大臣の「一挙手一投足」――軍服を着た独副首相 2011年9月19日

「絆創膏大臣」を出した安倍晋三内閣と競うような、閣僚辞任レースの始まりを予感させる。就任9日目にして、経済産業大臣が辞任した。理由は実はよく分からない。議員宿舎ロビーにおける「記者とのじゃれ合い」のなかでのことだ。思えば、宮城県知事に対する前防災大臣の暴言も、仙台のテレビ局が報道しなければ全国紙は書かなかった。各紙とも1日遅れて叩きはじめて、大臣辞任につながった。今回もフジテレビがニュースで取り上げるまで、各紙は報道しなかった。だから、大臣の実際の「言動」がはっきりしない。9月10日付各紙は、大臣の言葉として、「放射能つけちゃうぞ」(朝日)、「放射能つけたぞ」(毎日)、「ほら、放射能」(読売)、「放射能うつしてやる」(東京)などバラバラである。

「放射能つけちゃうぞ」と言わなくても、福島から着てきた防災服を擦りつけるような仕種をすれば、その一瞬の行為がそういう意味にとられる可能性は高い。記者はその「仕種」について書き、そのような言葉を使って表現する。「言ったこと」になってしまう。だから、大臣たるもの、自分の一挙手一投足が常に見られていることを覚悟すべきであり、そのことの自覚が求められる。そうでなければ、大臣など受けるべきではない。

問題は大臣の「言動」だけではない。それを報ずるメディアの側にも緊張感が足りない。その「言動」が福島の人々のことを傷つけたと本当に判断したのなら、記者はその場で発言や仕種を含めて、「これ、どういう意味ですか」と問いただすべきだった。記事にしないでおいて、テレビが流すとあわてて批判を始めるのはいかがなものか。「これはオフレコです。書いたらその社は終わりだからな」と前防災大臣が言ったとき、記者の側から笑い声が起こった。こういうことを指して、私は「じゃれ合い」と呼ぶ。『朝日新聞』9月13日付「メディアタイムズ」がこの問題の検証記事を出し、「自社の記者が見たのか、他社報道からの引用なのか明らかにするべきだ」というコメントを載せている。なお、最初に報じたフジテレビの記者がその現場にいたかどうかについて、フジは明らかにしていない。経済産業大臣の辞任につながった「放射能」云々については、メディア側に問題があることを忘れてはならないだろう。

政治家の発言の軽さは今に始まったことではない。私はこの現象を「政治の戯画化」と呼んだことがある。そもそも自民党は、鬼の首でもとったように、野田内閣を批判できるのだろうか。「言葉の暴風」というのは、自民党政権下、特に麻生太郎内閣の時がひどかった。2008年8月豪雨の際、「これが安城や岡崎だからよかったものの…」発言、同じ頃の「アルツハイマーの人でもわかる」発言、民主党をナチスに例えるような発言等々、読者の皆さんはもうお忘れだろうか。ほんの3年前のことである。

麻生首相のもとで行われた衆議院の解散のこともご記憶だろうか。私は「衆議院解散、その耐えがたい軽さ」と書いた。麻生首相は「私が判断する」「私が決める」と解散時期を引っ張れるだけ引っ張った。そのため、解散から総選挙までの日程が、戦後22回の総選挙のなかで、憲法の許容限度である40日間(憲法54条1項)になった初めてのケースとなった。現職の再選だけを狙って、ぎりぎりまで引き延ばした結果だった。この解散による総選挙の結果、政権交代が行われ、鳩山内閣、菅内閣、野田内閣とつながっていくのである。「きっかけは…」であることを考えれば、自民党も偉そうなことはいえない。

大臣というのは、その一挙手一投足が注視され、報道される。総理大臣になれば、安易な例えや冗談もいえない。言葉づかいも細心の注意が求められる。しかし、その憲法上の地位と権限の大きさからして、当然だろう。
   「投げやり」な表情、言葉、態度が際立っていた福田康夫首相。北京五輪のとき、整列した日本選手団を前にして、「せいぜいがんばってください」と挨拶した。「せいぜい」という言葉に、選手も視聴者も違和感をもった。首相が「精いっぱい」という意味でその言葉を使ったことは明らかである。しかし、福田の日頃の表情や言動から、「せいぜい8位ぐらいだろう」という際に使う「せいぜい」の方に傾いた。まさに「身から出た錆」である。

