前 回に引き続き
、リビアへの軍事介入について書くことにしたい。この間の新しい動きとしては、飛行禁止空域監視の指揮権がNATOに委譲されたことだろう。「束縛された巨人」と評されるNATOは、加盟28カ国のなかで意見の対立が依然として解消していない。これほどの内部不一致はかつてなかったという(Die Nato,der gefesselte Riese,in:Die Zeit vom 22.3.2011)。とりわけ、反カダフィ派蜂起勢力に武器を供与するかどうかをめぐり、激しく対立している(仏英米は賛成、事務総長をはじめ反対多し)。ドイツの一流紙『フランクフルター・アルゲマイネ』に、「第二のアフガンか?」という評論が載った(FAZ vom 20.3.2011)。そこでも指摘されているが、秩序ある政府形態を外部から押しつけることは、これまでうまくいった試しがない。それがアフガニスタンの教訓である。空からリビアに介入する者は、いつ地上に達するのか〔陸軍部隊の侵攻〕を覚悟しなければならない。そして、評論はこう結ぶ。すなわち、安定した国家を誕生させる課題が、なぜアフガンよりもリビアの方で容易に行うことができるというのか、と。
飛行禁止空域設定と民間人保護に関する安保理決議に棄権したドイツの姿勢については、国内的にも反対、賛成の議論が種々ある。NATOも指揮権を委譲されたものの、今後の作戦をどのように展開するのか、まったく未知数である。
die taz紙の評論は、「まず爆撃し、しかる後に考える」(Erst bomben,dann denken)というタイトルで、「この戦争には、明確な目標も筋の通った戦略もない」と指摘。2002年にシュレーダー政権が国内世論目当てにイラク戦争に反対したことについて、「それは間違いではなかった」と回想しながら、リビア問題についても、「疑わしい場合には、政府は、正しい理由から間違ったことをなすよりも、間違った理由から正しいことをなす方がましである」と書いている(die taz vom 20.3.2011)。
今回の作戦全体について、米国は一歩引いたスタンスをとり続けている。オバマ大統領は「攻撃はカダフィ氏排除が目的ではない」としており、軍事行動で主導的な役割を果たそうとしていない(『読売新聞』3月26日付)。「フセイン倒せ」のブッシュ政権との違いを出したいというよりも、北アフリカへの軍事介入がもたらす軍事的、財政的負担の巨大さを巧みに計算したものだろう。フセインもカダフィも、ともに欧米諸国が軍事援助をして育成してきた言わば「モンスター」である。リビアについても、米国と英仏は、叩けば相当「ほこり」が出てくる。その意味では、カダフィ抹殺は米国の本音のはずである。米軍は地上軍攻撃に熱心だが、さすがに「標的作戦」は表には出せないようである。
実際のところ、「標的作戦」に積極的なのは仏英である。英国の外相は3月21日、カダフィ大佐を標的にするかどうかについて「状況次第だ」と語り、国防相もその前日に、「カダフィ大佐は合法的な標的だろう。ただ、市民を巻き添えにする結果は避けなければならない」と明言していた(『東京新聞』3月22日付)。
国家の軍隊が、特定の指導者や政治家などを標的にして、ピンポイントで殺害する方法を「標的殺害作戦」(targeted killing,Gezielte Tötung)という。これを一番得意とする特異な国家がイスラエルである。建国以来、この種の作戦をたびたび展開してきた。1950年には早くも、アラブゲリラの調整役のエジプト軍将校を手紙爆弾で殺害した。70年代は、ゲリラの指導者殺害の背後に、必ずイスラエルがいた。
米国は、「9.11」以降、アルカイーダのオサマ・ビン・ラディン氏殺害のため、軍の部隊を運用していることは承知の通りである。
この「標的殺害作戦」は法的に問題ないか。1966年の国際人権規約B規約6条2項後段は、「この刑罰〔死刑〕は、権限のある裁判所が言い渡した確定判決によつてのみ執行することができる」と定めており、特定個人を国家が殺害する行為はこれに違反するという指摘がある。
また、1949年のジュネーヴ第一追加議定書51条2項は、武装していない民間人を軍事目標として攻撃してはならないと定めている。これはジュネーヴ第四条約(文民保護条約)も同様である。
ただ、戦闘行動のなかで、敵対勢力の指導者を殺害することは、死刑の執行と同視できるかどうかは微妙である。また、武装グループの指導者がジュネーヴ条約にいう文民・民間人の範疇に含まれるかどうかも評価が分かれるところである。指導者の自宅や事務所を狙った場合、その家族や隣家の住人なども犠牲になっており、目的は指導者殺害でも、航空機からのミサイルや爆弾という手段が民間人殺傷につながる場合には、ジュネーヴ条約違反の疑いは濃厚だろう。
