8月末まで、ゼミ合宿(広島)や憲法理論研究会合宿(島根)が続くため、今回は既発表原稿を転載することにしたい。6月6日に脱稿した「東日本大震災と憲法」(『法律時報』2011年7月号1-3頁〔法律時評〕)である。最新の死者・行方不明者数などは注で補ってある。
会期を70日間延長した第177回国会(常会)は、この31日に閉幕する。この直言が更新される頃、民主党代表選挙が行われ、新しい首相が決まる模様である。やはりこのことについて一言述べておきたい。
思えば3月11日(金)の朝刊各紙は、「菅首相の違法献金の疑い 104万円、在日韓国人から 首相側は未回答」(『朝日新聞』3月11日付)という問題を大きく取り上げていた。小沢一郎氏の「政治とカネ」の問題で強引な「小沢切り」をやった菅首相としては、同じ「政治とカネ」の痛いところをつかれたわけである。その4日前には、前原誠司外相が「在日韓国人からの献金」問題で辞任している。
国会では、この日、午前8時55分から参議院決算委員会が開かれていた。議事録を見ると、菅直人首相はじめ主要閣僚が参加している。午前中の審議では、野党・自民党の追及はこの問題から始まった。そして、「マニフェスト」と実際の政策との齟齬が各論的に追及されていった。昼前、11時54分に休憩に入る。この午前中の審議の模様を報じた『朝日新聞』11日付夕刊1面トップは、「菅首相『外国籍と知らず』 献金問題、辞任を否定 退陣論高まる可能性」という見出しを打った(東京本社夕刊4版の締め切りは13時)。
午後1時再開。鶴保庸介委員長「休憩前に引き続き、平成21年度決算外2件を議題として、質疑を行います」。菅内閣の政策についての各論的追及は続く。午後2時46分過ぎ、ちょうど自民党の岡田広議員(茨城県選出)が質問中だった。議事録を見ると、年少扶養控除の廃止について質問をした直後、答弁に立った高井康行・厚生労働省雇用機会均等・児童家庭局長が、「御説明させていただきます。議員から配付されております…」と述べたところで、突然、記事録には、「委員長(鶴保庸介君)『ちょっと速記をお止めください』〔速記中止〕」、「委員長(鶴保庸介君)『速記起こしてください。それでは、暫時ちょっと休憩させていただきたいと思います』午後2時50分休憩〔休憩後開会に至らなかった〕」とある。
なぜ答弁途中で休憩に入り、その後再開されることはなかったのか。それは東日本大震災発生のその時だったからである。「速記中止」のため何も議事録には残っていないが、その時、第一委員会室のシャンデリアは大きく揺れ、菅首相は腰を浮かせて椅子をつかみ、議員たちは腰を屈めるなどして退避を始めていた。通常なら委員長は、お昼休みに入るときは、「午後1時から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします」と宣言するし、その他の場合は、「この際、暫時休憩いたします」という。「暫時ちょっと休憩させていただきたいと思います」という言い方は、国会ではきわめて珍しい。議事録には、激しい揺れに動揺する委員長の言葉が記録されていた。
もし何もなければ、3月11日付夕刊が報じたように、首相への風当たりは一気に増して、12日以降どこかのタイミングで政局になっていた可能性が強い。だが、すべてをこの日の「14時46分」が変えてしまった。大津波と原発震災という、史上かつてない規模と内容の大震災が起きたからである。風前の灯火だった菅内閣にとって、この時点での大震災の発生は、「奇禍」(思いがけない災難)というよりは、むしろ政権延命のための「奇貨」(利用すれば思わぬ利益が得られそうな事柄または機会〔『大辞泉』〕)だったのではないか。
