会長をしている早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団(WPO)が、早稲田大学ボランティアセンター(WAVOC)の震災復興支援ボランティアに参加して、猛暑の8月9日から11日まで岩手県陸前高田市と宮城県名取市閖上(ゆりあげ)で演奏活動等を行った。5月の定期演奏会での追悼演奏(バッハ「アリア」)に続いて、「日頃行っている活動を通じて少しでも力になれるなら」との思いから有志が集まった。3年生ばかり、弦楽四重奏(カルテット)のヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ各1、木管五重奏(クインテット)のフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン各1、そしてパーカッション1の計10人である。
早稲田大学では、7月9日に卓球部が岩手県立高田高校で練習指導を行ったのを皮切りに、体育系各部や文科系・芸術系サークルの学生たちが震災で被害を受けた地域に入って、それぞれがそれぞれの特質を活かした活動をしている。8月11日には応援部が岩手県に向かい、宮古市で公開ステージ等、盛岡市では復興祈念チャリティライブ。音楽系では、アカペラサークルの「ストリート・コーナー・シンフォニー[SCS]」が岩手県藤沢町の介護老人施設などでコンサート(『岩手日報』8月30日付)。男性合唱団「早稲田大学グリークラブ」も宮城県石巻市でコンサートを開いている(『石巻日日新聞』9月6日付)。
その多くはWAVOCが支援しており、学生たちは現地の状況について事前に十分に説明を受け、準備をして臨んでいる。早稲フィルの活動もそうした学生サークルの活動の一つである(「震災復興支援ボランティア特集~届け! まごころ~」Waseda Weekly,No.1259(2011年10月27日参照)。
8月9日にWAVOCが出したバスには、早稲フィルのほか、ボクシング部とパントマイムサークル「舞☆夢☆踏」も乗っていた。現地で早稲フィルメンバーはとても大切な体験をしたようである。インスペクター(幹事長)の小野洋奈さん(社会科学部3年、クラリネット)の「現地レポート」を以下、転載することにしたい。
早稲フィル・震災復興支援ボランティアについて
小野 洋奈
7月中旬、早稲田大学ボランティアセンター(WAVOC)の橋谷田雅志さんから、岩手県立高田病院での演奏依頼をいただいた。日頃行っている活動を通じて少しでも力になれるなら、と3年生を中心に有志をつのった。カルテットとクインテットの編成で参加することになった。
7月21日、水島朝穂会長にお会いして参加の許可をいただき、「音楽は人に力を与えることができる。心を込め、しっかり演奏してきてください」という励ましのお言葉をいただいた。31日、水島会長からメールが届いた。その夜10時からのテレビ番組をみるようにとのご指示だった。NHK・ETV特集「失われた3万冊のカルテ――陸前高田市・ゼロからの医療再生」。この番組を全員がみた。津波で病院の建物が破壊されたが、仮設の病棟を建設して診療を始めている石木院長はじめ病院の方々のことを事前に知ることができた。身の引き締まる思いがした。
8月4日、参加サークルの事前合同説明会に参加した。そして出発当日の9日22時から、メンバー全員でWAVOCの直前合同説明会を受けた。職員の方から、最新の状況をお聞きした。「事前説明会から5日しかたっていないが、現地の状況とボランティアのニーズは絶えず変化しています」「『瓦礫』(がれき)という言葉は使うべきではない。人々の思い出がつまったものです」「被災地ではなく、故郷なのです」。ハッとする指摘だった。
23時、大学をバスで出発。10日朝8時に陸前高田市に到着した。テレビ映像で何度もみた光景ではあるが、実際に目の前にしてみると、言葉を失う。津波で破壊された県立高田病院の前を通る。近くから見ると4階の窓まで割れており、津波がいかに高く、激しいものだったのかがわかる。「海への恐怖を感じた」(ヴァイオリン女子)、「津波が到達したところと、そうでないところとの落差が激しく、ショックを受けた」(ホルン女子)。
11時40分から介護施設「高寿園」で演奏。曲目はバッハ作曲「G線上のアリア」、ドヴォルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」より第4楽章、そして木管五重奏曲「日本のうた」である。選曲の際、「アリア」は必ず入れるように弦のメンバーに要望しておいたものだ。震災後の5月に行われた定期演奏会では、この「アリア」で追悼演奏を行っている。
「アメリカ」については、「新たな曲を練習する時間がなかったので、レパートリーのなかから探した。ドヴォルザークは明るく前向きな楽章を選んだ」(ヴィオラ女子)。木管のクインテットには私も参加した。「日本のうた」というのは日本民謡のメドレーで、親しみやすい曲が多いということに加え、決め手は「ふるさと」で曲が終わるという点だった。現地の人々にとって陸前高田は「被災地」ではなく、「故郷、わが町」なのだから。
