新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
9年前に年賀状を「出すこと」をやめると宣言をしたけれど、教え子や友人、知人からは毎年たくさんの年賀状が届く。実は楽しみにしている。返事を出さない勝手と失礼を、この場を借りてお詫びしておきたい。
個人的には、4月に59歳になる。還暦の1年前というよりも、私にとっては、父が急逝した年齢になるという意味が大きい。父より絶対長生きすると決意しながらも、ここ数年健康に自信がなくなっていただけに、今年は完全復活の年にしたいと考えている。
さて、2012年は、それ自体が問題にされている。「2012年問題」である。ご記憶だろうか。12年前の「西暦2000年問題」、“Y2K”問題を。1999年から2000年になる時に、コンピューターが下二桁の“00”を1900年と勘違いして誤作動するおそれがあるとされたのだ。私は当時レギュラーをしていたNHKラジオ「新聞を読んで」でこれを取り上げた。結局、恐れていたようなことは起こらず、すぐに“Y2K”も忘れられた。そして同じ「辰年」がやってきた。「2012年問題」として。
昨年は東日本大震災が起き、世界的な金融・経済危機で大変な年だった。2012年はもっとすごいことが起こると言われている。「世界恐慌近し」なのか。「人類滅亡説」はともかくとして、「団塊の世代」引退による高齢者雇用やそれに伴う社会問題は、予想されてきたとはいえ、いろいろと波及していくことだろう。
国際政治における「2012年問題」も重要である。米、露、仏、韓国などで大統領選挙が行われ、中国では胡錦濤政権から新体制に移行する。北朝鮮では「金日成生誕100年」にあたるが、昨年末の金正日死去で三代目の即位が早まることになり、今後の展開は予断を許さない。日本では総選挙が行われる可能性が高く、政治的激動の年になることだけは間違いないだろう。
とはいえ、これ以上「2012年問題」を語ることはやめておく。その現象形態については、いずれ「直言」でも各論的に論じていくことになるだろう。
ここで、年末に読んだ1冊の本について書いておこう。ベルンハルト・シュリンクという憲法学者(ベルリン・フンボルト大学教授)の『ユートピアとしての故郷』(Bernhard Schlink,Heimat als Utopie,Suhrkamp 2000,S.7-50)である。ずっと書庫に眠っていたものだが、東日本大震災との関連で中身をチェックしようと書斎に移したところだった。
シュリンクは憲法学者として、訳書だけでも『現代ドイツの基本権』(永田秀樹他訳、法律文化社〔2001〕)や『過去の責任と現在の法』(岩淵達治他訳、岩波書店〔2005年〕)があって、学界ではよく知られている。だが、それよりも何よりも、ベストセラー『朗読者』(松永美穂訳、新潮社〔2000年〕)や『逃げていく愛』(同〔2001年〕)、『ゼルプ』三部作(小学館〔2002~3〕)などにより、作家として高名である。私は、『朗読者』は本だけでなく、映画化された「愛を読む人」(米独合作〔2008年〕)を映画館で観てしまった。年上の女性と少年との愛の日常的風景が、最後はナチス裁判の重いテーマにつながっていく。第81回アカデミー賞に5部門ノミネートされ、主演女優賞を獲得している。シュリンクの作品はいずれも、日常的風景や人間関係の描写が淡々と続くなかに、重い歴史的、政治・社会的テーマが巧みに仕掛けられている。
たまたま読んだ『ユートピアとしての故郷』(独文)は、彼が1999年12月、アメリカンアカデミー(ベルリン)で行った講演をまとめた小冊子である。この講演は「ベルリンの壁」崩壊から10年目に行われた。シュリンクは、国際化やグローバル化が際立ってきた90年代、「ナショナルなもの」への還帰はドイツだけの現象ではなく、どこでも生まれていると指摘しつつ、現代人にとって「故郷」(Heimat)とは何かを執拗に問うていく。
旧東ドイツの人々のなかには、東西ドイツ統一後、自分たちを追放(亡命)者のように感じている人たちがいるという。もともと「追放(亡命)」(Exil)という概念は、人が去らねばならない「故郷」という概念の反対概念である。シュリンクは、男性中心社会における女性や、若者中心文化のなかでの老人などが同じような感情を持っていると指摘する。
シュリンクが関わった、『シュピーゲル』誌の世論調査の数字を挙げる。「故郷」とは何かと問われると、ドイツ人の31%が居住地、27%が出生地、25%が家族、6%が友人、11%が国(Land)と答えている。シュリンクはこの数字はドイツだけでなく、欧州でも米国でも同様だろうと推察している。国際化とグローバル化の時代にも故郷は意味がある、ということである。故郷を「国」と答えた者がわずか11%という事実にシュリンクは注目しつつ、こう続ける。ネーションとしての「国」が、故郷の場として問題なく、また近しい、はっきり見えるような充実した場になるには、依然として歴史的に信用を得ていないことを示唆する。シュリンクも自覚するように、「故郷」をナショナリズムや国家主義につなげるには無理があるようである。
ここからシュリンクは、憲法学者として、「故郷を求める権利」(Recht auf Heimat)の理論構成について語り始める。この権利は「そこに住み、働き、家族や友人を持てるような場所」を求める権利と解されている。この権利は、ハンナ・アーレントの言を語れば、「ずばり人権」であり、自由や平等、幸福を求めるすべての権利に先行するとされる。そして、シュリンクは、大要、次のように語る(カギ括弧を追加し、短く要約)。