半年が経過して思うことがある。大震災時の首相が菅直人氏でなかったらどうだっただろうか、と。2009年夏の政権交代の結果、「政治主導」(実は「未熟な政治家指導」)により、政治家と官僚の関係は著しく悪化した。中央政府と地方自治体との関係もギクシャクした。ただでさえ「小泉構造改革」により、公務員の数が減らされ、医療、福祉などの経費削減により、地方が細く、弱っていた。そこに大震災である。この国のあらゆる力を結集して事にあたることが求められるときに、残念ながらすべてが後手に回った。その一方で、総理大臣は思いつき的に動き回り、過剰な介入を行い(東電本社乗り込んで幹部を怒鳴り散らしたり、震災直後にヘリで福島原発に飛んだり…)、行政各部がうまく作動しないときに、総合調整発揮もできず(3、4月の重要な時期の復旧の遅れ)、復興のための基本方針をすぐに打ち出すことができず、具体的な施策をことごとく停滞させた。原発問題では、嘘をつき、事実を糊塗し、誤魔化し、適切な手を打たず、そして居直った。「私は原子力に詳しいんだ」という思い込みが、事態をさらに悪化させた。酪農家や農民、福島の人々の中央政府への怒りは深い。だが、政府が政府の体をなしていなかったことが大きい。この国の巨大な行政機構は集中力を発揮できず、個々的に作動する、まさに「政治手動」になっていた。菅直人氏への「送別の辞」を書き出すとキリがないので、このあたりでやめておく。それにしても、220日を費やした第177国会とは何だったのだろうか。
民主党代表選には脱力させられる。最大与党のトップを選ぶ選挙は、この国の首相を選ぶことに連動する。かつては「総理総裁」だったが、現在は「総理代表」である。しかし、それにしても「役者」が貧困ではないか。選挙というにしてはあまりに短期間である。しかも政策論争が何もない。突然、前原誠司氏が立候補。その「破壊的軽口」と、梯子はずしの達人ぶりにおいて飛び抜けており、こんな人物が首相になるなんて、もはや「悪夢」であると書いたことがある。
これ以上コメントする時間もないので、以下、6月に書いた原稿を転載することにしたい。お読みいただければ幸いである。特に3の「復興への課題」は、国会がこんな終わり方をしないようにというかすかな期待をこめて書いたのだが、見事に裏切られそうである。なお、8月26日、菅首相は退陣を表明した。
東日本大震災と憲法
1 大震災の現場へ
筆者は4月最終週、東北の被災地に滞在した。ルートは、郡山市の避難所から、「計画的避難区域」の飯舘村、深刻な津波被害も受けた「緊急時避難準備区域」の南相馬市へ。そこから県道相馬浪江線を南下すると、すぐに警察車両に行く手を阻まれた。立て看板には「災害対策基本法により立入禁止」とある。写真を撮ろうと近づくと、広域応援の警視庁第3 機動隊員から執拗な職務質問を受けた。私が現地入りする5日前に、福島第一原発20キロ圏が、災害対策基本法63条に基づく「警戒区域」に指定されていたのである。迂回を重ねながら、国道6号(陸前浜街道)を北上し、宮城県石巻市に向かう。女川町では、東北電力女川原発内に入り、所長代理と副所長から、原発内に避難した住民のことなどについて直接話を聞いた。そして、南三陸町、気仙沼市、岩手県陸前高田市、大船渡市、釜石市、最後は大槌町吉里吉里地区(注1)まで行った。走行距離は800キロを超えた。
今回の取材は、郡山の知人がコーディネートしてくれたものである。地震で陥没した道路、日々変わる通行止めの箇所、復旧作業による突然の片側交互通行と渋滞。倒壊した建物の合間をぬうように車を走らせ、筆者を安全に現場に導き、人々に会わせてくれたのは、「案内はこの人に!」と知人が太鼓判を押した白土正一氏である。現住所は郡山市「ビッグパレットふくしま」(富岡町と川内村住民の避難所)(注2)。昨年3月まで富岡町生活環境課長を務め、同町の原発安全対策の実務責任者だった。福島県原子力発電所所在町情報会議事務局を8年にわたり務めてきたこともあって、原発の所長クラスとも顔見知りである。定年退職後、新しい仕事を始めようとしていた矢先の震災だった。長い道中、白土氏から、東北地方や福島の現状、そして原発と自治体をめぐるさまざまな問題、復旧・復興に向けた課題などについて「集中講義」を受けることになった。