14時に県立高田病院に到着し、会場作りとお土産を渡す準備をした。16時から病院のロビーで、「クラシックとパントマイムの夕べ」が始まった。会場には病院関係者を含め100人が集まった。バッハの「G線上のアリア」に始まり、ドヴォルザーク「アメリカ」の第2楽章と第4楽章を演奏した。そして木管五重曲「日本のうた」。アンコールとして、会場からのリクエストにこたえ、コンサートマスターの酒井義人君(理工学部3年)が即興で、陸前高田出身の歌手、千昌夫さんの「北国の春」を演奏した。
実は、これには裏話がある。午前中の「高寿園」での演奏終了後、入所者の皆さんから「北国の春」をリクエストされたのだった。けれど、私たちはこれに応えることができなかった。笑われるかもしれないが、メンバーの誰一人、この曲を知らなかったのだ。もちろん楽譜もない。選曲の段階で、地元出身歌手の歌をとりあげるという発想がなぜできなかったのか。「本当のニーズに応えられていなかったのかもしれない」と、私自身、とても悔しい思いだった。
酒井君は病院へ移動するバスのなかで、インターネットで曲を探し出し、それをじっと聴いて覚えていた。夕方のコンサートのアンコールでは、彼は楽譜もないなか見事に弾ききった。私たちを代表して「北国の春」を演奏してくれた彼には、頭の下がる思いだった。
17時30分、病院の方々の見送りを受け、旧大籠小学校に向かう。後に酒井君はこう語っている。「陸前高田の方々は元気に生活されていました。しかし、その裏には悲しみや苦しみがあり、日常を取り戻せていない現実があります。なんとか早く元の生活をしてほしいと思い、地元で生まれ地元に根づいた歌『北国の春』を即興演奏し、一緒に歌いました。陸前高田の方々の地元への思いを歌から感じ、大変感動しました」。
11日9時。宮城県名取市閖上中学校に到着。ここでは、私たちもボクシング部と一緒に、学校周辺の清掃や草刈りなどを行った。
この体育館はお盆の8月13日、灯籠流しの会場となる。その準備のため、校内の体育館と屋上までの階段や通路に電球とランタンを置く作業を手伝った。これは当日会場を訪れる人たちのためだけではない。亡くなった人に「道を教える」という意味もあるのだと聞いて、私は何も言えなくなった。震災当日、この学校には地域の人々が大勢避難してきた。そこを間もなくして津波が襲う。屋上には100人近い人々が取り残され、翌日まで救助を待った。しかし、非常階段がわかりづらく、屋上に上がることさえできずに命を落とした人が数十人もいたということだった。徒歩5分のところに閖上小学校がある。そこでも草刈りなどの作業を行った。体育館は、津波で流された写真や思い出の品々の保管場所になっていた。教室の黒板には、ここを拠点に活動していた陸上自衛隊の人たちが書いた励ましの言葉が残っていた。後で水島会長にお聞きすると、名古屋市守山から来た部隊だという。
13時。閖上中学校体育館にもどり、地域の方々とボランティアスタッフを前にして、短時間の演奏を行った。この学校は3月11日が卒業式だった。壇上は卒業式当日のまま、まるで時間が止まったようだ。私たちはその壇上を背に、「ふるさと」「生きろ」と書かれた灯籠の間のスペースに座った人たちに向かって、ドヴォルザークなどを演奏した。
15時30分、後片付けを含め、すべての作業を終了した。わずか3日間の活動だったが、私たちはさまざまなことを学んだ。まず、津波の被害のすさまじさである。テレビの映像などで想像していたよりも、はるかに巨大で、悲惨なものだった。でも、復興に向けてがんばる人たちの笑顔が忘れられない。高田病院の人たちとはほんとに短い時間しか過ごさなかったけれど、見送られるときには、あたたかい気持ちが身体中に感じられて、思わず涙が出てきた。
そして音楽の可能性である。私はいろいろなところで演奏してきたが、支援物資が並び、「生きろ」と書かれた灯籠の前ではもちろん初めてである。演奏しながら目の前にたくさんの灯籠が見える。一つひとつに魂がある。そんなにたくさんの人たちが亡くなったのだ。心が砕けそうになりながら、しかし、その人たちのためにも音楽を届けよう。そんな思いで演奏した。
私たちがこの3日間でやったことは本当にささやかなことだが、それでも200人近い方々に私たちの音楽を届けることができた。高寿園で、目を細めて聴いておられた入所者の方の顔が忘れられない。何よりも、そこにいる人々にとっては「被災地」ではなく「故郷」なんだということ。言葉の選び方ひとつで、人を思いやることができることも知った。その故郷の曲である「北国の春」を準備できなかったことを心から反省し、即興で弾ききったコンマスには、感謝と尊敬の思いでいっぱいである。
なお、個人的な話になるが、名取市閖上については後日談がある。帰京した私は、東京にいてもできる復興支援活動を探していた。偶然、富士フィルム社主催の「被災地写真洗浄ボランティア」のことを知る。泥をかぶった写真を洗浄し、なんと閖上地区にお返しするというものだった。実際に見た体育館の光景と、現地で聞いたお話が私の頭をよぎる。閖上出身のボランティアスタッフリーダーから、「今後どんなに報道が減ってしまっても、どうか震災があったことを忘れないでいてほしい」と言われていたのだ。私は迷うことなく参加を決めた。震災は、私たちにとっても決して過去のものではない。
最後になりましたが、今回の早稲フィル・震災復興支援ボランティアについてお世話になったすべての皆さまにお礼申し上げます。