基本権としての「故郷を求める権利」は、ある場所で法的に承認され、法的に保護されて生きる権利、かつ単に生きるだけでなく、住み、働き、家族や友人を持ち、思い出や憧れを抱くことを求める権利である。法的承認と法的保護を提供するが故に、ある場所を故郷にするという「故郷の権利」(Recht der Heimat)と、何人に対してもある場所を与えるという、人権としての「故郷を求める権利」は、それ自体としてユートピアであるわけではない。権利はしばしば侵害されるが、それは権利の運命である。ユートピアとなるのは、「故郷の権利」や「故郷を求める権利」が、法の世界にその居場所がないときだけであろう。生活の次元がますますグローバルになる将来において、生活の場は変えられ得るだろうし、また生活の場がなくなることもあり得ることである。誕生の地や幼少年期の場所も含めて。それらは、何よりも故郷の感情、故郷の思い出、そして故郷の憧れと結びつく「場所」であり続けるだろう。
以上がシュリンクの「故郷を求める権利」についての要約である。
元来、人々が土地への呪縛、身分的隷属から解き放たれて、自由に移動し、かつどこにでも自由に居住することを権利として保障することは、近代憲法における重要な柱の一つだった。グローバル化や国際化が言われるなかで、シュリンクが指摘するような「亡命者」のような孤独感や孤立感をもつ人々が出てきた。彼のいう「故郷」をもつ権利というのは、いわば「孤人からの解放」ではないか。それは自ずと、「個人」を支える「絆」や「連帯」といったものと結びつく。
あと2カ月で東日本大震災1周年である。だが、「どじょう内閣」の東北被災地に対する鈍重な動き、鈍足・鈍行ぶりはあきれるばかりである。端的な例が、雪がちらつく季節になって仮設住宅に断熱材を入れるという情けない有り様である。とにかく遅い。被災地に目が向かっていない。それでいて、約2カ月前の野田首相の所信表明演説(10月28日)には、「周辺住民の方々が安心して故郷に帰り、日常の暮らしを取り戻す日まで、事故との戦いは決して終わらない」(『朝日新聞』10月28日付夕刊)という威勢のいい言葉が踊る。福島浜通りの人々は故郷を奪われたままである。米国の要求には最速でこたえる野田首相も、被災地の人々の要望には、実行が伴わないだけでなく、「言葉」ですら十分に発信できていない。
大震災の体験は、この国における「故郷」というものの意味を改めて問うた。特に福島第一原発の人災が加わり、田中正造的に言えば「合成(複合)加害」のなか、飯舘村の全村が「計画的避難区域」に指定されたおり、村民のなかに見られた反応を新聞は次のような見出しで伝えた。すなわち、「故郷が消える。避難はしない」(『産経新聞』4月27日付6面)と。
飯舘村は原発とは無関係な村だった。積極的に受け入れたのは浜通り(福島県双葉郡など)の自治体だった。「国策引き受けた故郷」(『朝日』11月26日付総合面)という検証も行われている。また、昨年11月に選挙が行われたときは、「避難者、860 キロ戻り一票 故郷への思い託す 福島同日選」(『朝日』11月21日社会面)。「被災地を取材して『思い出』が生きる支え」(『毎日新聞』6月17日付北海道版)等々。
各紙の地方版には、東北出身の記者に取材させたルポも載った。例えば、「福島、故郷は変わった 山口総局記者、南相馬を歩く 東日本大震災」(『朝日』11月4日山口県版)がその例である。
「故郷」ということで思い出したことがある。水上勉の小説『故郷』である(集英社文庫〔2004年〕)。ニューヨークで日本料理店を営む夫妻が30年ぶりに帰国し、老後を故郷の若狭で暮らそうと若狭にやってくる。しかし、美しい里の山野は15基の原発をかかえる「原発銀座」と化していた。郵便局の幸次郎いわく。「もう若狭は辺境でもなんでもない。11基の原子力発電所が稼働しているし、5年後は15基に数が増える。…原発は、都市化に乗りおくれた後進農村の活性化をはかる目的で誘致されたが、一足とびに村は都市化どころかこのところ国際化や」(143頁)。
米国から戻ってきた富美子に息子たちは、「原発銀座と人もよぶような所へ、わざわざ、老後になって帰ってゆかなくても」。「謙ちゃんにかかるとママの故郷は二束三文になっちゃったけどね。…ママには、この世にたった一つしかない故郷なの」。そして富美子は息子たちにいう。「日本はいま、世界一のお金持ちになれた。…その原動力を国に提供しているのが若狭なのよ。ママの故郷なのよ。ママの故郷のお爺さんやお婆さんがいなければ、日本の今日の発展はなかったかもよ」(261-262頁)。
水上はこのやりとりに続けて地の文で書く。「富美子は心で泣くのだ。どうして外国にきてまで、こんなことを言いあわねばならないのだろう。夫はだまって、きいているだけだった。もちろん、この議論に勝負がついたためしはない」(262頁)と。
この文庫には、古い新聞切り抜きがはさまっていた。水上勉「故郷」の舞台化。文化座が紀伊国屋ホールで1998年9~10月に上演すると報じた記事である(『毎日』1998年8月27日夕刊芸能面)。そこには、この作品に寄せた水上のコメントが載っている。
「15の原発をまねきまねきした若狭の人々の気持ちを代表したつもりで、これだけは書き残したいと思った小説です。9歳で若狭を捨て、故郷はいつも帰ってくるような、いないような場所です。これからも訪ね続けてみようと思います」。
「故郷を求める権利」は、第一原発事故のため避難を余儀なくされている人々にとっても、切実で重要な権利であり続けている。
2011年の「今年の漢字一文字」は「絆(きずな)」だった。2012年はどんな漢字になるだろうか。
〈付記〉写真は、2011年8月に早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団のメンバーが、宮城県名取市閖上中学校で演奏したとき、体育館
にあった灯籠である。