2 大震災後の憲法記念日に
3月11日、この国はマグニチュード9.0 の大地震と巨大津波、それに原発事故を加えた「複合的カタストロフ(大災害)」に見舞われた。被災地域は太平洋沿岸の南北600 キロにわたり、死者・行方不明者は2万3636人とされている(6月5日現在)(注3)。この地震・津波災害からの復旧・復興と、原発事故の収束と放射能汚染問題の解決には、難しい対応と配慮が求められる。白土氏はいう。「地震・津波の被災者たちは『がんばろう』『復興へ』と言われれば力がわいてくるが、福島の原発周辺の避難民にはそれがない。生きる気力が失われ、落胆が絶望に変わりつつある」と。原発事故により、生活の先が見えないことへの不安感と焦燥感が生まれている。「それを少しでも改善するには、金銭的な手当てしかない」と白土氏は強調する。「東北の復興」と一律に言えない複雑な問題がそこにある。被災地から戻るとすぐ、震災後初の憲法記念日がやってきた。新聞各紙の社説はいずれも、東日本大震災と憲法との関係について触れている。『朝日新聞』5月2日付には、2人の憲法研究者がコメントを寄せていた。その一人はいう。
「今回の大震災は東京が焼け野原になった敗戦のダメージに匹敵する事態だ。…憲法に盛り込まれた生存権は、当時衣食住が不足する中で国の理念を掲げたことで、戦後復興を果たす役割を担った。再び国民ががれきの中にいる今だからこそ、生存権が光り輝いているのではないか」(高見勝利氏)。市街地が壊滅した南三陸町や陸前高田市の「がれきの中」から帰宅したばかりの筆者に、この言葉は重く響いた。施行64年目にして、憲法と生存権への新たな眼差しを感じた。
他方、もう一人はいう。「憲法はドラえもんのポッケではない。生存権をどこまで実現すべきかは、憲法からはなかなか導き出せない話。生存権を実現するための制度というのを、まず国会が決めてくれればそれが話のとっかかりになる。…国会の場で十分議論して、最低限の生活再建までは面倒をみるべきではないか」(長谷部恭男氏)。
憲法の守備範囲を明確にするという観点からは、「〔制度の〕運用の仕方がおかしい。…制度と制度の整合性が取れていない」(同)という時こそ、憲法の出番ということだろう。憲法の一般論として言えばその通りだろう。「ドラえもんのポッケ」の例えも、憲法への過剰期待(憲法への過剰負荷)を回避する問題意識からのものだろう。
筆者自身は、憲法施行64周年の直前に起きた大震災の現場で、また帰宅後も頭にその鮮烈な光景が蘇るなかで、憲法の役割はどこにあるのか、憲法研究者は何ができるのか、何をなすべきなのかと悩み、考え続けている。
3 復興への課題――憲法からの視点
憲法の視点から、復興に向けた課題について、若干の点を指摘しておきたい。
第1に、大震災の現場では、生活再建以前の状態にある被災者が多数存在していることである。災害救助法23条に「救助」の種類が10項目列挙されている。即ち、(1)収容施設(応急仮設住宅を含む)の供与、(2)食品の給与と飲料水の提供、(3) 被服・寝具など生活必需品の給与・貸与、(4)医療・助産、(5)被災者の救出、(6)被災住宅の応急修理、(7)生活上必要な資金、器具等の給与・貸与、(8)学用品の供与、(9)埋葬、(10)政令で定めるもの(死体の捜索・処理、住宅周辺の瓦礫の除去(災害救助法施行令8条))である。いま、衣食住のなかで、特に「住」が切実な問題となっている。仮設住宅の建設は、阪神大震災の時と比べても、かなり遅れている。
