない。
大学ぐるみの「手取り足取り」により、学生は知らず知らずのうちに怠惰になっていくおそれはないか。我々が学生の頃は、勉強はもっと能動的にやるものだった。教授のつまらない講義からさっさと逃亡して、図書館にこもったり、友人と勉強したり…。でも、「昔は…」というセリフはもう使うべきではないようだ。私が学生だった40年前とは異なり、大学をめぐる社会の状況は大きく変わってしまったからである。
近年の厳しい就職難から、学生もその親も、入学前から「出口」を意識して、専門学校的な教育を大学に求めるような勢いも生まれている。高額な学費を負担する親からすれば、就職難を横目に不安になるのも理解できなくはないが、「就職に役立つことを教育しろ」と教育内容にまで踏み込んでくるのは行き過ぎではないか。それをメディアがあおって、大学に対する「社会的ニーズ」を形成していく。それに文科省も呼応して、大学に「改革」を迫る。大学もこれに迎合する。それが授業一律15回をはじめ、「手取り足取り」的施策となって大学に押し寄せているわけである。このまま行けば、「(就職の)役に立たないことを教える教員はいらない」ということになりかねない。すでに間接的な手法ながら、全国の大学で始まっている。こうした「改革開放政策」は大学の姿を確実に変えているが、それを正当化する議論の一つが「学生=消費者」論である。
「学生消費者」というと、従来は「学生消費者ローン」や「学生消費者金融」という言葉に象徴されるように、あまりいいイメージがなかった。近年言われているのは「学生としての消費者」という側面に着目したものである。そこでは、マーケティング用語の「顧客満足」(CS:Customer Satisfaction)が最も重要な「原則」となっている。国立大学の学長が、「学生顧客主義」を正面に据えた対応に胸をはっているのには驚いた。
いま、この「顧客満足度至上主義」が一人歩きしている。デュルケムの言説を引きながら、「学生の『お客さん』扱いが役立たずを量産する」と批判するのは鹿島茂氏である(「教育崩壊」『毎日新聞』2010年12月22日付文化欄「引用句辞典」)。その主張には大いに共感した。このテーマに関連して、専門的な研究も存在する。例えば、松下佳代「学生消費者主義と大学授業研究」(『京大高等教育研究』8号(2002年))はこの問題を詳しく論じている。
松下氏によれば、D.リースマンの「学生消費者主義」は、米国の大学が学生募集に困難を感じるようになって、「学生をいかにひきつけるか」が大学生き残りを決する要素となるなかで生まれた議論である。リースマンは、大学から提供される教育サービス(商品)をただ受け取るだけの学生を「受動的な消費者」と形容した。学ぶ目的が明確で、学習経験を自ら統合していく「能動的な生産者」と対比される概念である。松下氏によれば、特に日本の学生の場合、「受動的消費者」としての「受動性」が際立っている。これを、「日本型の学生消費者主義」と氏は名づけている。
近年の学生の「受動性」の一つが「就職に有利」という理由づけである。これは、近年では第二外国語の選択にも反映している。私が学生の頃は、「二外」と言えばドイツ語とフランス語が大半で、わずかに露中西のクラスが編成されていた(私は「一外」〔第一外国語〕をドイツ語にして、「二外」を英語とするマイナーなクラスだった)。ところが2010年、1年生のうち、「二外」(第二外国語)に中国語を選択する学生が4割増になった。中国語クラスが大増設され、他の外国語クラスが大幅に減らされた。ドイツ語の地盤沈下は著しい。その理由は、中国語が「就職に有利」という先輩の「指導」やネット情報のせいらしい。「就活」が前倒しされ、大学の授業に負の影響を及ぼしているが、入学時の「二外」選択の段階から「就活」が始まる時代になったようだ。「法律学をしっかり勉強するならドイツ語やフランス語の知識が大切」と受講指導をすることになっているが、このままいくと、「二外」のほとんどが中国語という事態もあり得ないことではない。
大学のかたちを米国スタイルに組み替え、これにTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が加わる。この国では、米国一辺倒の議論が目立ちすぎる。そして中国の拝金主義(「向銭看」〔シャン・チェン・カン〕)が結びつき、米中両国の悪い面だけが日本の大学や学生に影響を及ぼしているかのようである。米国や中国のなかの「(就職に)役に立たない(儲けにならない)」けれども、「ためになる」知識や見識を学ぶべきである。それが大学の使命のはずなのだが。
では、なぜ、ここまで大学の教育内容に国家が介入できるようになったのか。「親の声」や「社会的ニーズ」をバックにした国家の介入は手ごわい。これにはっきり「ノー」を言うことはむずかしい。だが、教育内容や方法の選択は、すぐれて「学問の自由」(憲法23条)の一環だし、大学の自治の重要な柱のはずである。
思えば、ちょうど10年前、直言「教育がやせてきた?」で危惧したことが現実のものになっているかのようだ。
もちろん大学や大学教員の側にも批判されるべき面は大いにある。そういうものは十分な議論を経て変えていくべきである。また、時代の変化のなかで変わってもよいものもあるだろう。だが、決して変えてはならないものがある。それが大学の魂ともいうべき研究・教育の自由である。子どもを大学に出す親のなかにも、かつては大学で学んだ人も少なくないはずである。自分の大学時代の自由な雰囲気を思い出しながら、「金は出すが口は出さない」という姿勢で、静かに見守ってほしい。これは国家・文科省にも言えることである。
「変わるべきもの」、「変わってもいいもの」、そして「変わってはならないもの」を区別した、冷静な議論が求められる所以である。