女川原発から再び石巻市に向かう。瓦礫の山と車の渋滞。そのなかで、思わず息をのむ場所があった。山裾の墓地なのだが、上からは地震で大きな岩石が落下し、下からは津波で車と瓦礫が押し寄せたようだ。信じられない光景である。車のなかで亡くなった人々もいただろう。墓地にはそこここに、春の花々が咲いている。きれいな花とのあまりに残酷な対比に、言葉もなくシャッターを押した。
県道240号線沿いに『石巻日日(ひび)新聞』の看板を見つけた。狭い駐車場に車を入れる。1912年創刊の地元紙だが、地震と津波で社屋が被災。1階は床上まで浸水し、輪転機が動かなくなった。すぐに印刷用のロール紙に油性ペンで手書きした壁新聞を発行し、避難所に張り出した。震災翌日から6日間、これを出し続けた。
『朝日新聞』3月22日付が「新旧メディア奮闘中」という見出しで、「宮城で壁新聞・ラジオ、仙台ではツイッター駆使」という記事でこれを紹介した。被災者は、「1枚だけだけど、毎日欠かさず読んでいる。さすが地元紙。本当にありがたい」と語っている。
『読売新聞』3月25日付32面「24時地元紙」も1頁を使い、「6日間の壁新聞」という見出しで詳しく伝えている。
たまたまこの壁新聞のことを『ワシントンポスト』紙が報じたところ、これを読んだ「ニュージアム」(ニュース総合博物館、ワシントン)の職員が「困難を乗り越えて発行された歴史的な紙面」として、壁新聞の展示を決断。石巻日日新聞社に寄贈を求め、同社はこれに応じた(『朝日新聞』4月16日付夕刊)。
この壁新聞は、2005年にハリケーン「カトリーナ」の直撃を受けたルイジアナ州ニューオーリンズで、3日後に印刷を再開して「地域紙と社会の絆を示した」とされる米紙とともに、「報道の歴史に新たな一ページを開いた」ものと評価されている。「電気も水道もガスもない極限的な状況で情報伝達を続けた彼らは、ジャーナリストのかがみだ」というのは、「ニュージアム」職員の言葉である。
米国でも知られるようになった『石巻日日新聞』。県道に面した社屋2 階の報道部を訪ねた。夕刊紙の一番忙しい時間帯にもかかわらず、常務取締役・報道部長の武内宏之氏に応対していただいた。報道部内のホワイトボードの右下に、壁新聞の束が無造作に置かれていた。女性記者が床に広げると、決して上手とは言えない文字で、物資供給の情報や各地の被災状況などが書き込まれている。この写真は、実際に3月14日に避難所に張り出されたものである。16日付は「全国からの激励メッセージ」が紹介されている。限られた情報とはいえ、被災した人々にとって、震災による「非常」の精神状態から「日常」(いつもの日日)へと復帰していくために、身近な地元紙の壁新聞は心の支えになったようである。
私が壁新聞の写真を撮っていると、武内報道部長は、「そんな大事になるとは思わないでやっていたのですが」と、照れくさそうな表情で語った。私はそれが大事だと思った。
輪転機がまわらない、携帯もつながらない。いま何をすべきかを議論して、結局記者たちがやったことは、現場を取材すること、それを書くことだった。足で歩いて集めた情報を、手書きで伝える。「瓦版(かわらばん)」の原点だろう。この「あたりまえ」のことがなかなかできない。彼らがやったことは、ジャーナリストの原点だったと言えよう。
そこで思い出した。1994年8月、広島県・宮島で開かれた日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)の研修会で講演した際、それと接続するシンポジウムに、むのたけじ氏(1915年生まれ、元朝日新聞記者)が参加しておられた。その時、むのさんが語った言葉が鮮烈だったので、よく覚えている。曰く、「ジャーナル」というのは航海日誌という意味である。航海中の出来事を日々淡々と記していくことが求められる。それを行うのが航海士、すなわちジャーナリストである。同様に、世の中で毎日起きることを書く。それをずっと続けていく。社会における新聞や新聞記者の仕事というのは、そういうものだという。
スクープやトピックを追いがちなのだが、ジャーナリストの原点は実はこの「日々記録する」という点にあるのではないか。
石巻市双葉町の社屋では、3月18日に電気が通って輪転機がまわり、まずは「大震災から1週間」という号外を出す。翌19日、ついに本紙が復活した。震災前は1万4000部だが、震災後は連日7000部を発行して、無料で50カ所の避難所などで配布している。トップ見出しは「皆でがんばっぺぇな ミニ自治組織で生活改善」である。コミュニティ再建に向けた力強いメッセージを打ち出している。右下に「読者の皆様へ」という社告が掲載されている。
「東日本大震災に停電となり、12日から18日まで手書きによる壁新聞やコピー機を利用して一部の地域に号外を発行してきました。19日午前、社屋に通電したため、同日から当面、特別紙面2ページで避難所を優先しお届けします」
今回の取材では、岩手県大船渡市にも行った。大船渡の知人が、地元紙『東海新報』の鈴木英彦社長に私を紹介したいというのだ。私はいわゆる東海地方ではないのに、「東海」と名付けた新聞を初めて知った
まず、知人の案内で、高台の道路から大船渡市内を撮影した。津波がどこまで到達したかがはっきりわかる。まさに「道路一つで」の世界である。このアングルは、『東海新報』3月12日付号外と同じ位置から撮影したものという。
大船渡の海に面した道路から、さらに上がった高台に『東海新報』の社屋はあった。鈴木社長の部屋はオーシャンビューで、太平洋がよく見える。社長はそこから津波が押し寄せてくるのを目撃したという。
同紙は1958年創刊。大船渡市を中心に1万7000部。しかし、津波で読者にも多くの死亡・行方不明者が出て、1万1000部にまで減少したという。いま、避難所でも配布している。社長さんから、震災後の『東海新報』のすべての紙面をいただいた。
それを見ると、同紙の津波直後の紙面づくりは、捜索活動を中心に伝えている。4月2日付からは2頁全面を使って「身元不明遺体情報」を掲載しはじめた。遺体安置所にある遺体の番号と特徴を示したものだ。例えば、大船渡一中の安置所の番号(10)は「30~50代女性、身長150センチ、茶フード付きベスト、黒ズボン、茶セーター、紫肌着、茶靴下、黒パンプス、へそ下に手術痕、腕時計」とかなり詳しい。各地の遺体安置所にある遺体の特徴が、直接そこへいかなくてもわかる。身内を捜す人々にとっては、特定につながる情報がたくさん含まれているだろう。
4月に入ると復興への具体的な課題や方策などへの関心がトップ記事になった。「公共下水道が仮復旧」「仮設住宅に高い関心」「7月に水道復旧」「気仙沼大橋9月末の完成目指す」等々。期限をきった目標ができると、人々も希望が持てる。だが、この国の政府は、国民に対して、信頼するに足る復興への指針を与えられない。
仮設住宅を作るのでも、利用者の意向を無視した建設「計画」になることをいかに防ぐか。メディアのチェックも有効である。阪神大震災の後、西宮市にできた「高齢者・障害者用仮設住宅」は、急な坂を10分近く歩かないと着かないところにあった。せっかく建設したのに、1年半も入居者ゼロだったという。東北でも同じ轍を踏まないようにすることが大事である。それには、新聞が被災者の声を拾いながら、復興過程の中身にきちんと関わっていくことが必要だろう。