各地の避難所をまわったが、プライバシーさえ守られず、劣悪な環境下で、被災者の精神的疲労は極限に達していた。政府は優先順位を高めて取り組むべきだろう。「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)は、政局にうつつをぬかす国会を覚醒させる鋭さをもつ法理を磨きあげる必要がある。
第2に、大震災に十分対応できない政府を批判しつつ、他方で「憲法に非常事態条項を盛り込むべきだ」という声が出ていることである。今回、「著しく異常かつ激甚な非常災害」(災害対策基本法28条の2)として、首相を本部長とする「緊急災害対策本部」が設置された。また、原発事故対処の原子力災害対策本部も設置された。しかし、「災害緊急事態」(同法105条)の布告は行われなかった。阪神大震災の時は関西だから、今回も東北地方が中心だから、なのか。首都圏直下型地震の時にしかこれは使われないのだろうか。緊急措置を政令で行うことなどを定めるこの仕組みは、それをどう評価するかは別にして、国家緊急権の制度化の側面をもつ。憲法9条との関係で戦争・武力行使の方向には閉じられているが、「地震国の憲法」として、国民の生命・財産を守るため、大災害時に必要な権限の臨時的集中の仕組みは、厳格な要件のもとで許容されるだろう。
だが、震災後の現実は、児戯的な「政治主導」にこだわる首相の判断で、20あまりの対策本部等が林立し、それぞれ足を引っ張りあう状態が1カ月以上続いた。5月になってようやく「乱立震災『本部』3つに」整理された(『朝日』5月6日付夕刊)。「阪神」の時は、首相権限強化が盛んに言われたが、さすがにいまそれを言う人は少ない。改善されるべきはシステムではなく、それを運用できない人と政治である。
第3 に、国民の権利制限や負担に関しては、十分な根拠と議論が必要である。津波で家が流され土地を区画整理区域に指定して、その土地に建築制限を課した場合、財産権の制限であり違憲という主張も当然出てこよう。制限の必要性を納得してもらうためにも、地域社会の復興を、できるかぎり地方自治体に担わせることが大切である。
その点で第4に、憲法の地方自治の原則が活かされるべきである。国・地方自治体の広域応援、多種、多様な民間団体、個人ボランティアなどがさまざまな活動を展開してきたが、これは長期的活動に適さない。やがて、応援態勢は終了に向かう。これからの持続的な活動は、地元の自治体が中心になる。だが、大槌町のように町長と職員を失ったところもある。地域コミュニティの担い手の再建は不可欠である。災害の復旧から復興に向かう過程では、救助・救援時の集中モードを解除して、権限を可能な限り地方に委ねることが大切である。「復興基本法」で設置される「復興庁」も、被災地に前方展開して、福島市か仙台市に置かれるべきだろう。
東日本大震災では、自衛隊の活動が注目された。憲法の視点からこれをどう診るか。項を改めて述べておこう。
4 東日本大震災と自衛隊
自衛隊の「主たる任務」は「国」の「防衛」である(自衛隊法3条1項)。災害派遣は「従たる任務」だが、国民の自衛隊支持の中心は実はそこにある。東日本大震災では、自衛隊の「本務」ではなく、その「従たる任務」が全面的に展開されることになった。
初動の救助活動から救援物資の輸送、給水・給食、入浴支援に至るまで、10万6000人態勢という史上空前の災害派遣が行われた。陸自15個師団・旅団の6割以上が動員され、航空機550機、艦艇50隻以上が展開した。この大部隊の指揮は、東北方面総監に一元化された。「有事」(外部からの「武力攻撃事態」)における「統合任務部隊」(JTF)が、災害派遣で初めて編成された。「武力攻撃事態」における仕組みが、大震災で「試用」されたわけである。
