大震災の現場を行く(1)――郡山から南相馬へ 2011年5月2日

月27日から30日まで、東北の被災地に滞在した。福島県郡山市の避難所から、「計画的避難区域」の飯舘村、深刻な津波被害も受けた「緊急時避難準備区域」の南相馬市、原発20キロ圏「警戒区域」の手前まで接近した。相馬市から国道6号(陸前浜街道)を北上。宮城県石巻市に入った。ここから津波のすさまじい爪痕がはっきりしてくる。隣の女川町に向かい、東北電力女川原発も取材。南三陸町、気仙沼市、岩手県陸前高田市、大船渡市、釜石市、そして大槌町の吉里吉里地区まで行った。走行距離は800キロを超え、取材した方々も相当数にのぼった。今回の直言から「大震災の現場を行く」と題して連載を開始する。

この取材でお世話になったのが、直言でも紹介した降矢通敦さん(75歳)である。昨年2月に福島市で私の講演を聴かれたことがきっかけで、メールのやりとりが始まった。大震災後、降矢さんのメール通信「福島原発災害の記録」を直言で紹介したことから、私の東北取材の話が一気に進んだ。

4月27日。新幹線が郡山に近づくにつれ、車窓から見える家々にはブルーシートが目立つようになる。地震で、屋根が壊れたものだ。土蔵が傾いている家もある。郡山駅改札で出迎えてくれた降矢さんは、リュックサックに帽子、防塵マスク姿の私をすぐには見つけられなかった。

降矢さんの車で郡山市立薫小学校に向かう。校庭の土の放射線量が毎時4.5マイクロシーベルトあり、これは、文科省が児童・生徒の屋外活動を制限する基準値として設定した毎時3.8マイクロシーベルトよりも高いというので、重機で土を5センチほど削る作業が行われていた。テレビ局も来ている。
   後日、この削った土をめぐってトラブルが発生した。表土を仮置きするゴミ処理場付近の住民がこれに反発し、結局、校庭にシートをかけて仮置きすることになったのだが、今度は学校周辺の住民が、シートの間から汚染土が埃となって飛んでくるといって抗議を始めたのだ。

小学校近くの酒蓋公園にも寄った。入口の表示には、小学生以下の利用は控えること、中学生以上も1日あたり1時間程度と書いてある。桜が満開の公園には、人っ子一人いなかった。

ちなみに、4月19日に文科省が決めた毎時3.8というのは、年間積算放射線量20ミリシーベルトを基準に決めたものである。これは異様に高い数値とされている。4月29日、小佐古敏荘東大教授が内閣府参与を辞任したが、その際、小学校の校庭の利用基準に関して年間20ミリシーベルトという数値の使用を批判し、「この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたい」と涙ながらに語った。「政府の対策は法に則っておらず、場当たり的だ」とも(『中国新聞』5月1日付)。身内からの反逆にもかかわらず、菅内閣は20ミリシーベルトを維持し続けるようである。

続いて車は、福島県産業交流会館(「ビッグパレットふくしま」)へ。現代的なイベントホールだが、原発事故後、福島第一原発10キロ圏の双葉郡富岡町と川内村から避難してきた人々の避難所になっている。外にはプレハブの災害対策本部が置かれ、陸上自衛隊第1師団第1後方支援連隊(東京・練馬)により、野外入浴セットなどによる支援を受けているペットの犬や猫のテントが2つあり、私を飼い主と勘違いして、犬が下から鼻をならして顔を出した。

降矢さんは、私の取材4日間の案内人として、白土正一さん(61歳)を紹介してくれた。白土さんの「現住所」は、毛布一枚と段ボールで仕切られた避難所の一角にある。
   富岡町生まれ。大学卒業後に富岡町役場に入り、2000年から10年間、生活環境補佐および課長を務め、同町の消防・交通、環境、原子力安全対策の責任者だった。福島第一原発の立地町4つのうち、富岡町以外の3町では、原発の安全・規制を担当するのは企画課長だが、一方で電源三法交付金による原発推進の仕事をしながら、他方で規制や安全対策もやるでは、チェックはいきおい甘くなる。だが、富岡町だけは両者を分離。生活・環境課長が安全・規制の方を徹底するように制度上はなっているという。だが、このポストに10年近くいた白土さんの職務上の「素性」は、旅の途中でおいおいわかってくる。

避難所では、白土さんの紹介で、住民の方々の声を聞いた。酪農家(73歳)は高価な宮崎牛の種牛を使って生まれた牛5頭を軸にこれからというところだったので、すべて殺処分するという国の方針に対して、不信と不満をつのらせていた。「なぜ、もっと早い時期に牛の移動をさせてくれなかったのか」と。また、スポーツジムを経営する男性(59歳)は、母親の納骨をしないで、寺の本堂に遺骨を置いたままで避難してきたことを悔いておられた。「帰りたい」という思いは各人各様で、メディアがいう「望郷の念」といった抽象的なものではない。白土さんは、三陸の地震・津波の被災者たちは「がんばろう」「復興へ」と言われれば力がわいてくるのだろうが、原発周辺の避難民にはそれがないという。「生きる気力が失われ、落胆が絶望に変わりつつある」と語る。それを少しでも改善するには、金銭的な手当てしかないと。東電の仮払金の支給は始まったけれども、メディアのいうほどには順調に進んでいないようだ。しかも、もうすぐ梅雨。ちょうど晴れ間が出てきて、私が「暖かいですね」というと、白土さんは「むしろそれが心配なのです」という。避難所内で、これからは食中毒が心配だというのだ。また、福島の「中通り」(郡山、福島など)は暑い。「浜通り〔海に面している地域〕の人は海風が涼しいのに慣れているから、中通りにある避難所の蒸し暑さに耐えられるか」と。