さて、野田内閣である。これから「言動」が叩かれる可能性のある大臣ばかりである。発足時にとりあえず官房長官と財務大臣の選任について疑問を提示しておいたが、その時、国家公安委員長(消費者・食品安全、拉致問題担当兼務)や防衛大臣も加えるべきだったと思う。前者は、マルチ業界との関係が国会でも繰り返し取り上げられている人物であり、後者は就任早々、「私は安全保障の素人だが、それが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」という意味不明なことを語っている(『朝日新聞』9月3日付)。石破茂元防衛相(現・自民党政調会長)は早速これにかみつき、「(その一言で)閣僚解任に値する。任命した野田佳彦首相の見識も問われる」と批判した。件の一川保夫防衛相は、「国民目線で判断しながら、国民に防衛政策や安全保障を理解してもらったうえで政策を推進しなければいけない、という気持ちで言った」と説明してみせた(『朝日』同)。

一般論として言えば、やたら軍事に詳しい大臣がいいわけではない。「破壊的軽口」の前原誠司と石破茂が民主・自民の政策レヴェルのトップを占めた。この組み合わせは危ない石破が防衛庁長官をやって、この国を軍事的に前に進めたことは記憶しておく必要がある。制服・官僚と大臣の発想がイコールならば、政治家大臣を置く意味がない。ただ、一川がいう「国民目線」という物言いが入ってくるとややこしい。のらりくらりと「専守防衛」政策を定着させてきた老練な政治家たちがいなくなり、今はフットワーク軽く、米国との一体化の道を驀進している。「動的防衛力」の危なさはすでに指摘した

軽さという点では、ドイツも同様である。いま保守のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と自由民主党(FDP)のメルケル連立政権、その副首相兼連邦経済技術大臣はFDP党首のフィリップ・レスラーである。彼は38歳。とにかく若い。加えて、ベトナム生まれの戦争孤児である。1歳になる前にドイツに来て、ドイツ人夫妻の養子となった。大学で医学を学び、連邦軍の軍医見習い士官となった。医学博士号も取得して、予備役軍医大尉でもある。

そのレスラー経済大臣が、7月8日、北部のハノーファー市で開かれた第1戦車師団の夏の露営(ビバーク)に参加した。その時、彼は予備役将校の軍服を着てきた。これは、その2日前の閣議の際、デ・メジィエール国防大臣がレスラー大臣にそのことを強くすすめたことによるという。冒頭の写真は、『シュピーゲル』誌が報じた、露営におけるレスラー大臣である(Der Spiegel,Nr.30 vom 25.7.2011,S.16)

同誌は、レスラー大臣は「防衛事態」(外部からの武力攻撃事態)の際に命令・指令権を行使する連邦首相の代理でもある。理論的には、レスラー予備役軍医大尉は、メルケル首相に事故あるとき、部隊の最高指揮官となり得る。したがって、国防大臣が制服着用をすすめたことは、閣僚クラスの将校が軍事問題における「政治の優位」を掘り崩すかという問題を投げかける。政治と軍事の厳密な分離は、1955年のドイツ再軍備以来、新しい連邦軍の中心的要素である。ベルリン自由大学のウルリッヒ・バッティス教授(国法学)は、レスラーのタブー破りを疑問視する。「大臣は連邦軍の慈善の催しに、将校としてではなく、副首相としているのである。そうである以上、彼は制服を着用できない」と。

他方、ゲッティンゲン大学のヴェルナー・ホイン教授は、全体としてこれを「趣味の問題」とみて、「政治の優位は、彼がインディアンの恰好をしても廃棄されることはない」と述べる。『シュピーゲル』誌は、純粋に法的にみた場合、レスラー大臣は何も非難されることはない。彼は、「社交的な態様の勤務上の催し」に際して制服の着用を申請するため、正式の申告用紙に書き込むことを怠った。しかし、国防大臣の同意は、防衛担当部局の言によれば、許可(Genehmigung) として十分である。こういう肯定的評価で結ぶ。

シビリアン・コントロール(この定義は多義的な混乱がある)は、ドイツの場合、「政治の優位」と表現される。「防衛事態」において、首相(あるいは事故あるときは副首相)が連邦軍の最高指揮権をもつ。このことへの自覚がレスラーに足りなかったようである。国防大臣も、同僚の閣僚に軍服を着せて参加させたのは軽率の誹りを免れない。個々の言動から、細かな一つひとつの動作に至るまで、大臣たるもの最大級の注意と配慮が必要となる所以である。

(文中敬称略)

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