震災に便乗して、日米の軍事関係を一気に強化するような動きには警戒が必要だが、広範囲に広がった被災地において救助・救援の活動を行うには、集中投入が必要となる。その点、自衛隊は国内最大の組織的マンパワーをもつ。航空機、艦船、車両による組織的かつ迅速な輸送能力もある。大規模災害の場合、人命救助と災害救援の必要性と緊急性の観点から、その集中投入には、現時点で合理性があった。
これは、阪神大震災の教訓から、災害派遣が、自衛隊の組織、装備、訓練、運用思想の面にさまざまな変化を及ぼしてきたことが指摘できよう。組織的には、災害派遣割当部隊が戦闘職種にも常設されるようになった。また自衛隊の装備は火器・弾薬、車両、施設器材、航空機、通信・電子器材、需品・化学・衛生器材の6つから構成されるが、災害派遣では、火器・弾薬を除いた装備が「転用」されてきた。特に「人命救助システム」は、倒壊家屋にいる人を捜索し、救助するのに有効なエアジャッキや探索用音響探知機、ファイバースコープなど、東京消防庁ハイパーレスキューがもつ高度救助器材を含む。「人命救助」というネーミングも含め、自衛隊の軍用装備の「転用」ではなく、人命救助「専用」の装備と言えよう。
戦闘後方支援として隊員の食事や入浴のための装備(浄水セット、野外炊具、野外洗濯セット、野外入浴セットなど)も、「阪神」以来、被災者支援の方向で活用されるようになった。訓練面では、「みちのくアラート2008」という本格的な災害派遣訓練を積み重ねていたことも大きい。
運用思想の面から見ると、「国を守る」ことを主たる任務とする「軍」が、「人命救助」という形で個々の国民を守る任務を際立たせていけば、ある種のパラドックスを内包することになる。
そもそも「軍」の本質的属性は「国家」を守ることにあり、個々の国民を守ることではない。憲法9条との関係で、内閣法制局が1954年に「自衛力合憲論」(軍隊や「戦力」は違憲)という解釈を打ち出してから、すでに半世紀が経過した。この「自衛隊は軍隊ではない」という建前は、今日もなお維持されている。「軍」として実態を具備し、アフリカ東部のジブチに初の「海外基地」(『読売新聞』5月28日付夕刊)までもつに至った自衛隊。大震災によってその存続をかけた全力出動を行った結果、国内外の評価を大いに高めることになった。同時に、今後、部内の自己評価にも影響を与えていくことは疑いない。その時、「軍」としてのあり方を強化していくのか、それとも国民に感謝される災害派遣の能力をのばしていくのか。21世紀型軍隊の「多機能化」という問題にとどまらない、より本質的な議論が求められている。より詳しくは、拙稿「史上最大の災害派遣――自衛隊をどう変えるか」(『世界』2011年7月号)を参照されたい。
余談だが、藤子プロの公式サイト「ドラえもんチャンネル」のトップページには、「あなたはけっして一人じゃありません」といった被災地・被災者へのメッセージが掲載されている。また、横山泰行氏(富山大学教授)が「ドラえもん」全作品を調査・集計した結果によると、ポッケのなかの道具は1963個あるそうである(『北陸中日新聞』2004年4月2日付)。憲法は何でも取り出せるポッケではないが、大災害のなかで、そうあってほしいという願いを背負ったものであることもまた確かだろう。そして、ポッケの道具は使い方が肝心である。
なお、被災地報告は、筆者のホームページのバンクナンバーを参照されたい。
(注1)「この夏に会いたい――井上ひさしさん ユートピアの思想」(『毎日新聞』20 11年8月5日付夕刊)に私のコメントが掲載された。これは直言「大震災の現場を行く(6・完)――大槌町吉里吉里」を読んだ記者の取材に応じたものだが、記者の勘違いで、記事には、私が吉里吉里地区を訪れたのが今年6月となっている。正しくは4月である。
(『法律時報』83巻8号〔2011年7月号〕1-3頁(法律時評)より転載)