福島市に移動し、駅前のホテルに宿泊。「久しぶりにゆっくり眠れました」と白土さん。朝5時過ぎに出発。「警戒区域」付近の取材に向かう。この日だけ、院生時代から交流のある憲法研究者の藤野美都子さん(福島県立医科大学教授)が同行した。福島県の行政にも関わり、県の内部事情にかなり詳しい。

車はまず川俣町を経由して飯舘村役場に着いた。まだここは30キロ圏外だが、風向きや地形の関係で放射線量が高いとされる。全域が「計画的避難区域」に指定され、政府は住民に概ね1カ月以内に避難せよというが、村民には不安と混乱が広がっている。「この村は原発と無関係で、電源三法関係の交付金をもらわず、自分たちの力でよい村づくりをやってきたので、本当に気の毒なんですよ」と藤野さん。「ほんの森・いいたて」という村営の本屋さんもあり、「立ち読みOK」で、定期的な読み聞かせの会も開いているという。村内を走ると、「飯舘牛」の看板が目立つ。このブランドに対するダメージははかり知れない。

朝7時半、南相馬市役所に着いた。時間が少しあったので、海側を見にいく。車でほんの数分で光景が一変した。津波は海岸地域の住宅地を破壊し、死者512人、行方不明者962人を出している(4月27日7時現在、災対本部)。生まれて初めて見る津波のすさまじさに言葉をなくす。けれどもさらにその日午後から訪れる石巻市などの津波被害の現場では、言葉はおろか、声すら出なくなるのだが。それは連載(3)以降で書くことになろう。

さて、8時から南相馬市災害対策本部の会議が開かれた。白土さんの知人で、原子力安全・保安院の前福島第一検査官事務所長Sさんに挨拶。会議を傍聴させてもらった。「世界の100人」に選ばれた桜井勝延市長が本部長として会議を仕切っている。市の職員だけでなく、警察、自衛隊、消防、他県からの応援組も参加している。興味深いのは管内の自衛隊の活動配置だが、これはまた別の機会に書くことにしよう。

南相馬市は20キロ圏に入る地区をもつ。4月21日に原子力災害対策本部長(菅首相)から、「警戒区域の設定について」という指示が市役所に届き、4月22日午前零時から、20キロ圏内への立ち入りが罰則付きで禁止された。私たちが県道相馬浪江線を走っていくと、警察車両が行く手を阻んだ。「災害対策基本法により立入禁止」とある許可なく立ち入ると罰せられるという罰則(同法116条、10万円以下の罰金)で威嚇する看板も。21日まではフリーライターや住民も入っていたが、「警戒区域」設定が行われた22日以降は不可能になった。念のため防護服を購入して持参したが、ここで引き返すことにした。だが、警備していたのは福島県警ではなく、広域支援の警視庁第3機動隊(東京・目黒区)だった。さすがは「ほこりの3機」。看板を写真撮影しただけで、かなりしつこい職務質問の洗礼を受けることになった。

そのまま迂回して国道6号に出る。防護服を着た警察官が立って行く手を阻む。トラブルを避けるべく、その目前でUターン。北上を始めた。なお、同市の警戒区域設定に関する文書によれば、警察官を立てているのは3箇所。あとは障害物だけが20箇所という。なお、報道によれば、20キロ圏の「警戒区域」内には、高齢者を中心にまだ38人がとどまっている。白土さんの富岡町では、7人がまだ自宅にいる(『東京新聞』4月30日付)。

車内で白土さんの話は続く。「そもそも政府が同心円を描いて一律に何キロ圏という形で線引きをしたのが間違いのもと。放射線量を細かく測定して、等高線のように細かく危険地域を示していくことで、20キロ圏内にある地域でも立ち入り可能なところができたはずです」と。白土さんは、福島県原子力発電所所在町情報会議事務局を8年の長きにわたって務めてきた。この組織は、2004年8月29日の東京電力不祥事(福島第一、第二、柏崎刈羽原発での29件の事故を東電が改ざんした可能性があると、原子力安全保安院が発表した)を契機に、情報開示と透明性を高めるために設置された組織である。だが、事故が起きたいまとなっては、長年にわたる苦労は何だったのかと嘆く。「立地町には情報がこない。東電は地域に対するガス抜きしかしてこなかったのでは」とも。原発と自治体。その関係について、白土さんの話に興味はつきない。

ところで、津波が宮城県女川町を襲ったとき、女川原発は重油タンクの損傷などがあったものの、福島第一のような事態は起きなかった。それはなぜか。また、女川原発の構内には、津波で被災した周辺住民が生活しているという。セキュリティが超厳重な原発で、そのようなことがなぜ可能だったのか。それらのことを取材すべく、4月28日、私たちは女川原発に向かい、私は初めて原発の構内に入った。それは次々回の直言で書くことにしよう。(この項続く)

《付記》次回は4月18日に続き、「大震災と自衛隊」(2)を掲載する。この「大震災の現場を行く」(2)は、5月16日にアップする予定である。

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