そこで思い出したのだが、昨年のアフガニスタンにおける作戦のケースである。
「緑の党」の安全保障スペシャリストに、クリスティアン・シュトレーブレという長老がいる。ドイツ滞在中の1999年4月、ヘッセン州カッセルの平和シンポジウムに参加した際、挨拶したことがある(会場には、ケルンに留学中の川田龍平氏〔現・参院議員〕も参加しておられた)。当時、「緑の党」がコソボ問題でのNATO「空爆」に賛成したので、シュトレーブレ議員は大変悩ましい立場だった。いまは野党なので、批判的な議論を展開している。その彼が2010年に問題提起をしたのは、アフガニスタンにおいて、タリバンなど抵抗勢力の特定人物を直接殺害する作戦に、ドイツ連邦軍が参加した問題である。
2010年9月15日、シュトレーブレ議員の質問書に対する連邦国防省の答弁書を受けて、同議員は声明を発表した(以下の叙述は、Vgl.Boewe,Berlin ist Komplize,in:junge welt vom 16.9.2010)。
それによると事態はこうである。ドイツ軍司令部は、ドイツ特殊部隊がリストアップした人物の名前と居場所を米軍に知らせた。その人数は15人。うち少なくとも2人が米軍とアフガン軍によって殺害された。「これによって、ドイツ軍も米軍の標的作戦(Targeting-Operationen)と、その意図的な殺害(gezielte Tötung)に参加している。…私はこの実践は、基本法、国際法および国際人権規約に違反すると考える」と。
連邦政府は同議員への答弁書のなかで、ドイツ特殊部隊“TF 47”が、2007年以降、50人以上の「目標人物」を拘束する作戦に参加していることを明らかにした。その際、威嚇のため、航空機によって二度にわたり爆弾を投下したことも認めた。答弁書によれば、120人編成のドイツ特殊部隊“TF 47”は、他のドイツ軍部隊の権限を超える権限を行使していない、という。また、「目標人物」のリストを作成したことについても、答弁書は明確にしていない。
法的観点から問題となるのは、非国家的武力紛争において、国際人道法上、軍とそれを支援する部隊が、敵対的戦闘員を、「具体的な敵対行為への参加以外のところでも意図的に攻撃してよいか」ということである。
この論点は、リビアにおいて潜在的に進行中の「カダフィ標的作戦」についても妥当するだろう。だが、独立した国家における内戦において、国際社会がその一方当事者に過度に肩入れし、かつ他方の指導者を殺害するようなことは、国連憲章2条7項(内政不干渉原則)に抵触するのではないか。
もっとも、人権が国境を超える時代だから、著しい人権侵害を行う国家について無関心であってはならない。それは「内政不感症」だ。市民を殺害しているカダフィ大佐を除かなければ、市民の命が日々失われる。カダフィ大佐の殺害は緊急を要する、という意見もあろう。
コソボ紛争の場合と事情は異なるものの、このような議論の傾きはNATO諸国でも広まっている。さすがに「標的作戦」をNATOが全体として実行するのは困難だろうが、結局、「空からだけ」という「中途半端な作戦」を実施した結果、かえってリビア国内の状況を複雑にして、最終的には地上軍の派遣を迫られることになるのかもしれない。まさに「第二のアフガン」をである。
そこで想起させられるのは、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を開発していたというのは「世紀の大嘘」だったことである。2月16日付英紙『ガーディアン』によれば、大量破壊兵器存在の「証拠」とされたものは、フセイン政権を倒すためにでっち上げたものだった。それを、とうの情報提供者(「カーブボール」の暗号名をもつ男性)自身が、今年2月に初めて認めたというのだ。2003年2月の国連安保理で、パウエル米国務長官(当時)が、イラクの武器計画隠蔽の「証拠」として示したものは、実はこの男性がでっち上げた生物兵器施設のイラストであり、男性は自身のイラストが安保理で示されるのを見てひどく驚いたという(『朝日新聞』2011年2月17日付)。これは恐ろしい話である。
イラク戦争から先月20日で8年が経過したが、リビアの問題についても、反カダフィ派蜂起勢力の実態を踏まえつつ、カダフィ政権に市民に対する殺害をやめさせるための「他に選びうる手段」を尽くすべきだろう。